リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 罪が何かを知って、次にすること(詩編 51編)
    あなたに背いたことをわたしは知っています。
    わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
    あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し
    御目に悪事と見られることをしました。
    あなたの言われることは正しく
    あなたの裁きに誤りはありません。
    (詩編51編5節~6節)
    詩編51編には、詩人が、神の御前に罪を犯した後、それを指摘され罪を自覚し、「わたしは主に罪を犯した」と告白した上で、なお、神の憐れみにすがって祈っている姿が描かれています(サム下12章13節)。詩人は、自分の中の罪の根源を直視したからこそ、その罪を自分の力で支配して拭い去ることは難しいと弁え知りました。ですから、「罪は常に(いつも、いつまでも)わたしの前に置かれています」と言ったのです。罪を覆って隠し、見えないところに押しやっても、罪がなくなるわけではありません。それどころか、いつの間にか罪は、人を支配しようと近づきます。しかし、その罪の覆いを取り、自分の前において正視し、罪の汚れを神の視点をもってはっきりと知り、それに翻弄される自分自身を神に告白する。そのとき、神は憐れみによって、悔い改める者を顧みてくださいます。神は、魂を打ち砕かれた者をそのままにされず、罪を心から憎み、捨て去る決心を促してくださるのです。
    信仰ゆえに罪に苦しみ泣く者をただ眺めておられる神ではありません。信じて祈るなら、罪を捨て去る力も必ず与えられるに違いありません。
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  • 上にあるものを求めなさい(エフェソの信徒への手紙 4章)
    だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
    (エフェソの信徒への手紙4章22節~24節)
    キリスト・イエスと出会い、教えられた真理が主イエスご自身の内にあることを学んだのなら(4章21節)、自分の身に起こるはずのことが二つあると聖書は言います。
    それは、「古い人を脱ぎ捨て」ることと「新しい人を身に着け」ることです。決して「古い人を脱ぎ捨て」切れずに、残った「古い人」の上に「新しい人」を重ね着するのではありません。「古い人を脱ぎ捨て」た後に「新しい人を身に着け」るので、いっそう主イエスの内にある真理がわかるということでもあります。それらは目に見えて起こるのではなく、内面的な心の変化の現実です。「滅びに向か」う罪の生き方をやめ、キリストに従う生き方に方向転換する者は、「神にかたどられた新しい人」(コロ3章10節では「造り主の姿に倣う新しい人」)として、存在そのものの変容を遂げるといえます。
    しかも「心の底から新たにされ」たのだから、「正しく清い生活を送る」ことによって「新しい人」になるのではありません。そうではなくて、「新しい人を身に着け」た人は、結実として「真理に基づいた正しく清い生活を送る」ことが可能となるのです。
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  • 捕虜収容所における礼拝と洗礼(コロサイの信徒への手紙 3章)
    あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。…これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
    (コロサイの信徒への手紙3章12節~14節)
    牧師であったわたしの祖父(片山弘二、享年94)から戦争体験を聞いてきました。祖父はフィリピンで敗戦を迎え、投降し、捕虜収容所に収容されました。クリスチャンであったがゆえに山下奉文大将などの絞首刑に立ち会う経験もしました。収容所では米軍の従軍牧師によって日曜礼拝が行われ、日本人捕虜への伝道もなされました。罪を悔い改めて神を信じ信仰に導かれ受洗に至る者も多くいたと聞いています。戦争中に犯した罪ゆえに神の御前で自己の原罪を深く自覚するに至ったのでしょうか。その一方で、受洗しておけば戦犯裁判において有利な判決が出るという噂から洗礼を受ける者もいたといいます。
    互いに敵対して戦った日本人とアメリカ人。捕虜収容所という特異な場における罪の告白と洗礼。受洗者はどのような思いだったのでしょうか。和解には罪の自覚と悔い改め、そして赦しを請うことが前提となります。私たちは主イエスの十字架によって罪赦された者として、その恵みに感謝しつつキリスト者としての和解の務めに励み、戦後世代の平和責任とは何かを考え続けたいと思うのです。
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  • 私たちもそのような者でした(コリントの信徒への手紙一 6章)
    知らないのですか。…みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
    (コリントの信徒への手紙一6章9節~10節)
    「この世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただ」きなさい(ロマ12章2節)。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(同12章1節)。
    私たちはこの世に染まりやすい者です。以前罪と思われていた行いが、いつの間にか流行になっています。
    最大人口約70万人を有した港町コリントには、千人の神殿売春の男女がいたと言われています。町の名前まで不道徳な行いと関連づけられるほどでした。しかし、キリストにおいて希望はいつもあります。この教会にはかつて大変な生き方をして来た人もいました。「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」とあります(1コリ6章11節)。
    神の憐れみがなければ、私たちは希望のない罪人です。「みだらな行いを避けなさい」。私たちの体は聖霊の神殿です。代価を払って私たちは買い取られたのです。恵みのゆえにのみ救われた私たちには、神の栄光を現す特権が与えられています。
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  • 福音の骨格(ローマの信徒への手紙 6章)
    あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。
    (ローマの信徒への手紙6章13節)
    信仰によってのみ救われるならば、何をしても良いのか、という疑問が生じます。聖書の答えははっきりしています。そのようなことはありえない。
    信仰によってキリストと共に結ばれた者は、キリストと共に葬られ、罪に対して死んだのです。「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。…わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは…もはや罪の奴隷にならないためである」(6章4~6節)と記されています。それにきょうの御言葉が続きます。
    天国は無償のプレゼントです。努力の報いとして得ることはできません。人間は罪人であって、自らを救うことができないからです。神は憐れみ深い方で、私たちを裁きたくないのですが、神は義なる方でもあり、罪を裁かなければなりません。神はこの問題を、キリストを通して解決されました。ですから、キリストにのみ救いの根拠と信頼を置く者だけが救われるのです。
    恵み・人間・神・キリスト・信仰は福音の骨格です。また真の信仰には善い行いが必ず伴うと聖書は教えています。
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  • 救いの確信が与えられるように(ヨハネの手紙一 3章)
    わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。
    愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ(ます)。
    (ヨハネの手紙一3章14節、21節)
    善い行いをして救われるのではありません。信仰プラス・ゼロで、信仰によってのみ救われるのです。その溢れるほどの感謝の思いから善い行いが自然に生じます。そういう意味で、私たちは自分の信仰をその実である善い行いによって自ら確かめるのです。
    救いの確信ほど大切なものはありません。罪を犯すと、救いの確信が弱められます。しかし、善い行いによって「自分は救われているのだ」という確信が与えられること自体は自然なことです。ハイデルベルク信仰問答書がドイツで出版された1563年にトリエント公会議が終了し、カトリックの対抗宗教改革が勢いづきました。会議では、信徒が救いの確信を持つのは油断をもたらすので危険であり、救われるために信仰プラスアルファ(善い行い)が必要だとされました。
    そのころ、日本は戦国時代、「南蛮人」の宣教師たちの霊性、情熱、慈善活動や病院設立等を見て大勢の日本人がキリシタンになった時代です。しかし、信徒が聖書を読むことは許されていませんでした。
    ヨハネの手紙一が書かれたのは読者が神の子としての確信を持てるよう、その幸いに招くためでした。
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  • 証し人として生きる(ペトロの手紙一 3章)
    同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。
    (ペトロの手紙一3章1節~2節)
    私たちの隣人をキリストに導くために善い行いは不可欠です。私たちは暗闇の中から神の驚くべき光の中へと招き入れられたので(2章9節)、神のすばらしさについて「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使4章20節)。
    最高の善い行いの一つは隣人を愛しキリストに導くことでしょう。救いのすばらしさの余り、私たちは証し人として生きずにはいられません。もし私たちが黙っていれば、「石が叫びだす」と主イエスは言われます(ルカ19章40節)。「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸」だとパウロが叫びます(1コリ9章16節)。
    異教徒は私たちの立派な生き方や行いを見て、神をあがめるようにもなります。無言の行いによってでも、配偶者を信仰に導く特権が与えられています(1ペト3章)。
    喜んでいなければ、誰も私たちの持っているものを欲しがりません。自分は罪人の中の最たる者(1テモ1章15節)、神の無条件の愛と選びがなければ、私は救われませんでした。天国は無償のプレゼントです。このように思うと、喜びと平安に溢れた人生に変えられます。感謝です。
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  • 悪い木が良い実を結ぶこともできない(ペトロの手紙二 1章)
    だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。
    (ペトロの手紙二1章10節~11節)
    「悪い木が良い実を結ぶこともできない」(マタ7章18節)。救われる前、私たちの古き自我は、神また隣人を愛することができませんでした。しかし、聖霊によって新しく生まれた自分は、神を愛し、また神を礼拝することをも愛しています。神の民も愛することができます。神と隣人に仕えることをも愛することができます。新しい自分が誕生しています。ハレルヤ!
    「良い木が悪い実を結ぶこと」(同7章18節)はない。生涯、私たちの神へのささげものは全く不完全なものに過ぎません。しかし、私たちの真実な救い主のゆえ、私たちの不完全なささげものも神に受入れられ、喜ばれるのです。ほっとします。
    「さらに、わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ」ることができます。一般の信徒は、油断するから、パウロのような特別な聖人以外、救いの確信を持つのは危険だ、と教える教派もあると聞きます。しかし、救いの確信を持つのは当然のこと、信徒の特権であると聖書が教えています。「召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい」とあります。
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  • 全生活全生涯にわたる感謝(マタイによる福音書 5章)
    「あなたがたは地の塩…世の光である。…あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
    (マタイによる福音書5章13節~16節)
    ハイデルベルク信仰問答書の序文のテーマは「ただ一つの慰め」、第一部のは「神の律法によって人間の悲惨を知る」、第二部のは「人間の救いー主イエスによる神の恵み」(使徒信条の解説等)と言えるでしょう。
    そして問86から始まる第三部のテーマは「感謝」です。聖霊より新しいいのちが与えられています。全生活全生涯にわたる感謝と服従について学びます。「十戒」と「主の祈り」の解説です。
    代価を払って私たちは贖われました。ですから神の栄光を現さざるを得ません。もはや自分自身のものではありません。聖霊が私たちの内に宿っています(1コリ6章)。聖霊を悲しませてはなりません。聖霊によって私たちは「古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられて、ますます新しくされ」るのです(コロ3章9、10節、新改訳)。
    こんな「土の器」でしかない罪人であっても、神があがめられるということーなんという特権! また右の手のしていることを左の手に知られないようにすること(マタ6章3節)―これは聖霊の仕業のほかありませんですね。
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  • 平和を実現する人々(マタイによる福音書 5章)
    平和を実現する人々は、幸いである、
    その人たちは神の子と呼ばれる。
    (マタイによる福音書5章9節)
    私たちが主イエス・キリストを模範として歩むとき、それは「平和を実現する人々」としての歩みとなるでしょう。主ご自身がその生涯を通して教え、そして贖いの死を通して私たちを神と和解させてくださり、人間同士の平和の模範を示してくださったからです。主イエスによる贖いの業を通して、私たちには神との平和という関係性をもう一度回復することが許されているのです。主イエスが平和の君と言われる理由です。
    困難や絶望や不正義、そして差別や怒りや憎しみが渦巻く状況が現代世界を特徴づけるものであったとしても、主にある希望を語り続けることが重要です。主イエスが死より三日目に復活されたように、平和の芽が萌え出る希望の時を確信しつつ、平和の種を撒き続けましょう。そのためには過去を直視し、学び続けることが大切です。日本のキリスト教会には「聖戦目的完遂」を掲げ、戦争に積極的に協力した歴史があります。キリスト教会の戦争責任の問題も含めて過去の戦争の記憶を継承しつつ、キリスト者としての平和責任を共に果たし、「平和を実現する人々」となろうではありませんか。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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