リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 罪からの自由(コリントの信徒への手紙一 15章)
    死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
    (コリントの信徒への手紙一15章16節~17節)
    コリントの教会には、主イエスの復活を信じきれない人たちが存在したようです。私たちもまた、復活ということを身近に感じられないような気がする時があるかもしれません。それに対してパウロは、復活とはそもそも私たちに何をもたらしたのかと問いかけています。それにどう答えるかが、私たちの信仰それ自体の価値あるいは意味を左右します。
    パウロははっきりといいます。もし、ただ「かつて主イエスというすばらしい人がいてくださった、ということだけに望みをかけているのであればそれは惨めなことだ」と(1コリ15章19節参照)。なぜなら、もしそうであれば、きょうのところにあるとおり、私たちは未だに罪の中にあることになるからです。
    パウロがいうところの「罪の中にある」とは、私たちが神と敵対し、神の民ではないということです。しかし、主イエスは十字架の死で私たちの罪を贖い、そればかりではなく、復活によって、神の御前で生きる新しい生き方の道をも開いてくださいました。それゆえ私たちはきょうも罪の人ではなく、神の民として歩むのです。
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  • 今ここで天に生きる(エフェソの信徒への手紙 2章)
    神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり…罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
    (エフェソの信徒への手紙2章4節~6節)
    使徒言行録には主イエスが天に昇られる様子が描かれています。そして私たちは、主イエスが今も天の神の右の座において世を支配されていることを信じています。一方、私たちは地上にあって、肉の命を生きています。ですから、天の神と私たちの生活には隔たりがあって、私たちはただ聖霊において、父なる神や主イエスと関わりを持つことができるというように理解しています。
    そのような認識は神学的には正しいことですが、パウロはもう一歩踏み込んで、私たちの命また人生は、実際のところどのようなものなのかを描き出そうとしています。その際、パウロは人が以前は神の御前に死んだ状態で悪魔の支配下にあって生きていたということをまず確認しています(エフェ2章1、2節)。
    しかし、今は違うというのです。私たちは、今この地上において既に、主イエスと一つにされているゆえに、復活の命に生き、また、天の王座にある主イエスと一緒に、天の王座についているというのです。たとえ地上の歩みが厳しくとも、私たちは今このところで、天上の交わりを味わいつつ生きています。
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  • キリストと共に(ローマの信徒への手紙 6章)
    (ローマの信徒への手紙6章5節~6節)
    パウロはこのところで「古い自分」ということを言います。それはどのようなものでしょうか。私たちはアダム以来、生まれたままでは罪に生きており、その実態は「不従順」にあるとパウロは言います(ロマ5章19節)。それは神に従うことができず、そもそも神を知ることができないゆえに、神なしで自ら善悪を判断して立派に生きていくことができるとする生き方です。
    しかし、洗礼を受けた時にそのような一切を判断するわたし―すなわち「古い自分」は「キリストと共に葬られ」たというのです(同6章4節)。パウロはこのことについて、私たち一人ひとりに「それともあなたがたは知らないのですか」と問いかけています(同6章3節)。それは当然ながら、あなたがたは知っていると言いたいからです。では私たちは何を知っているのでしょうか。それは、私たちが、きょうこの時も、明日も、地上の具体的な人生の中で、罪の奴隷にならなくてもよいということです。
    洗礼を受け、キリストと一体となった私たちは、もはやキリストと別の存在ではなく、いつでもキリストとつながっています。それゆえに新しい復活の命に生きているのです。
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  • 変わらぬ賛美を(ペトロの手紙一 1章)
    主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は…わたしたちを新たに生まれさせ…イエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え…天に蓄えられている…財産を受け継ぐ者としてくださいました。
    (ペトロの手紙一1章3節~4節)
    ペトロは、きょうの箇所の書き出しでまず、神を賛美します。「ほめたたえられますように」という言葉は、決して空騒ぎというものではなく、彼の深いところから出た言葉です。
    ペトロはこの時も楽な生き方をしていたわけではありません。また、教会の歩みが常に順風満帆だったわけでもありません。この直後の6、7節においては、二回も「試練」という言葉が登場します。また、この手紙の書き出しには「各地に離散して仮住まいをしている」という言葉もあります。これは、この世が仮住まいであるという信仰の視点を示し、同時にキリスト者の生が、必ずしも安穏な時ばかりではないことにも言及しています。しかし、その直後には「選ばれた人たち」という呼びかけが続いています。そしてこれこそがペトロの神賛美の理由です。
    では私たちは何に選ばれているのでしょうか。それは「新たに生まれ」ることであり、また「復活によって、生き生きとした希望を与え」られ、朽ちない「財産を受け継ぐ」者に、です。主イエスのご復活のゆえに、私たちはいつもこの希望と賛美に生きます。
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  • 神に受け入れられているわたし(ローマの信徒への手紙 4章)
    イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
    (ローマの信徒への手紙4章25節)
    きょうの言葉の前提となっているのはアブラハムの歩みです。ご存じの通り、アブラハムには神によって祝福の約束が与えられていましたが、百歳になるまで子どもは与えられませんでした。そのままでは、約束の成就の見込みはありませんでした。
    しかし、そのようなアブラハムは一つのことを信じていました。それは神こそは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる」(ロマ4章17節)そのような方であるということです。そして期待しようがない状況において神と共に歩んだアブラハムはそのあり方が義(神に受け入れられた者)とされたのでした。
    ところで、信仰によるこのような生き方は、一人アブラハムだけのものではないと、パウロは言います(同4章23、24節)。私たちは、罪にとらえられているという意味で、見込みのない者です。キリストは、死をもって罪を贖い、また、復活において命に呼び出されることによって、見込みのない者が新しく生きる姿を実際に示してくださいました。私たちもこの主の復活を信じて義とされ、永遠の命を手にしています。
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  • 聖霊の実(ガラテヤの信徒への手紙 5章)
    これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
    (ガラテヤの信徒への手紙5章22節~23節)
    罪の縄目から解放された生、悪いところを取り除いて全く新しくされた生、それがキリスト者の新しい生き方、新しい道です。この道を私たちはどうやって見いだし、力強く歩むことができるのでしょうか。
    新しい生き方が、私たちの奮励努力の結果により確立されるとしたら、それは惨めな評価を伴うことになるでしょう。私たちの力など大したものではないからです。罪との戦い、この世の霊的勢力との葛藤でいつも敗れています。挫折と失敗の連続です。そして、自己嫌悪が山積します。
    しかし、そうではありません。そうであってはなりません。聖霊は、私たちのうちにあって、私たちを生かし、動かし、促し、変えていかれます。肉は醜悪なものを私たちのうちに積み残していきますが、聖霊は私たちのうちに働き、大きな果実を残していかれます。私たちの内に起こされる、パウロが列挙している大きな、驚くべき変化こそ私たちに対する聖霊の豊かな価値ある賜物、贈り物です。
    そして、聖霊はこの賜物をすべての神を信じて生きるものに確実に間違いなく与えられます。私たちは受けるのみです。
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  • 試みの中にあるキリスト者の幸い(ヘブライ人への手紙 5章)
    キリストは、…激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。…そして、…神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
    (ヘブライ人への手紙5章7節~10節)
    キリストのご受難と死を通して私たちに示されることは、全くの恵み以外にありません。御子が私たちと同じ肉を取り、人としてお生まれになったということは、私たちの弱さや悲しみを共有されるということのほかありませんでした。
    十字架の前の苦しみは、このお方が「激しい叫び声をあげ、涙を流し」たことからも分かります。それはすべて私たちが負うべき苦しみであり、死でありました。このすべてをご存じのお方が私たちの大祭司となってくださったということは小さいことではありません。大祭司。この職務はわが国の歴史の中にありませんのでピンと来ないかもしれません。旧約聖書の中でこの役割は、神殿において神の御前で人びとの罪の贖いとなるいけにえの動物をささげて執り成す、というものです。
    毎年ささげ続けなければならない犠牲を、御子はご自身の身体をもって、一度神にささげられました。それゆえに、主イエスを神の御子と信じるだけで、神は私たちに御子と等しい永遠の命を与えてくださるのです。この驚くべき恵みは、主イエスのゆえに、私たちが試みの中にあっても、揺るがない完全な約束です。
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  • 感謝のいけにえ(エフェソの信徒への手紙 5章)
    あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
    (エフェソの信徒への手紙5章1節~2節)
    やもめの息子を死からよみがえらせ、会堂長の12歳の娘を生き返らせ、愛するラザロを手元に引き寄せられた力あるお方こそ、人の子イエス・キリストです。
    このお方は、私たちのために死なれました。しかも死後に葬られ、陰府にくだり、私たちの味わう苦しみをなめ尽くしてくださいました。そして、その死において、ご自身をいけにえとして完全に神に献げてくださいました。それは父なる神の御心に添ったものです。御父は、御子のなだめの香りを喜んで受け入れてくださいました。
    それは、キリストを信じて神の子どもとして愛されている私たちが、御子にある愛の存在として互いに愛によって歩むことを望んでおられるからです。
    そこまでしてくださったお方と共に生きる時に、私たちが愛の存在にならなければ矛盾でしかありません。それでも他人を愛し切れない私たちです。私たちをどこまでも愛してくださる主は、祈りのうちに真理の聖霊によって私たちを助け、私たちが愛に生きるように取り計らってくださいます。主にある交わりこそ私たちの感謝のいけにえです。
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  • 「キリストの犠牲と死」からの益(コリントの信徒への手紙一 6章)
    わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。
    (コリントの信徒への手紙一6章6節~7節)
    90歳近くのご婦人から、「先生、復活があることは嬉しいのですが、いったい何歳くらいで復活するのでしょうか」という質問を受けました。「そのことについて聖書にはっきりと記されていませんので答えられません。神は決して悪いようにはなさらないでしょう」と答えるのが精一杯でした。
    何歳で復活ということよりも、二度と罪の奴隷にならないということを心に強く留めたいと思います。もし輪廻転生のようなかたちで生まれ変わったとしても、また罪ある世の中に罪深い者として存在するならば、永遠に地獄なのではないでしょうか。
    私たちはキリストの十字架により罪が赦されても、地上にいる間は罪の残りかすを拭えません。そのような骨の髄まで罪深いわたしが、イエス・キリストを神の子救い主と信じるだけで、二度と罪の奴隷とはならないという特権が与えられる、この破格の恵みに与ります。キリストの十字架の死を、わたしが生かされるためと信じて死ぬならば罪から解放され、さらに復活のキリストと共に、何歳のわたしであっても永遠の御国で生きることが許されます。
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  • 身代わりの死と私たちの死(テサロニケの信徒への手紙一 5章)
    神は、わたしたちを…主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。
    (テサロニケの信徒への手紙一5章9節~10節)
    自分だけは死なないと錯覚している人がいます。それでいて死んだらすべては終わりだと決めつけていたりします。
    神の愛は徹底して、神から離れている私たちを常に待ってくれている放蕩息子の父親と重なります。わたしが奉仕している学校で、生徒たちから聖書の時間に「神が愛なら、滅びの道を置いているのはおかしいのではないか」という質問を受けます。
    神は私たちを見放されません。神から離れている私たちの間に立って、近づくことさえできない罪人を招いて執り成してくださるのがイエス・キリストです。主イエスに飛び込んだらよいのですが、罪の故に信じられず、頭の中で神は不平等だ、理不尽だと決めてしまいます。そこに人間の悲惨さがあります。地獄に行くのはまっぴらごめんであっても、神の国へ行くのはもっと嫌だと言っているようなものです。
    神の子イエス・キリストは、「わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるため」に命を注いでくださったのです。救われた私たちがともに、励まし合い、お互いの向上に心がけるためです(11節)。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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