リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • アーメンと唱えてキリストとつながる(コリントの信徒への手紙二 1章)
    わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。
    (コリントの信徒への手紙二1章21節~22節)
    「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊」に助けられて祈れるなら、力が与えられて、がんばれそうな気がします。しかし、試練の道を歩んでいるときには、祈ることすらできなくなる、というのが、弱い私たちの現実です。
    きょうの御言葉の直前にこう書いてあります。「神は真実な方です。…神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます」(18~20節)。神はもう、イエス・キリストにおいてすべての約束を果たしてくださいました。神もイエス・キリストも真実な方、アーメンな方です。祈れなくなってしまっても、この方の言葉・この方の名によって献げられる祈りに「アーメン」と唱え、このお方につながっていさえすれば、希望は失われません。「わたしにつながっていなさい。…あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハ15章4~7節)。祈る力(霊)がきょう再び与えられますように。
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  • 「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊(ガラテヤの信徒への手紙 4章)
    あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
    (ガラテヤの信徒への手紙4章6節)
    昨日さらりと「イエス・キリストは、聖霊の力を受けて地上を歩まれ、十字架の死を忍ばれ、異邦人も含めすべての民のために立てられ(復活させられ)た」と記しました。
    主イエスは、神の御子です。しかし「軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い」、十字架の死に向かわれるときには、御子であるにもかかわらず「この杯をわたしから取りのけてください」と悲痛な祈りを祈られました。「アッバ、父よ」は、この祈りのときの叫びです。この叫びから「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という祈りに変えられていきました。
    「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊」とは、父の御心に従いとおせるように与えられる神の力のことです。自分の十字架を背負って主に従え、と命じられていますが、これは簡単にできることではありません。しかし「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使1章8節)と言われているとおり、「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊」に助けられて祈るなら、神は「わたし」を新しく創り変えてくださり、主の言葉に従いとおせる者とされるのです。
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  • 約束された“霊”(ガラテヤの信徒への手紙 3章)
    それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。
    (ガラテヤの信徒への手紙3章14節)
    きょうの御言葉には、旧約聖書のすべての約束の成就が凝縮されています。
    まず「アブラハムに与えられた祝福」ですが、これは「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」という約束のことです(創22章18節)。そしてこれは、神がその子イサク、孫ヤコブとも約束してくださった祝福です。
    その祝福が「キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶため」とあります。昨日見たように、イザヤは救いの到来を、霊の動きに注目して預言しました。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」(11章1、2節)。「その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う」(同10節)。そのとおり「若枝」であるイエス・キリストが、聖霊の力を受けて地上を歩まれ、十字架の死を忍ばれ、異邦人も含めすべての民のために立てられ(復活させられ)ました。
    そして「その後(主の死と復活が成し遂げられた後)、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」(ヨエ3章1節)との約束どおりに、ついに私たちにも聖霊が降ったのです。
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  • 神の霊が水の面を動いていた(創世記 1章)
    初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
    (創世記1章1節~2節)
    使徒信条で「我は聖霊を信ず」と告白します。「聖霊」について何をどう信じているか、それを今週確認します。
    聖霊のことは、創世記の冒頭に記されていますので、ハイデルベルク信仰問答 問53の答にあるとおり、この方は永遠の存在、永遠の神です。天地創造の初めからおられた、ということです。
    天地創造のとき、聖霊は何をしていたのか。その後どうなったのか。実はこの点について、あるユダヤ人たちの理解が私たちに、非常に興味深く、大切なことを教えてくれます。「神の霊が水の面を動いていた」とありますが、「動いていた」という言葉は、雷が落ちる前のように、エネルギーが溜まってブルブルと動いているさまを表す言葉だそうです。落ちるか、爆発するか、次の段階を待っている動きを表す言葉です。しかし、天地創造が終わっても、聖霊の次の段階の動きはありません。創世記の中でも、完結しません。
    やがてユダヤ人たちはこの聖霊がいつ落ちるかに関心を抱くようになりました。預言者の中ではイザヤが特に関心を持ち、救いの到来を預言するときに「ついに、我々の上に霊が高い天から注がれる」(32章15節)と表現しました。
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  • 契約の子の救い(マタイによる福音書 2章)
    こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
    「ラマで声が聞こえた。
    激しく嘆き悲しむ声だ。
    ラケルは子供たちのことで泣き、
    慰めてもらおうともしない、
    子供たちがもういないから。」
    (マタイによる福音書2章17節~18節)
    自分とは別の「ユダヤ人の王」が生まれたと聞いたヘロデ王は、将来、自分の王座が奪われる不安と恐れに駆られて、生まれたばかりの主イエスを殺そうとします。そのためにヘロデ王は、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」のでした。
    主イエスの殺害は失敗に終わりましたが、この事件の巻き添えで殺された多くの幼子の母親たちは、悲嘆の中に突き落とされました。18節のエレミヤの預言には「希望」の言葉が続けられていたのですが、この母親たちの希望とは何でしょうか。それは主イエスを救い主と信じる自分の信仰です。
    「こんな目に遭ったら、そんなこと、信じられるわけがない」と思われるかもしれません。しかし、それだからこそ、信じることができた時には、「この信仰は、わたしを救いに選んでくださった神からの賜物だ」と悟ることができるのでしょう。そして、母親を救いに選んでくださった神が、その子をも契約に入れていてくださったという事実が、その時に明らかとなり、こうして母親は慰めを受けることになるでしょう。
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  • 再臨のキリストによる裁きの祝福(マタイによる福音書 25章)
    「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
    (マタイによる福音書25章46節)
    再臨のキリストの裁きは、祝福なのでしょうか。
    マタイによる福音書25章34~46節で、主イエスは、弟子たちに、王による裁きをお話になりました。裁きとは分かつことです、右と左に。
    しかし、主イエスがなさる王の裁きのお話は面白いのです。なぜなら、王は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にした」ことを、自分にしたこととするからです。
    王の兄弟である最も小さい者とは、私たちキリスト者です。王とはキリストです。再臨のキリストは王として、世界の人などを裁かれます。その裁きの規準は、キリストがこの世に遣わされた、最も小さい者に、人びとがどのように応対したか、ということです。
    キリスト者が困難を覚えていた時に、ある人が憐れみ、親切にしたなら、その人は主イエスに親切にした者として祝されます。ところが、キリスト者に無慈悲なことをした者は、主イエスに無慈悲なことをした者として裁かれます。
    主イエスは小さなキリスト者をこの世に祝福をもたらす存在として置かれています。キリストの再臨の時に、この世における教会とキリスト者の価値が明らかとなります。
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  • 再臨のキリストを待ち望む(詩編 8章)
    被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
    (詩編8章23節)
    『ハイデルベルク』問52では、再臨のキリストによる慰めが教えられています。
    使徒パウロは、「将来の栄光」について記しています。現在、キリストと共に苦しむことが、将来、キリストが再臨された時に、その栄光に入れられる希望となると(ロマ8章18~30節)。
    今、教会は、被造世界と共に、罪ゆえに虚無に服している面があります。迫害と苦難に伴う悲しみは避けられません。しかし、希望があります。十字架のキリストは復活され、昇天されましたが、再び来ると約束してくださいました。その時に私たちの救いが成就します。被造世界が再創造を願い、うめいているように、神の子である私たちも、この体が完全に贖われる日をうめき、待ち望んでいます。
    神の子とされ、御国でキリストと共に栄光の中で、主を賛美している自分の姿を想像できませんが、今の苦しみから解放されることはうれしいことです。キリスト者といえども、この世では罪人であり、罪を犯すことは必然であるというこの世の惨めさから解放されるのです。何とキリストの再臨は待ち望ましいことでしょう。
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  • すべての敵から守り支えてくださる(詩編 110編)
    わが主に賜った主の御言葉。
    「わたしの右の座に就くがよい。
    わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」
    主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。
    敵のただ中で支配せよ。
    (詩編110編1節~2節)
    詩編110編は、王の即位式に歌われました。祭司か預言者が、王に油を注ぎ、王冠を被らせ、律法の書を手渡しました。そして、預言者を通して、王に即位する者に、神託が告知されます。その時、王は主なる神が設けられた王座に就くがよい、と主なる神は仰せになりました。「わたしの右の座に就く」ことは、王の名誉であるだけではありません。主なる神の子として神の支配に参与することを意味しました。
    「わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう」とは、完全な征服を示す象徴的行為です。実際にヨシュアは、カナンの五人の王を捕らえてから、すべてのイスラエルの人びとを呼び集めて、兵士たちの指揮官たちに五人の王の首を足で踏むように命じました。そして、ヨシュアはイスラエルの人びとに「恐れてはならない。おののいてはならない。強く、雄々しくあれ。あなたたちが戦う敵に対して主はこのようになさる」と言いました(ヨシュ10章24、25節)。
    今、主イエス・キリストは父なる神の右の座につかれ、その御力によりすべての敵からこの世の教会を守り、支えてくださっています。
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  • 昇天と神の右に座されることの益(エフェソの信徒への手紙 4章)
    こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、…キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
    (エフェソの信徒への手紙4章12節~13節)
    『ハイデルベルク』問51は、私たちにキリストの昇天と神の右の座につかれることの益を教えています。すなわち、キリストは聖霊を通して私たちに「天からの諸々の賜物を注ぎ込んでくださる」こと、父から与えられた天地の一切の権能によって、「すべての敵」から教会を「守り支えてくださる」ことです。
    使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙4章で、私たちに勧めを語ります。それはまず「一つ」という言葉で一致を保つことの勧めです。そして、7~12節で、パウロは、私たち一人一人が「キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられ」、「使徒」、「預言者」、「福音宣教者」、「牧者」、「教師」というキリストの賜物としての役務が与えられていることを語ります。そして、これらのキリストの賜物としての役務は、補い合い、結び合わされて、キリストの体なる教会を建て成長を促進するために与えられたものです。
    「キリストのしもべとしての役員は、各々の召しと賜物に応じて力を合わせて共に働き、主の模範にならって愛をもって奉仕する」(70周年記念宣言)。
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  • 父なる神の、キリストによる統治(エフェソの信徒への手紙 1章)
    神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
    (エフェソの信徒への手紙1章22節)
    『ハイデルベルク』は私たちに「この方(昇天し、神の右に座されたキリスト)によって御父は万物を統治なさるからです」と教えています。
    エフェソの信徒への手紙1章15~23節は、使徒パウロの祈りです。彼は感謝と執り成しの祈りをしつつ、父なる神が、キリストを天においてご自分の右の座に着かせられることで、万物をご支配なさることを教えています。キリストが死人の中から復活し、昇天し、神の右の座につかれたのは、万物をキリストの足もとに服させるためであったと。
    万物を支配なさるキリストが、私たちの教会の頭です。この世の荒波の中でキリストの体である教会は、迫害の嵐に遭い、苦難に遭います。しかし、教会は、父なる神より天地の一切の権能を与えられた教会の頭であるキリストとの豊かな交わりと平安と慰めの中に生きることを許されています。
    「福音に生きる教会は、キリストの命が通う一つの体であり、互いに配慮しいたわり合う牧会的共同体である。一つの部分が苦しめば全体が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば全体が共に喜ぶ」のです(70周年記念宣言)。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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