リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
Download on the App Store

リジョイス聖書日課 episodes

  • わたしと一緒に熱心に祈ってください(ローマの信徒への手紙 15章)
    どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、
    (ローマの信徒への手紙15章30節~31節)
    「どうか、わたしのためにわたしと一緒に神に熱心に祈ってください」。パウロはローマの兄弟姉妹たちに懇願します。その祈りの課題は、二つありました。一つは、ユダヤにいる不信の者たちから守られること。もう一つは、エルサレムに対する私の奉仕(ディアコニア)が聖なる者たちに歓迎されることです。
    この時、パウロが成し遂げようとしていた奉仕とは、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々に、異邦人教会が集めた募金を届けることでした。一般的には、このような奉仕は感謝されることはあっても、何か問題が起こりそうな奉仕ではありません。それでも、パウロは「この奉仕が歓迎されるように、是非祈ってほしい」と告げています。
    奉仕にあたるとき、自分を過信しないパウロのこの慎重さ、へりくだった態度、そして心からなる祈りの要請。これらこそパウロが多くの働きの実を結んでいった一つの理由だったことでしょう。
    私たちも、慎重さ、へりくだった態度を忘れずに、互いの奉仕が歓迎されるように祈ってまいりましょう。
    0 min
  • 神との平和(コロサイの信徒への手紙 1章)
    神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、…万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
    (コロサイの信徒への手紙1章19節~20節)
    「平和である」とは、どのような状態でしょうか。国語辞典では「戦争や争いがなく、世の中が穏やかな状態にあること」と記されています。
    ではどうしたらそのような状態になるのでしょう。それにはまず、人と人との間に平和が実現しなければならないでしょう。しかし、そのような平和が実現されるためには、もっと本質的で、かけがえのない平和が実現されなければならないでしょう。そのかけがえのない、真実な平和とは何か。それは「神との平和」です。
    天地創造の時、神は、エデンで、人(アダム)にかけがえのない、豊かな神の平和を与えてくださいました。しかし、人は罪を犯し、堕落し、この神との平和を喪失してしまいました。
    神は、そのような私たちのために、キリストを遣わし、十字架の血によって罪を贖い、もう一度、神との平和を取り戻してくださいました。そのため、今、私たちは、エデン、つまり、神の国の平和を味わうことが許されました。日々、神と豊かにまじわり、神から満ちあふれる命と英知、そして、愛をいただいて生かされているのです。
    0 min
  • 信仰による義(ガラテヤの信徒への手紙 5章)
    律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
    (ガラテヤの信徒への手紙5章4節)
    人は、「行い」によって「正しい者」とされ、救われるのか。これは、聖書の中心的テーマの一つです。ある人たちは、人は行いによって、自らの力によって、義と認められ、救われると考えます。しかし、聖書は一貫して人は行いによっては救われないと語ります。
    かつてアブラハムが義と認められ、救われたのも、その行いによるものではありませんでした(創15)。何より、力によっては、実に無力でした。アブラハムの高齢の妻サラの胎は、その力を完全に失っていました。しかし、この二人に、星のように子どもを与えてくださると約束してくださった神は、サラの胎を開き、御国の繁栄と、継承の約束であるイサクを与えてくださいました。アブラハムは、自らの力によらず、神の「約束」を信じる「信仰」によって御国を受け継がれたのです。
    今日の私たちが救われるのも、自らの力によるのではありません。十字架の死に至るまで、完全に神の義を全うしてくださったキリストを信じる、信仰によります。このキリストの「身代わりの義」を信じる者は、どんなに力ない者でも救われ、御国を受け継ぐことができるのです。
    0 min
  • パウロにつく、アポロにつく(コリントの信徒への手紙一 1章)
    あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。
    (コリントの信徒への手紙一1章12節)
    コリント教会の中には、さまざまな課題が存在していました。その中の一つが、「『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』…」という「分派」の課題でした。ここで問題なのは、キリストがパウロやアポロなどと同列にされていることです。パウロはこれを解決するために、教会員に対して、最も基本的なことを語っています。
    それは「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か」ということです(1コリ3章5節)。すなわち聖書は、彼らはただの「人」である、と言っているのです。そして、人は人を救うことができるのか、人は人を養うことができるのか、人は人を成長させることができるのかと問うているのです。
    ある人たちは、「人」は人を救えるし、人は神たり得ると言います。しかし聖書は言います。人を救うことがおできになるのはただ神のみです。人を養うことができるのはただ神のみです。人を成長させることができるのはただ神のみです(同3章6節)。
    私たちの教会が、人に依り頼まず、どんなときでも神と、主イエス・キリストに依り頼んで歩むことができますように。
    0 min
  • わたしはぶどうの木(ヨハネによる福音書 15章)
    わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
    (ヨハネによる福音書15章5節)
    聖書はここで、「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」、すなわち、わたしを離れては「実を結べない」と言っています。どうして私たちはキリストを離れては実を結べないのでしょう。
    それは、私たち自身は貧しく弱い「枝」に過ぎず、自分自身の内にはいかなる命も、力も存在していないからです。いったいこの世のどこに、永遠の命が存在しているのでしょう。それはこの世の中には存在していません。ただ、私たちの主、キリストの内にのみ存在しています。私たちの主、キリストの内にのみ永遠の命が存在し、永遠の力と恵みが存在しているのです。
    なぜ、私たち自身が貧しくても、弱くても大丈夫なのでしょうか。
    それは、私たちの主、キリストが強く、あらゆる恵みに富み、主ご自身の内にあらゆる命と力と恵みが満ち溢れているからです。それゆえ、私たちはこの主につながって生きるとき、豊かな実を結ぶことができるのです。
    きょうも、この主に結ばれ、主と共に歩みましょう。この主と共に道を進み、主の命と恵みを届けましょう。
    0 min
  • ほかに救い主はない(イザヤ書 43章)
    わたし、わたしが主である。
    わたしのほかに救い主はない。
    (イザヤ書43章11節)
    ここには、「わたしのほかに救い主はない」と教えられています。
    イザヤ書43章の背景には、バビロンの人びとが信じる神々の存在がありました。彼らは、捕囚の民が信じる神を無力なものとみなしていたでしょう。しかし、神の民は、はたしてバビロンの神々は人びとを救うことができるか、と逆に問い返しました。
    聖書は、ほんとうの神以外に、人びとを救うことができる方はいないということを教えています。ほんとうの神は「生きておられる」神です(王上17章1節)。この神は、いつでもご自身の方から、私たちに御手を差し伸べ、ご自身の方から語りかけ、慰め、救ってくださるお方です。
    私たちは、かつてこの神を知らず、この神から遠く遠く離れて生きていた者でした。いったい私たちは、どのようにして今ある生活に導かれたのでしょうか。
    それはまさに、神ご自身が御手を差し伸べてくださったからです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、…御子をお遣わしに」なったことによってだったのです(1ヨハ4章10節)。
    0 min
  • ご自分の民を罪から救う(マタイによる福音書 1章)
    マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。
    (マタイによる福音書1章21節)
    夢の中に現れた主の天使は、驚くべき知らせを告げました。「マリアは男の子を産む」。その名は「イエス(救い)」。それは、「自分の民を罪から救う」という意味が込められた名でした。
    私たちが神に喜ばれる者となるためには、罪の赦しが必要です。そのために私たちはその身に罪の罰を受けなければなりません。そしてその罰は、計り知れないほど大きく、そして果てしなく深いものなのです。
    けれども神は、そのような私たちを罪から救うために、主イエスを遣わされました。
    なぜ主イエスが、あの恐ろしい十字架に付けられなければならなかったのでしょうか。主イエスが、何かそれに値する罪を犯されたのでしょうか。違います。
    それは、実に、私たちが受けるべき罪の刑罰の身代わりでした。私たちが受けるべき、大きく、そして果てしなく深い罪の刑罰の身代わりでした。
    主イエスは、私たちの罪を贖い、私たちをこのように、神の家族、神の子にしてくださったのです。それゆえ私たちは、罪赦された者として、赦しの使者、愛の使者の営みを今日求められています。
    0 min
  • ディアコニアに進むために(ルカによる福音書 10章)
    主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」
    (ルカによる福音書10章41節~42節)
    私たちが「ディアコニア」に進むためには、二つのことが必要です。一つは、腹立たしい現実を克服していくことへの覚悟です。
    この日、マルタはいろいろのもてなし(ディアコニア)のため忙しく働いていました。ところがどうしたことでしょう。マリアは主の足元に座ったままですし、主イエスもそれを許しておられる。「何よ、わたしへのこの態度は…」。やがて、彼女は主に近寄ると言いました。「主よ、何ともお思いにならないのですか?」このマルタの腹立たしい気持ちに、きっと誰もが共感できることでしょう。このように、ディアコニアには、時に、腹立たしい現実に直面することへの覚悟が必要となります。
    さて、最も必要なもう一つのこと、それは主の足元に座って御声を聴くことです。なぜなら、主イエスはどんなに嘲られても十字架の死に至るまで仕えることを止めなかったからです。このお方、主イエスの御声が、腹立たしい思いを癒やし、再び神と人とに仕えていく聖なる力を与えてくださいます。主イエスの御言葉だけが、私たちをディアコニアに進ませてくれます。
    0 min
  • 引き離せない神の愛(ローマの信徒への手紙 8章)
    死も、命も、…他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
    (ローマの信徒への手紙8章38節~39節)
    神に愛されている者にはどのような益があるでしょうか。神は全知全能の方ですから、そのような方に愛されている者であるならば、この世の苦しみがあるはずがない。病気にかかることも、貧しい生活をすることもない。いつも人々に愛されて幸せに人生を生きることになるでしょうか。
    決してそうではありません。パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」(ロマ8章35節)と言いました。それは裏返して言いますと、クリスチャンであっても艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣があることを意味します。むしろ、クリスチャンであるがゆえにこのような苦しみをもっと多く覚えるでしょう。
    しかし、クリスチャンの特権は、このような苦しみがあっても決してキリスト・イエスを通して示された神の愛から引き離されないことです。それは、神が私たちのために、その御子をさえ惜しまず死に渡されたお方だからです。
    これほど神に愛されているあなたを、この世のどんな被造物も神の愛から引き離すことはできないのです。
    0 min
  • 逆境においては忍耐強く(ヨブ記 1章)
    「わたしは裸で母の胎を出た。
    裸でそこに帰ろう。
    主は与え、主は奪う。
    主の御名はほめたたえられよ。」
    このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。
    (ヨブ記1章21節~22節)
    最近、知り合いの方が癌にかかり手術を受けました。手術は無事に終わって回復に向かっていますが、本人も、その奥さんも「なぜ我々にこのような試練があるでしょうね。時が過ぎれば、これも我々のための神の恵みであるはずですが、今はなぜ神がこのような苦しみを与えてくださったのかよく分かりません」とおっしゃいました。おそらく、ヨブも同じ思いだったでしょう。
    神を信じる者として、この世のすべてが神の御手の中にあり、神が御心のままに司っておられることを知らなければ、クリスチャンは大きな苦しみに耐えられないと思います。自分が信じた神に「裏切られた」と思うようになることもあるでしょう。
    しかし、クリスチャンはただ神の存在を認めるだけではありません。神が真実で愛に満ちたお方であることを知り、そのお方を信じて生きる者です。だからさまざまな逆境にあっても忍耐強く神のお働きを待つことができます。
    きょう、私たちにさまざまな苦しみがあっても、明日は私たちにその苦しみを喜びに変えてくださる神を信頼して、この一日を過ごしましょう。
    0 min

About リジョイス聖書日課

From the publisher's feed

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

More shows like リジョイス聖書日課

3分でわかる!聖書 by 中川健一

3分でわかる!聖書

6 Listeners

聖書人になりたい by kannokazuhiko

聖書人になりたい

1 Listeners

聖書プロジェクト BibleProject by BibleProject

聖書プロジェクト BibleProject

0 Listeners