リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • わたしの義の根拠となる主の復活(ローマの信徒への手紙 4章)
    わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
    (ローマの信徒への手紙4章24節~25節)
    「義と認める」という言葉は法廷用語です。一度義と認められれば、罪の疑いがあっても、罪が無い者と同じ扱いを受けます。実に、私たちが義と認められるために、主イエスが身代わりとなって十字架で死んでくださり、復活されました。主イエスの死と復活こそ義認をもたらす根拠です。それは、私たちがクリスチャンとして生きるために不可欠な神の恵みそのものです。このお方によらず、他に神の義をもたらす人は存在しません(使4章12節)。
    主イエスは罪と全く無関係のお方でしたから、十字架におかかりになる必要は全くありませんでした。しかし、主イエスはご自分からその道を選ばれ、それが父なる神の御心でもありました(マタ26章39節)。信じる人びとに義を与えようとする神の目的は、主イエスの死と復活によって成就されたのです。たとえわたしの良心がわたしに向かって、罪と悪を責め立てたとしても(参照:『ハイデルベルク』問60答)、主イエスの復活こそわたしの義が成立する一番強力な証拠です。それゆえ、クリスチャンは、復活にあずかる者としての希望から、この世で離されることは決してありません。
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  • 神の恵みによって無償で義とされる(エフェソの信徒への手紙 2章)
    事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
    (エフェソの信徒への手紙2章8節~9節)
    私たちは、空気そして親からいただいた命などは無償でもらっています。おそらくこれらの代価を支払うことができる人はこの世には存在しないでしょう。なぜならそれらの値段を決めることすらできないからです。
    同じように聖書も、救いはただ神の恵みによってのみ与えられると証言しています。神の賜物をただで信仰によっていただけると言うのです。神の恵みの価値をはかることも、代価を払ってその賜物を買うことも不可能だからです。「ただで」とは言いましたが、神が罪と全く関係のないご自身の御子であるイエス・キリストの命を十字架に引き渡し、代価を完全に支払ってくださっています。
    主イエスという代価は、罪人である私たちのすべての罪の問題を解決します。私たちが神の前で義と認められるだけではなく、神の子となる特権をも与えられます。ついに私たちは神の栄光を表す最高の存在へと変えられ、神を永遠に喜ぶことのできる者に変えられます。神の計りしれない恵みは、無償で私たちの体に永遠に表れ満ち溢れます。
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  • 信仰によって生きる(ハバクク書 2章)
    「見よ、高慢な者を。
    彼の心は正しくありえない。
    しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
    (ハバクク書2:4)
    パウロは、ハバクク書を引用し、「正しい者は信仰によって生きる」と語っています(ロマ1章17節)。ハバクク書に出てくる信仰(エムナ)は、真実、偽りのない、という意味です。「真実の神」という場合にも用いられます(申32章4節)。神が真実であられるから、私たちはその神を信じることができます。信仰によって生きることができる根拠は、神の真実さにあります。
    「正しい」という言葉は、「義人」とも訳されます。人間は自分の目に正しいと思うような相対的な義を持っています。しかし、この世には神のみが認める絶対的な義が存在します。自分の信仰の熱心さは相対的なものですが、神が神を信じる者を義と認めてくださるとは、神の絶対な義の表れです。また神の義を受け取る信仰も神からの賜物です(エフェ2章8、9節)。
    罪と全く関係のない神の御子を私たちの代わりに罪人とされたのは、主イエスによって私たちが神の義を得ることができるためでした(2コリ5章21節)。たとえ神のなされる業が理解し難くても、信仰義認とは、神はご自身を信じる者を守り、必ず生かしてくださるという恵みの教えです。
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  • ペンテコステ(使徒言行録 2章)
    一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
    …この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
    (使徒言行録2章4節~6節)
    今日はペンテコステ。イエス・キリストが十字架に架けられ、3日目に復活なさった後、50日後に聖霊が降臨されてキリスト教会が誕生した記念の日です。
    その時の様子を聖書は次のように報告しています。
    当時、エルサレムにはユダヤ教の盛大な祭りの一つである五旬祭に参加するため、各地から多くの人々が集まっていました。その中で驚くべきことが起こりました。午前9時ごろ、120人ほどのキリストの弟子たちが礼拝をしていると、突然、「激しい風が吹いて来るような音」が「家中」に響き、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。その結果、皆が聖霊に満たされ、いろいろな地方の言葉で神をほめたたえ始めました。このことは、主イエスが昇天直前に約束されておられたことの成就です(使1章4、5節)。ペトロの説教が指摘するように、旧約聖書の中で約束された「終わりの時」の到来、つまり、キリスト教会が歩み始めた日でした。この日を境に、弟子たちは、エルサレムから始まって地の果てにまで、聖霊によって押し出されて行ったからです(使1章8節)。
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  • 想像を絶する完全な祝福(コリントの信徒への手紙一 2章)
    しかし、このことは、
    「目が見もせず、耳が聞きもせず、
    人の心に思い浮かびもしなかったことを、
    神は御自分を愛する者たちに準備された」
    と書いてあるとおりです。
    (コリントの信徒への手紙一2章9節)
    聖書は、「この生涯の後」の永遠の命が具体的にどのような状態なのかを詳しくは教えていません。その時が来てからのお楽しみです。しかし、「完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる」ことだけは約束しています。
    パウロはイザヤ書64章3節から引用しながら、この完全な祝福を「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」と表現しています。このイザヤは続く節で、この祝福を「わたしたちはとこしえに救われます」と表現しています。私たちは、今、主イエスを信じるならば、「この生涯の後」に完全な祝福に必ずあずかることができ、永遠に救われるのです。
    ですから、順境の時は神への感謝で満たされ、逆境の時は忍耐強くされて、天の王座の主イエスに向かって頭を挙げて歩みます。たとえ、苦しくても悲しくても、聖書の約束によって、想像を絶する完全な祝福が与えられることを確信させられ、慰められて、この世の旅路を歩むのです。
    明日は地上の教会で礼拝が行われます。一週間毎の礼拝は、完全な祝福に向かう旅路の中継点です。完全な祝福を再び確信できますように。
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  • 主イエスとの命の交わり(ヨハネによる福音書 17章)
    永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
    (ヨハネによる福音書17章3節)
    「永遠」とは、国語辞典によると、「(過去・現在から)未来に至るまで、時間を超越して、無限に続くこと」です。すると、「永遠の命」も、どこか抽象的、哲学的な概念であるかのように思えてしまいます。しかし、永遠の命は、既に今から「この生涯の後」にも与えられる復活の主イエスとの命の交わりです。復活の主が永遠であられるように、この主との交わりも永遠に続くものです。ですから、きわめて具体的です。
    ところで、ヨハネは「永遠の命」を「イエスを知ること」と述べています。「知る」とは、ただ何かについて知識を持っているということではありません。『ハイデルベルク』は問21で、「まことの信仰」とは、神の啓示の「確かな認識」のことだけでなく、「心からの信頼」と教えています。聖書において証言されている主イエスを知ることと同時に、その主イエスに信頼することが大切なのです。それはすなわち、復活の主と命の交わりを持つことです。
    復活の主との命の交わりのために、きょうの御言葉を読んだ後、ぜひ、祈りましょう。永遠の命の実が豊かに結ぶ一日でありますように、と。
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  • 今、実感できる永遠の命(ローマの信徒への手紙 14章)
    神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
    (ローマの信徒への手紙14章17節)
    「使徒信条」は、「身体のよみがえり、永遠の命を信ず」の順序で信仰を告白しています。身体のよみがえりは、文字通りには主イエスの再臨の時に与えられますから、この順序ですと、永遠の命は、死後はじめて与えられる恵みであるかのようです。
    ところで、パウロは、「神の国は、…聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と述べています。この神の国こそ、聖霊によって与えられる主イエスとの交わりであり、永遠の命に他なりません。
    主イエスは、御自身をぶどうの木、信じる私たちをその枝に譬えられました。それで、私たちは、主イエスと交わることで、今、豊かに実を結ぶことができます(ヨハ15章5節)。今、豊かに結ぶ実の一つが永遠の命です。すると、永遠の命は、死後はじめて与えられる恵みでなく、主イエスとの交わりを与えられている今、聖霊によって心に感じることができる恵みとなります。それは、まず何よりも、毎週主の日の礼拝で実感できる罪の赦しであり、神との平和であり、インマヌエル(「神は我々と共におられる」)の喜びに他ならないのです。
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  • 御子に似た者となる(ヨハネの手紙一 3章)
    しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき、御子をありのままに見るからです。
    (ヨハネの手紙一3章2節)
    今、私たちは、肉眼で御子を見ることはできません。しかし、御子が再臨なさり、私たちに復活の体が与えられる時には、その肉眼で御子を見ることができます。その同じ肉眼で、御子に似た者とされた自分自身はもちろん、信仰の兄弟姉妹も見ることができます。
    わたしの一番の楽しみは、やはり、主イエスとお会いすることですが、ペトロやパウロ、カルヴァン、果てはアブラハム、ダビデのような信仰の兄たちを見ることです。御子の「ありのまま」のお姿とはどのようなものでしょうか。また、その御子に似た者とされる信仰の兄たち、私たちの姿とはどのようなものでしょうか。想像は尽きません。
    私たちは、やがて、この地上に完成する神の国において、御子イエスに似た者となることが約束されています。つまり、それは御子のように神を愛し、人を愛する者とされるということです。この世では、不一致、分裂が絶えません。しかし、神の国では、男女の差はもちろん、賜物の違いなどいろんな多様性がありますが、御子にある一致と平和が実現します。御子に喜んで従い、互いに真心込めて仕え合うのです。
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  • 死は勝利にのみ込まれた(コリントの信徒への手紙一 15章)
    この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
    「死は勝利にのみ込まれた」。
    (コリントの信徒への手紙一15章54節)
    この世の中で絶対に間違いのない統計があるのをご存じでしょうか。作家のサマセット・モームは言いました。「人間の死亡率は100パーセントである」と。確かにこの世の中に不死身の人間は存在しません。そうすると、人間は、死の力に絶対に勝利することはできないのでしょうか。
    主イエスも、確かに十字架で死なれました。しかし、主イエスは、3日目に死の力に勝利して復活なさいました。この主イエスを信じて死ぬ人は幸いです。死後、魂は完全に清められて、直ちに主イエスの御許に引き上げられます。そして、体は主イエスに結ばれたまま墓に埋葬されます。やがて、主イエスの再臨の時、その御力によって埋葬された体が引き起こされ、魂と結び合わされて、「朽ちないもの」、「死なないもの」とされるのです。
    この復活の時、私たちは、主イエスにあって死の力に勝利できます。主イエスを信じて死ぬ者は、その死をもってすべてが終わるという可能性は0パーセントです。この驚くべき、間違いのない神の力のもとに、私たちは、地上の死の先も、主イエスの命に、永遠に生き続けます。
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  • 魂はキリストのもとへ(ルカによる福音書 23章)
    するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
    (ルカによる福音書23章43節)
    主イエスにより四日市教会に牧師として遣わされ、間もなく丸12年になろうしています。その間、20名の信仰と人生の先輩たちの葬儀式を司式させていただきました。献身的に教会を支えてくださった兄弟姉妹たちとの別れは辛く悲しいですが、それでもわたしの心が辛さ悲しさで押しつぶされてしまわないのは、本日の主イエスの御言葉が与えられているからです。
    十字架上の主イエスの隣には、二人の犯罪人が十字架にかけられていました。そのうちの一人、主イエスに救いを託した犯罪人に主イエスは言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。この悔い改めた犯罪人は、十字架上でやがて息を引き取ると、その体は十字架から引き下ろされ埋葬されたことでしょう。しかし、魂は直ちに楽園に引き上げられたのです。このことは、主イエスに結ばれた魂のすべてに共通することです。
    この御言葉に基づく信仰があればこそ、私たちは、葬儀式でうなだれてしまうのでなく、敬愛する故人の魂が既に主イエスと共にある天の楽園を仰ぎ見て、神を賛美することができるのです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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