リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 互いに愛し合う(ヨハネの手紙二 )
    さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。
    (ヨハネの手紙二5章~6章)
    使徒ヨハネは主イエスの十二弟子の一人であり、初代教会において大きな権威を持ち、中心的に活躍しました。彼は、主イエスの公生涯、初代教会の形成、発展の目撃者です。ユダヤ人と回心した異邦人とからなるエフェソ教会で牧会した人物です。
    ところで、ヨハネの手紙二は、教会のある特定の人びとに向けて記されたものです。それは、「長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ」(1節)、「あなたの子供たちの中に」(4節)、「さて、婦人よ」(5節)とあることからわかります。不思議なことに、婦人と子どものための特別なメッセージは、時代を超え現在の教会にも、そして誰にでも当てはまります。
    使徒ヨハネは、何を伝えようとしたのでしょうか。それは、「互いに愛し合うということ」でした。主イエスは公生涯の中で、戒めと愛の関係について何度も説明されました。使徒ヨハネも互いに愛し合うことを、古くからの変わることのない戒めとして勧めています。「愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです」。
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  • 神は聞き入れてくださる(ヨハネの手紙一 5章)
    何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
    (ヨハネの手紙一5章14節~15節)
    私たちが神に願いをささげるとき、私たちはその願いが神によって聞き入れられるのかどうか、不安を覚えることがあるかもしれません。しかし、ヨハネは語りました。「何事でも神の御心に適うことを私たちが願うなら、神は聞き入れてくださる」。「何事でも」とあるように、私たちの祈りに制限はありません。
    ここで、ただ一つ、「神の御心に適うことを」と語られています。神の御心に適うことを、神は聞き入れてくださいます。この言葉を前にするとき、私たちは何を思うのでしょうか。この願いは、神の御心に適っているのか、適っていないのか、とやはり考え込んでしまうかもしれません。
    ところで、わたしの願いを神が聞き入れてくださるか否かを考えるということはどういうことでしょうか。そのように考える私たちは、すでに神のご存在を信じ、神の前に立っているということではないでしょうか。
    神は、御前に立っていることを信じている者の願いを、聞き入れようとして耳を傾けていてくださいます。そのことに信頼しましょう。そして、祈りましょう。
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  • 神の愛を知り、信じる(ヨハネの手紙一 4章)
    わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。
    神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
    (ヨハネの手紙一4章16節)
    神が私たちを愛してくださったので、私たちは、神を愛し、兄弟を愛する者へと変えられました。そのような神に愛されている信仰者について、きょうの聖句の中でこのように書かれています。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています」。
    私たちは、神を愛することのない者でした。それは私たちが神の愛を知らなかったからです。しかし、ヨハネは、今「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知」っていると語ります。
    神の愛は、その言葉においてだけ、私たちに示されたのではありませんでした。そうではなく、神はご自分の愛を、具体的なかたちにして、私たちに示してくださいました。それが、イエス・キリストを私たちの身代わりにされるということでした。
    キリストによって示された愛を通して、神はご自身が愛なるお方であることを明らかにしてくださったのです。ですから、信仰者は「神の愛を信じています」と告白できます。この世において神の愛を信じるところにこそ、私たちの平安と確かな希望があるのです。
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  • 主に背く主の証人(歴代誌下 33章)
    彼は苦悩の中で自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり、祈り求めた。神はその祈りを聞き入れ、願いをかなえられて、再び彼をエルサレムの自分の王国に戻された。こうしてマナセは主が神であることを知った。
    (歴代誌下33章12節~13節)
    マナセは、ヒゼキヤが回復した礼拝を再び汚してしまいました。主の神殿の中に異教の祭壇を築き、主が忌み嫌われることを行いました。預言者の言葉にも彼は耳を貸しませんでした。
    そこで主は、アッシリアを用いられました。マナセを攻め、捕らえ、バビロンへ引いて行かせました。マナセはそこで大きな苦悩を味わい、主の前にへりくだり祈りました。主はマナセの祈りを聞かれ、やがて王国へと帰還させられました。マナセはこうして主を知る者とされたのです。
    主は、マナセに苦悩を与え、その苦悩を通して、悔い改めに導き、そして神を忘れるという悪から救ってくださいました。それは主こそ、ただ一人の神であり、救い主であることを、マナセに悟らせるためでした。主は悪を行ったマナセさえも愛し、主の証し人としてくださいました。
    主は私たちに言われます。「あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう、わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない」(イザ43章10、11節)。
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  • 涙の谷を行くときも(歴代誌下 32章)
    ヒゼキヤは病にかかり、死にそうになった。彼が主に祈ったので、主は彼にこたえ、しるしを与えられた。
    (歴代誌下32章24節)
    ヒゼキヤは死の病にかかりました。預言者イザヤに死を告げられたヒゼキヤは、悲しみに暮れ、「顔を壁に向けて、主に」祈りました(王下20章2節)。すると、「あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいや」すというイザヤの預言を聞くことができました(王下20章5節)。そして、それは実現します。あなたの涙を見た。「わたしの嘆きを数え…革袋にわたしの涙を蓄えて」くださる主は、孤独の中で祈られる民の声を聞いてくださっています(詩56編9節)。それが声なき声だったとしてもです。
    主イエスはおっしゃいます。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタ6章6節)。
    私たちには試練の中で祈ることを忘れる日々、涙の中で祈りたくても祈ることができない日々があるかもしれません。それでも、奥まった部屋で、顔を壁に向かわせる時、そこに主は共におられます。
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  • 主にささげることの祝福(歴代誌下 31章)
    ツァドク家の祭司長アザルヤはこう答えた。「主の神殿に献納物の奉納が始まってから私たちは食べ物に不足はなく、むしろたくさん残ってしまうほどです。主はその民を祝福してくださいました。この大量の物が残っています。」
    (歴代誌下31章10節)
    ヒゼキヤは崩壊していた神殿を立て直し、失われていた礼拝を再建しました。そして祭司たちを集め、ふさわしい任務につかせます。祭司の役割が整えられることで、律法に書かれている通りの礼拝をささげる道が、人びとに開かれました。
    それからヒゼキヤは、人びとにいけにえをささげるように命じました。それは、礼拝を司る祭司の生活を支え、彼らが「主の律法のこと」に専念するためでした。ヒゼキヤは命じただけではなく、自分自身もささげました。こうして神殿には人びとによってささげられた多くのいけにえが積み上げられました。その大きさは、「私たちは食べ物に不足はなく、むしろたくさん残ってしまうほどです。主はその民を祝福してくださいました」と祭司アザルヤに驚きを与えるほどでした。
    献げ物をささげる、この行為の中に主の祝福があらわされています。主に贖われ、生かされているものだからこそ、主にささげることができます。この行為そのものが信仰告白であり、主の祝福のしるしです。私たちの生活に主の祝福が巡りゆく幸いを思わされます。
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  • 主に近づくことができる幸い(歴代誌下 30章)
    ヒゼキヤは彼らのために祈って言った。「恵み深い主よ、彼らをお赦しください。彼らは聖所の清めの規定には従いませんでしたが、神、先祖の神、主を求めようと決意しているのです。」主はヒゼキヤの祈りを聞き入れ、民をいやされた。
    (歴代誌下30章18節~20節)
    ヒゼキヤ王は、人びとの心に神に仕える心を呼び起こすために、それまで行うことができなかった過越祭を実行しました。ヒゼキヤは使者を派遣し、全イスラエルに招待状を送って、過越祭に集まるように呼びかけました。
    「あなたたちの神、主は恵みと憐れみに満ちておられ、そのもとにあなたたちが立ち帰るなら、御顔を背けられることはない」(9節)。
    この招きを聞いた人びとの多くのものが、謙遜になってエルサレムに集まり、心をひとつにして、主がなさる御業を共に喜び祝うことができました。祭司たちは集まった人びとを祝福し、「その声は聞き届けられ…天にまで達した」(27節)。
    主は憐れみ深い方です。平安を失っていた人びとを決してお見捨てにならず、ご自分のもとへ引き寄せ、祝福してくださいます。それは今も変わることはありません。主イエスは、「人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできにな」るお方です(ヘブ7章25節)。主は私たちの近くにおられ、祈りを聞かれ、魂の傷をいやしてくださいます。
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  • 死から命に移ったしるし(ヨハネの手紙一 3章)
    わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。
    (ヨハネの手紙一3章14節)
    ヨハネは、きょうの聖句の中で、「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています」と語っています。死から命に移ったということは、「永遠の命」に移されたということです。
    それでは、私たちが「永遠の命」に移された、というこの世におけるしるしは何なのでしょうか。私たちは、そのようなしるしがあるのだろうか、と考えるかもしれません。しかし、ヨハネは、「兄弟を愛している」ことが、確かなしるしである、と語ります。
    かつての私たちは愛することができない者でした。しかし、キリストの愛を知った時、「兄弟を愛する」ことの喜びを教えられました。不十分にしか愛せなくとも、知識としてではなく、魂において、愛することの大切さを心に刻んでいます。「兄弟を愛する」ことは、キリストに愛されているしるしです。
    このしるしは、私たちを愛してくださるキリストとの霊的な交わり、つまり、「永遠の命」の豊かさを表すものです。この命を与えられている者として、兄弟を愛するというしるしを、きょうも、豊かに示すことができますように、神に願い求めます。
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  • 「永遠の命」とは(ヨハネの手紙一 2章)
    初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
    (ヨハネの手紙一2章24節~25節)
    私たちが永遠の命という言葉を聞く時に、どのような命のことを考えるでしょうか。永遠の命とは、この地上に生きている私たちの命が、限りなく続くこと、と考える方もおられるかもしれません。昔から、さまざまな国で、永遠にこの世で生き続ける命を手に入れようとしたことが、歴史の記録の中で明らかにされています。しかし、ヨハネが語る「永遠の命」とは、この地上の命が長く続くことではありませんでした。
    ヨハネは、「永遠の命」について「初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう」と語っています。初めから聞いていたこととは、何でしょうか。それは、イエス・キリストが、私たちの罪が赦されるために、ご自分をいけにえとしてささげてくださったことです。
    十字架の恵みが私たちの心の中に留まっているならば、私たちは御子の内に、また御父の内にもいます。そして、御子と御父の交わりの内にいることが、「永遠の命」です。地上の生の中にあっても、御父と御子を誉め讃える者は、「永遠の命」に生きています。
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  • 「命の言」を伝える(ヨハネの手紙一 1章)
    初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。
    (ヨハネの手紙一1章1節)
    私たちにとって、命とは何でしょうか。この世の人生を一歩一歩あゆむ肉体の命を考える方もあるでしょう。その中でどのような生き方をするのか、ということにまで思いを馳せる方もおられるでしょう。そのような肉体の命について考えることは正しいことです。聖書においても肉体の命を大切に考えて生きることは、決しておろそかに考えられてはいません。
    ヨハネは、そのことを十分に知ったうえで、「命の言」について語ります。言が、命を支えているのでしょうか。ヨハネが語る「命の言」は、抽象的なものではありません。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」が、「命の言」です。
    実は、ヨハネは、本当の人間としてこの世に来られたイエス・キリストを、「命の言」と呼んでいます。ヨハネは、見て、触れることができたキリストを通して、この世界が造られる前からおられた神なるお方と出会っていることを示されたのです。
    「命の言」であるキリストが心に宿られるとき、肉体を含め、私たちの人生は永遠の神の御手に守られます。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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