リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 主イエスから注がれる恵み(ヨハネによる福音書 15章)
    わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
    (ヨハネによる福音書15章5節)
    ぶどうの木と枝の関係は、お互いがつながっており、木の根から枝をとおして、水分や養分が実へと運ばれ、実が豊かに実るという関係です。それによって私たちは、美味しいぶどうの実を収穫することができます。
    主イエスはこのようなたとえを示すことによって、ご自身とそれにつながる弟子たちとの関係を教えてくださいました。もし弟子たちが信仰によって、主イエスにつながり、聖霊を通して御言葉という水分や養分をいただき続けるならば、ぶどうの実が豊かに実るように、主イエスに似る者へと成長させていただけるでしょう。その主イエスは、17節で言われました。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と。
    御言葉をとおして主イエスの愛を感じながらも、日々の生活の中で愛の乏しさばかりを痛感する私たちです。しかし、私たちは、信仰によって主イエスにしっかりとつながってさえいれば、乏しさを覚える時にこそ、御言葉によって、溢れる愛が主イエスから注がれ、また一歩、豊かな実を結ぶ一日を刻むことができるのです。確かな結びつきを感謝しましょう。
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  • 絶大な神の力に生かされる(テモテへの手紙二 4章)
    わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。…だれにでも授けてくださいます。
    (テモテへの手紙二4章7節~8節)
    6節でパウロは、自分は「いけにえとして献げられています」と語っています。彼は殉教の死を目前にして、自分の人生を振り返っているのです。「戦いを戦い抜き」、「道を走りとおし」、「信仰を守り抜き」という言葉によって、パウロのやり遂げた満足感と、人としての力強さが伝わってきます。
    しかし、一方でパウロはコリントの信徒への手紙二で、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(12章9節)と語っています。彼はキリストをとおして、自分という人の弱さと、キリストという神の力を鋭く感じていた人でした。そう考えるならば、パウロの背後には、弱さを全面的に用いてくださる、絶大な神の力が働いていたことがわかります。
    信仰によってキリストに結ばれたキリスト者の人生もまた、神の力によって一つ一つの使命を成し遂げる人生です。困難を神の力によって乗り越えることのできる人生です。そして再臨の日に、「善い忠実な僕だ。よくやった。多くのものを管理させよう」と言われて、「義の栄冠」を受ける人生なのです。
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  • 隠れたところで見ておられる神(ルカによる福音書 17章)
    「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
    (ルカによる福音書17章10節)
    10節冒頭で、「あなたがたも同じことだ」との主イエスの言葉が語られます。これに先立つ7節から9節には、この世の主人と僕の関係が語られています。そしてその関係は、僕が主人のために命じられたことを果たしても、感謝される関係ではないというのです。これはお金持ちの主人と雇われている僕の関係を連想するとき、よく理解することができるでしょう。
    10節で、この関係は、主イエスという主人と弟子たちという僕へと話が移っていきます。主イエスから命じられたことを弟子たちが果たした時には、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言わなければならないと。
    私たち弟子が、主イエスのご命令を果たしたとき、しばしば大きな声で自分の成果であるかのように、人に知らせることがあるのです。
    しかし弟子とは、主イエスと出会い、神の子どもとして、家族の一員になっている者です。主イエスからのご命令を果たしたときには、隠れたところで見ておられる主イエスが十二分にあなたをねぎらってくださいます。
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  • 信仰は神からの一方的な恵み(イザヤ書 11章)
    信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
    (イザヤ書11章:6節)
    信仰とは望んでいる事柄が今は見えなくても、今それを持っているかのように、やがて実現することを確信することです。そして、この信仰がなければ、神に喜ばれることができないというのです。
    信仰の人アブラハムは、75歳で数えきれない子孫が生まれるとの約束を与えられましたが、その約束が実現に向かって動き出すのには、実に25年の歳月を要しました。アブラハムが百歳、妻のサラが90歳のとき、しかも人間が出産を望み得なくなったとき、神はようやく約束を実現してくださったのです。
    もしアブラハムの信仰が、彼自身の中から出ているとするならば、彼は望み得ないときになお、信じることはできなかったでしょう。
    神とは、私たちに信仰という恵みを一方的に与え、地上の生涯でそれを試しながらも、私たちを励まし続けてくださるお方です。そして約束の実現、すなわち主イエスの再臨のとき、主イエスと顔と顔とを合わせてお会いするという約束の実現へと、確実に導いてくださっています。
    きょうもこの信仰を祈り求めながら、主イエスと共に幸いの中を歩みましょう。
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  • 善き行いの脆さ(イザヤ書 64章)
    わたしたちは皆、汚れた者となり
    正しい業もすべて汚れた着物のようになった。
    わたしたちは皆、枯れ葉のようになり
    わたしたちの悪は風のように
    わたしたちを運び去った。
    (イザヤ書64章5節)
    私たちには、御言葉を読み祈ることによって、「きょうも一日主イエスと共に歩もう」との強い決心が与えられます。しかし、一日の歩みの中で予想もしないような出来事にでくわし、相手からの厳しい言葉によって、あっという間に、強い決心がどこかに飛んで行ってしまったりします。このように私たちの善い行いや正しいと思っている意志は、本当に表面的であり脆いものであることを痛感します。
    そして預言者イザヤもまた、「正しい業もすべて汚れた着物のようになった」と語ります。さらにその正しい業は、悪によって枯れ葉のように飛んで行ってしまうほどに軽いものだと語るのです。しかし7節で「わたしたちは粘土、あなたは陶工」と語ります。自分の脆さに留まっているならば、どこに飛んで行くかもわからない私たちです。
    そのような私たちを美しい形に整え、価高い器へと仕上げてくださる陶工、すなわち全能の神がおられます。
    この神の言葉に聴くとき、私たちは神の憐れみによって悔い改めへと導かれ、私たちの内に、新しい力がみなぎってくるのです。
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  • 律法の実行と義(ローマの信徒への手紙 3章)
    なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
    (ローマの信徒への手紙3章20節)
    ここで言われている律法の実行とは、割礼を施すという儀式的な事柄を指しています。
    創世記17章には、神がアブラハムと結ばれた契約のしるしとして、この割礼という儀式が記されています。この契約は義なる神がアブラハムの神となり、アブラハムが神の民に加えられるという、百パーセント神が主体の恵みの契約でした。そして神は、アブラハムを彼の信仰によって義と認め、神の民としてくださったのです。
    しかしユダヤ人たちは、目に見えない信仰よりも、目に見える割礼という儀式を第一に考えました。すなわち百パーセント神が主体の恵みの契約に、自分たちの儀式や善い行いを介入させたのです。
    パウロは善い行いを追求しても、結局はそれを完全に実行できない自分の空しさ、すなわち罪の自覚だけを見出すのだと語ります。
    主イエスは十字架の死によってこの罪を完全に償い、義を獲得してくださいました。私たちは、主イエスを信じることによって義とされ、神の前に正しい者とされています。その主イエスと共に平和の一日を歩みましょう。
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  • 人の力によらない(使徒言行録 3章)
    その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。
    (使徒言行録3章5節~7節)
    使徒言行録3章には、エルサレム神殿の「美しい門」のそばで物乞いをしていた、40過ぎの一人の男性が、ペトロの「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」という一言で、歩けるようになった奇跡の物語が記されています。
    「すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」(使徒3章7、8節)。
    見事な奇跡と言うほかありません。その場に居合わせた人々は、見まがうばかりの変化に、「我を忘れるほど驚いた」(3章10節)と聖書は伝えています。ペトロの説教によれば「自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように」理解してはならない(3章12節)、と否定的な面を言いつつ、積極的には「(イエスの名を信じる)信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(3章16節)、と述べています。人の手柄なのではなく、昇天された主イエスが今もなお、聖霊を遣わして働き続けておられます。
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  • 永遠の神の義に生かされつつ(ローマの信徒への手紙 3章)
    では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。
    「正しい者はいない。一人もいない。」
    (ローマの信徒への手紙3章9節~10節)
    「わたしの良心がわたしに向かって…責め立て」て語ります、「お前は神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている」と(問60答)。この断罪を、私たちは受け入れるしかありません。
    およそ1500年間以上神の律法を所有し、守ってきたユダヤ人も、哲学や文明を通してローマ帝国に大きな影響を与えたギリシア人も、すべて罪の下にある、と使徒パウロは証言しています(ロマ3章9節)。また、クリスチャンであっても、実際は生涯罪を犯し続けています。すべての人間は罪の支配下に置かれ、例外なく罪の奴隷として罪から逃れることもできない存在です。
    しかし、永遠に滅ぼされるはずの私たちに、救いの道が開かれました。罪深い者であっても、罪すら支配する主イエスの十字架と復活によって完成された神の義を、信仰によって受けることができます。主イエスは、わたしをご自分の体に連なる者として受け、永遠の命を注いでくださいます(ロマ6章23節)。私たちは、永遠に義と認められつつ生きるのです。
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  • ただ神の義である方に結ばれて(ヨハネの手紙一 5章)
    その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
    (ヨハネの手紙一5章11節~12節)
    『ハイデルベルク』問61の答はこうです。
    「自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、というのではなく、ただキリストの償いと義と聖だけが神の御前におけるわたしの義なのであり、わたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも自分のものにすることもできないからです」。
    義とされるすべての根拠がただ主イエスにあります。このイエスと結ばれているだけで、まるで枝がぶどうの木につながれているだけで、その枝の命が維持できるように(ヨハ15章5節)、主イエスの中にのみ存在する「命」が私たちを支えます。ここでいう「命」とは、本来神の特質を表すものです。「命」とは永遠に持続する量的なものというよりは、永遠の神と真の交わりを可能とする質的なものです。
    主イエスご自身、「命」であると宣言されました(ヨハネ14章6節)。永遠の命は人間の努力で得られるのではなく、神が送られた主イエスを自分のものとすることで得られるものです。それは、ただ神が私たちに与える恵みを受け取ること以外には不可能です。私たちはただ信仰によって永遠に主と結ばれているのです。
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  • 神の義による神と罪人との和解(コリントの信徒への手紙二 5章)
    神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。
    (コリントの信徒への手紙二5章18節)
    旧約時代、イスラエルの民は、牛や羊などをいけにえとしてささげ、罪の赦しのために神との和解を求めました。しかし、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ3章23節)。そのため、アダムの堕落から始まった人類のすべての罪の問題が解決されない限り、神との完全な和解はありえません。それは今の時代も同じです。
    「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるため」でした(ローマ3章25節)。
    「和解」という言葉には、貨幣を同じ価値のものと交換するという意味があります。神は御子の尊い血潮で私たち罪人の代価を支払ってくださったのですから、神が私たちをどんなに価値ある者と思ってくださっているのかがわかります。旧約聖書には、私たちの罪をすべて主に負わせられたとあります(イザ53章6節)。クリスチャンになっても自分を責め立てる思いから解放されないことがあります。しかし、神ご自身の満足できる和解は、すでに主イエスを通して成就されたのです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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