リジョイス聖書日課

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By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • キリストの葬り(イザヤ書 53章)
    彼は不法を働かず
    その口に偽りもなかったのに
    その墓は神に逆らう者と共にされ
    富める者と共に葬られた。
    (イザヤ書53章9節)
    死ぬことが本来ない神の子が、死なれました。これは大事件です。死は悲しい、信じられない、衝撃的な出来事です。死去じたい受け止めにくい出来事ですが、葬儀ということをもって完全な死別の確定となるのです。
    私たちが死ぬ時、永遠の御国の命が与えられている確信ほど大きな慰めはありません。復活は自分が本当に死ぬという実感と裏表の関係だ、とわたしは思います。生と死との関係は、イエス・キリストの十字架を見るほかありません。神の子がこの世に遣わされたということは、まさに私たちの生を生きてくださったからにほかなりません。そして葬られ、一切の弁解もなく完全に死なれたのです。
    このことは、神が天上からがんばれと私たちを励まされたのではなく、神である御子がこの世においでくださり、私たち人間の死と生の事実を経験してくださったことを意味します。私たちの死を実感するためには、「神に逆らう者と共に」つまり罪深い私たちと同じ姿をとってくださり、現実の死として「富める者と共に葬られた」のです。これこそ、真の愛にほかなりません。
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  • キリストの死(ローマの信徒への手紙 8章)
    肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
    (ローマの信徒への手紙8章3節)
    大学生の時、「神の子イエスがどうして神から呪われたものとならねばならないのか」という疑問が生じました。
    「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」とあります(ガラ3章13節)。「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」(申21章23節)と説明されています。
    それでも、キリストの死は呪われていたという言葉が頭から離れませんでした。祈りの中で、それほどまでに、わたしの罪は重いのだということを示されました。のほほんとしてクリスチャンホームに育ったわたしにとって、その衝撃は小さくなかったのです。小さい頃からいったい何を教わっていたのか。このとき、聖書の言葉が真剣に迫ってきました。
    罪を罪として処断する死とは、このように徹底したさばきであったのです。この死は本来このわたしの身に起きなければならないことだったのです。それを御子に負わせるという神の計り知れないご計画があり、愛があります。少しだけそれを実感できたような気がしました。このお方の死を無下に扱ってはならないと本気で覚悟しました。
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  • 新生と希望(ペトロの手紙一 1章)
    わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え…てくださいました。
    (ペトロの手紙一1章3節~4節)
    今日は、イースターです。
    今日の聖句で、ペトロは、神が私たちを「新たに生まれさせ」たと語ります。私たちはすでに新しく生きています。新しい命にあふれています。その命が私たちを生かしています。その命は死人の中から復活させられたイエス・キリストから来たものです。
    洗礼によって、私たちはキリストと共に十字架につけられて死に、しかしながら、キリストと共によみがえらされました(ロマ6章4節)。キリストの命が私たちのうちにありますから、生き生きとした、活力ある、希望に満たされます。
    新しい命の一局面は希望です。新しく生きるとは、希望に生きることでもあります。希望こそ新しい命が生み出し、もたらす宝物です。どんな絶望的なときでも、苦悩に満ちた現実でも、私たちには希望があります。死でさえ、その希望を打ち壊すことはできません。復活の主イエス・キリストが共にいますところでは、希望は決して失われることはありません。
    新しい人生とはキリストの命に生かされ、キリストの復活の希望に生きることです。それこそ、かけがえのない人生の基盤です。
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  • 呪いを引き受けられた主イエス(ガラテヤの信徒への手紙 3章)
    キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。
    (ガラテヤの信徒への手紙3章13節)
    当時のユダヤ人たちが、神を冒涜する者を処刑する方法は石打ちでした。しかし、ヨハネによる福音書の中でユダヤ人指導者たちがいみじくも言っているように、彼らには死刑を行う権限がありませんでした(ヨハ18章31節)。もちろん、ステファノの殉教の例が示すように、権限がなくても、しようと思えば石打ちの刑にすることもできました。しかし、ユダヤ人たちが主イエスを自分たちの手で処刑しなかったのは、主イエスをローマ皇帝に反逆する王として、ローマ人の手で処刑させたかったからです。結果、イエス・キリストは十字架の上で死を遂げられました。
    けれども、神の救いのご計画は、この人間的な思惑をはるかに超えていました。神にはキリストを石打ちではなく、十字架の木にかける必然性がありました。ご自身が律法の書で伝えていた通り、「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」(申21章23節)。
    そうです。律法を完全に守ることのできない、呪われた「わたし」に代わって、主イエスが十字架の木にかかって、「わたし」の呪いを背負ってくださいました。
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  • ポンテオ・ピラトのもとに(コリントの信徒への手紙二 5章)
    罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
    (コリントの信徒への手紙二5章21節)
    主イエス・キリストが十字架で苦しみを受け、死を遂げられたことは歴史的な事実です。もしこのことが人類の歴史の中で起こった出来事でないとしたら、キリスト教の救いは絵空事にすぎません。どんなに論理的に正しい教えでも、それが起こらなかった事実の上に成り立っているのであれば、信じるに値しません。
    使徒信条には、ここだけ場違いと思える歴史的な人物の名前、ポンテオ・ピラトの名前が出てきます。この人こそキリストの裁判で重要な鍵を握っていた人物です。人間的な言い方をすれば、主イエスを赦すことも処罰することもこの人の手の中にありました。
    しかし歴史は、人間の思うように進んでいるようでも、実はそうではありませんでした。主イエスを十字架にかけようとするユダヤ人の思惑も、それにうまく対処しようとするピラトの思惑も、それぞれ満たされたように見えて、実は神の深いご計画だけが実現していました。
    罪のない主イエスを十字架に引き渡すことによって、神の義を受け取ることができるようにと神はされたのです。その救いの実現の痕跡は歴史の中に刻まれています。
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  • 十字架と神の義(ローマの信徒への手紙 3章)
    ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
    (ローマの信徒への手紙3章24節)
    讃美歌262番はこう始まります。「十字架のもとぞいとやすけき、神の義と愛のあえるところ」。そうです。キリストの十字架には罪人に対する神のこの上ない愛が表れていると同時に、罪に対する神の妥協を知らない義の要求が示されています。
    神は決して罪を是認されるお方ではありません。犯された罪に対して完全な償いを求められるお方です。ご自分の求める義が少しでも侵害されることを許されません。その義の要求を、罪を犯した人間に突き付けておられます。しかし、この神の義の要求を完全に満たすことのできる罪人は一人もいません。泥だらけの着物を泥水でどんなに一生懸命洗ってもきれいにならないのと同じです。
    けれども、ここにその要求を完全に満たすことのできるお方がおられます。まことの神でありまことの人である主イエス、その人です。主イエスが「わたし」に代わって十字架の上でわたしの罪を償い、神の義を満たしてくださいました。十字架の苦しみを通して主イエスが勝ち取ってくださった義を、今や神は恵みにより無償で信じる者に与えてくださいます。
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  • 罪と死との法則からの解放(ローマの信徒への手紙 8章)
    従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
    (ローマの信徒への手紙8章1節~2節)
    神は罪を犯したアダムにおっしゃいました。「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」と(創3章19節)。本来、神から与えられた命も労働も人間に喜びと充実をもたらすものです。ここには「死」という言葉こそ出てきませんが、生きる意味をむなしくしてしまう死の不気味さが、いみじくも表現されています。
    この罪と死の法則から「わたし」を解放してくれるただ一つの方法を神は用意してくださいました。それは、「わたし」の身代わりとなって、罪の罰を十字架の上で受けてくださったキリストと結ばれることです。
    イエス・キリストを救い主と信じる者は、誰でもキリストと結ばれています。キリストと結ばれた者は、罪と死との法則から解放されて、永遠に神を喜ぶ人生へと回復していただけます。
    主イエスが受けられた苦しみの中に、「わたし」のために用意された救いの道を見出す人は幸いです。キリストが「わたし」に代わって、神の求められる義を全うしてくださったからです。
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  • 神の愛と唯一の犠牲(ヨハネの手紙一 4章)
    わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
    (ヨハネの手紙一4章10節)
    赦しには愛が伴います。愛のないところに真の赦しは実現しません。神は実にご自身がお造りになった人間を愛しておられます。ご自分を裏切り、罪のうちに堕落していった人間を、決して見放すことはなさいませんでした。神はご自分の被造物のために、愛をもって救いをご計画されるお方です。
    旧約の時代には、やがて実現する罪の完全な贖いと赦しとを、神は動物の犠牲であらかじめ示してくださいました。しかし、それはやがて完成されるものの影にすぎません。完全なものが現れるまで、繰り返し献げられる必要がありました。そして、繰り返されるたびに、罪の記憶が呼び覚まされます。
    そこできょうの聖句は語ります。動物の犠牲が指し示してきたものこそ、十字架の上で全世界の罪の贖いを成し遂げられた主イエスの姿である、と。それはもはや繰り返されることのない唯一の犠牲です。
    十字架の上で受けられた主イエスの苦しみ。この苦しみこそ、人間の罪を赦そうと願う神の愛の表れです。主イエスの十字架の苦しみの中に、「わたし」に対する神の愛を見出す人は幸いです。
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  • 主イエスが担った苦しみとわたし(イザヤ書 53章)
    彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
    多くの痛みを負い、病を知っている。
    彼はわたしたちに顔を隠し
    わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
    (イザヤ書53章3節)
    神は預言者イザヤの口を通して、やがて遣わされるメシアの姿を、苦難の中を歩む僕としてお示しになりました。その姿は、目を疑うほどに惨めな姿です。父なる神の御許で持っていた栄光の姿を打ち捨てて、僕の姿で現れたメシア。多くの痛みを負い、病の苦しみを共感してくださる救い主。その姿を目にする者は、まるで自分とは関わりのない人のように、このメシアを軽蔑し、無視します。
    主イエスが歩まれた道、それは苦難の道でした。罪の世界に降ってこられ、罪と悲惨に苦しむ私たちと共に、主イエスは苦しみの中を歩んでくださいました。私たちが罪の世界で味わう悲しみ苦しみで、主イエスが味わわれなかったものは一つもありません。主イエスこそ苦しむ私たちの真の理解者です。
    主イエスは罪のないお方でしたが、十字架の苦しみをお受けになったその姿は、イザヤを通して語られた苦難の僕そのものです。苦しみを受けるこのお方の姿こそ、実は、やがて最後の審判で裁きを受ける「わたし」の姿です。主イエスの十字架の苦しみのうちに、「わたし」の身代わりの姿を見出す人は幸いです。
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  • 新しい命に生きる(ローマの信徒への手紙 6章)
    わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
    (ローマの信徒への手紙6章4節)
    教理用語で「聖化」という言葉があります。この教理は聖書の明確な教えですが、実は宗教改革者たちによって確立した教説でもあります。
    ウェストミンスター信仰告白第13章を是非ご覧ください。そこには簡潔に、聖化とは何かが説明されています。なかでも肝心なことは、聖化が、神の恵みであり、神が聖霊によって私たちのうちに起こしてくださる救いのみわざであるという点です。「聖徒たちは恵みにおいて成長し、神を畏れつつ聖さを完成していく」(村川・袴田訳、3節)。
    キリスト者は信仰によって神の前に義なるもの(罪をゆるされたもの)とされていますが、また、神の大きな力によって、罪の影響力から解放され続けます。聖霊が私たちのうちで驚くべき仕方で働いて、私たちを聖めてくださいます。ですから、キリスト信者は、すでに、聖くされる道を歩んでいます。新しい生き方の根源的な力は聖霊から溢れでています。
    聖なる生き方は、すでにキリストを信じるものにとって「内から」始められています。この恵みを心から信じるとき、私たちはいかなる状況下でも前に向かっていけるのです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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