リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 天に本国を置く私たち(フィリピの信徒への手紙 3章)
    しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
    (フィリピの信徒への手紙3章20節)
    言葉の通じない外国に行くことは心細いことで、わたしはインド旅行で不安を経験しましたが、その時の頼みの綱は、在印日本大使館に勤務していた知人の電話番号でした。普段は特別意識しないことなのですが、何が最終的に自分を助けてくれて、どこの誰が自分の味方となり、責任を持って守り、自分の居場所と身分を保証してくれるのかというと、それはやはり自分が属する国なのです。
    『リジョイス』の読者は日本人が多いでしょうし、この手紙を書き記したパウロはユダヤ人でした。しかし、地上の国家的所属を超えて、信仰者は天国に国籍を持っているとパウロは語ります。そして私たちの本国が天にあるということは、私たちが危機に瀕した時の最終的な身分を保証し、最終的に私たちの身元を引き受け、その生活と命の安全を保証してくれるのが、その天の国でありそこにおられる神だということです。
    聖餐式は私たちの身分と存在の証明として、私たちは誰なのか、どこに所属し、誰に守られて生きる者であるのかを、ありありと示してくれます。きょうも私たちは天の本国に属し、守られています。
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  • 神を宝とする(マタイによる福音書 6章)
    「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
    「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
    (マタイによる福音書6章21節~23節)
    なぜ私たちは、世の富に惹かれるのでしょうか?それは、世の富には力があるからです。自分で富をコントロールすることができると考えますが、「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」とあるように、逆に富の方に支配されてしまう弱さが私たちにはあります。ですから何を宝とするのかということが、私たちを左右します。
    私たちは、神を宝とすることで、正しく神によって支配される人生を歩みます。実に、これほど私たちを生かし、富ませてくれる生き方は他にありません。神を自らの宝としても、金銭的な富を謳歌する人生には直接結び付かないかもしれませんが、そこには神に愛される人生が存在します。私たちが神を自分の宝とするはるか以前から、神は、私たちを愛しご自身の宝物とし、神の愛を必ず悟らせてくださいます。
    神を宝として歩む人は、神に守られ、心も顔も素振りもその全身が明るくなります。心が暗くなり、沈み込むこともありますが、聖餐にあずかるとき、キリストの愛に養われている自分を見出します。キリストを見る心の目が開かれている人は、幸いです。
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  • 天におられる弁護者(使徒言行録 7章)
    ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
    (使徒言行録7章55節~56節)
    聖餐式は天におられる主イエスとの結び付きを確認する礼典です。ステファノは殉教の場面で天におられる主イエスが「見える」と言いました。主イエスが神の右に「立つ」という言葉は聖書の中でここだけにしか使われておらず、しかも繰り返されています。
    主イエスはルカによる福音書12章8節で、「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」とも語られていますので、これは天の法廷で、主イエスがステファノの弁護者として、立ちあがって裁判を行ってくださっている場面だと解釈することができます。この時ステファノは不当な裁判にかけられ、石打ちの刑によってまさに殺されようとしていましたが、同時に天の法廷では、主イエスが立って自分を弁護してくださっているのが見えたのかもしれません。その主イエスの様子が見えたことによって、彼は勇敢さを得ました。きょうもあなたのためにも、主イエスは立って無罪を勝ち取ってくださる。私たちはその主イエスと結ばれています。
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  • 成し遂げられた(ヨハネによる福音書 19章)
    イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
    (ヨハネによる福音書19章30節)
    主イエスは「成し遂げられた」と言って息を引き取られました。この言葉を語られる直前、主イエスは十字架の上で、「渇く」と言われました。それは、わたしは干上がったという言葉です。なぜか?それは、注ぎ切ったからです。泉のように主イエスの内側に潤っていた命の水は、十字架の上で注ぎ切られ、主イエスはカラカラになられました。その命の水の、最後の一滴が注ぎ切られたという完了の合図が、「成し遂げられた」という言葉だったのです。では、その主イエスの命の潤いは、どこに向かって注ぎ切られたのでしょうか?
    『ハイデルベルク』は、「教皇のミサ」という言葉に、私たち自身が自分の救いを成し遂げるという自力救済の救いを読み取ったうえで、それを否定しています。
    主イエスは「実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる」とも言われました。十字架の犠牲と死は、私たちの救いのために「成し遂げられた」主イエスからの命の贈り物です。自力でではなく、その命をただ主イエスからいただくことで、私たちは救われ生きるのです。
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  • 新しい契約(ルカによる福音書 22章)
    食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」
    (ルカによる福音書22章20節)
    古い契約(旧約)の時代と違い、新しい契約(新約)に生きる私たちには、救い主がはっきりと示されています。救い主が、今や礼拝の中で、特に説教と聖礼典を通して生き生きと示されることにより、契約の民としての営みがいよいよ新しくされていきます。
    きょうの箇所で主イエスは、この後裏切ることとなるペトロとも新しい契約を交わされました。この後31節で、主イエスはペトロが三度ご自身を否定すること、信仰が無くなる程の事態に陥ることを予告され、その上で「立ち直ったら兄弟たちを力づけるように」と言われています。そして後にすべてを知ったペトロは「激しく泣」くこととなるのです(62節)。
    私たちも、罪を犯した、と後から気付かされることがあります。しかし、既にこの御言葉が与えられていました。すべてを承知の上でご自身を提供してくださる方は、私たちの罪をも担い、十字架へと向かわれたのです。この方が、「新しい契約である」と私たちに今語られ、杯を差し出してくださる。ここに契約の民としての喜びと神の恩恵とを見ます。この恵みを契約の子らに譲り渡してゆきましょう。
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  • キリストに接ぎ木される神秘と生命(ローマの信徒への手紙 6章)
    わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。
    (ローマの信徒への手紙6章6節~7節)
    主イエスは最後の晩餐で、御父を「農夫」、ご自身を「まことのぶどうの木」、弟子たちを「その枝」に譬え、枝が豊かな実を結ぶよう「わたしにつながっていなさい」とお命じになりました(ヨハ15章4節)。キリストと信徒たちは、実りを共有する生命共同体です。しかしこの絆は、初めからあったのではなく、あの十字架において結ばれたのです。
    使徒パウロは、キリストを「オリーブの木」、ユダヤ人を「栽培された枝」、我ら異邦人を「野生の枝」に譬えました。野生の枝が接ぎ木され、栽培された枝が一度は折り取られても再び接ぎ木されて、一つの生命共同体になると教えました(ロマ11章17節以下)。命の絆は、枝を剪定して接ぎ木する農夫の業、すなわち神の選びと召しにかかっています。
    神によって我らがキリストに接ぎ木され、その死のかたちに似せられるなら、その復活のかたちにも似せられます(同6章5節)。この神秘の決定的なしるしこそ洗礼であり、その生命の持続的な保証こそ聖餐です。
    洗礼を受けた私たちは、キリストに結びあわされているがゆえに、十字架と復活のキリストの養いに常に与ります。
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  • キリストの血と体による交わり(コリントの信徒への手紙一 10章)
    わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。
    (コリントの信徒への手紙一10章16節~17節)
    パウロは、コリント教会で聖餐を執行しているかのように、「賛美の杯」を語ります。ユダヤの習慣では、食事の最後に飲むブドウ酒を賛美の杯、あるいは「祝福の杯」と呼びました。
    キリストが最後の晩餐のあるじとして過越の食事にふるまわれたブドウ酒は、「キリストのまことの血」による交わりによって、人が罪を赦され、神との和解に入れられる「祝福のしるし」でした。ゆえに、憐れみ深い神への「賛美の杯」と呼ぶことは、聖餐のブドウ酒にふさわしい。
    このようなキリストとの交わりは、キリスト者相互の交わりへと拡がります。一つのパンを裂いて、すべてのキリスト者が分かち合う聖餐の食べ方は、「キリストのまことの体」による交わりにおいて、教会の本質である「聖徒の交わり」を表します。
    我らはひとつの聖霊に満たされ、ひとつの洗礼を受け、ひとつのパンから食べ、ひとつの杯から飲み、ひとつの信仰に立って、ひとつの希望を分かち、ひとつの愛に生きる。ゆえに「キリストの共同体」と呼ぶことは、聖徒の交わりにふさわしい。
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  • 天からの生きたパンは命の養い(ヨハネによる福音書 6章)
    「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
    (ヨハネによる福音書6章51節)
    ヨハネが伝える主イエスの福音は、給食の奇跡と、贖いの死と、聖餐の教えとが混ざり合っています。
    主イエスが与える食べ物とは「永遠の命に至る食べ物」、すなわち主イエスの御父が与える「天からのまことのパン」です。人々の霊的な飢え渇きを永続的に満たし得る「いのちのパン」とは、「天から降ってきた生きたパン」すなわち主イエスご自身のことです。
    主イエスのもとに来て、イエスを信じた者に与えられる「命の糧」となるために、「天からのパン」は、この地で裂かれねばなりませんでした。主イエスの体が裂かれる贖いの死によってのみ、「聖餐のパン」は信者の「魂のまことの食べ物」となります。聖餐式は、ただ一度の十字架の犠牲を想起して、感謝をささげる礼典です。
    パンが人間の体を養うように、裂かれたキリストの体が信者の魂を養います。ただ信仰をもってキリストの苦難と死を受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命を受け取るのです。
    御父よ、あなたからの命のパンを食べさせ、生ける神のことばを聴かせ、我らの魂を永遠に養いたまえ。
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  • 裂かれたパンは主の体の目印(マタイによる福音書 26章)
    一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
    (マタイによる福音書26章26節)
    キリストが弟子たちに準備させた過越の食事には、律法に従って酵母を入れないパンがありました。当時の過越祭で、実際に小羊の血が家の入口に塗られていたかどうかは、定かではありません。しかし、血が塗られていなくても、過越祭の食事において、血は想起されていたことでしょう。
    主は、その食卓でパンを裂いて弟子たちに与え、「これはわたしの体である」と言われました。裂かれたパンは、十字架で引き裂かれるご自身の体を指していたのです。キリストはご自分が「過越の小羊」であることを示されました。キリストと弟子たちの最後の晩餐は、新しい霊的な意味で過越の食事であり、新しい契約における最初の聖餐でした。
    聖餐式で、パンがわたしとあなたのために裂かれるのを目で見るのと同じくらい確かに、キリストの体があなたとわたしのために十字架上でささげられ、裂かれました。司式者がパンを裂くのを見て、十字架上のキリストの体を想起し、パンを食べ、キリストの贖いの恵みを自分の体で受け止めます。聖別されたパンは、礼典的一致においてキリストの体であり、パンに与り、キリストの体に与ります。
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  • 礼典の方法としての過越(出エジプト記 12章)
    「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」
    (出エジプト記12章13節)
    きょうは、昨日の続きです。礼典の方法に思いを向けます。
    主は、モーセを通して、イスラエル全会衆の清めと贖いのために過越祭をお定めになりました。毎年正月祭日の夕暮れ、家毎に傷のない小羊を屠り、小羊の血を家の入口の門柱と鴨居に塗り、小羊の肉を焼いて食べ、種入れぬパンに苦菜を添えて食べます。苦菜はエジプトでの苦難を、種入れぬパンは腐敗しない共同体を、小羊の肉は霊的滋養を意味しました。過越祭の儀式は、家に塗られた血をご覧になった主がその家を過ぎ越し、その家の者たちの災いと滅びを容赦なさった、歴史的出来事を想起するための「旧約の礼典の方法」でした。
    主イエスは過越祭に、最後の晩餐のあるじとしてパンを裂き、それを「わたしの体」と呼んで弟子たちに与え、またブドウ酒の杯を取り、それを「わたしの血による新しい契約である」とおっしゃって兄弟たちに渡しました。その直後、受難の僕イエスは体を裂かれ、血を流されたのです。十字架のキリストこそ、世の罪を取り除く神の小羊でありました。この終末的出来事を想起する聖餐こそ「新約の礼典の方法」です。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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