リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
Download on the App Store

リジョイス聖書日課 episodes

  • 閉ざされた扉を開かれる(歴代誌下 29章)
    その治世の第一年の第一の月に、ヒゼキヤは主の神殿の扉を開いて修理し、…言った。「レビ人よ、聞け。今、自分を聖別し、先祖の神、主の神殿を聖別せよ。聖所から汚れを取り去れ。」
    (歴代誌下29章3節~5節)
    「わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじない」(アウグスティヌス『告白』第1巻第1章1)。
    ヒゼキヤは29年間、王として主に仕えました。最大の貢献は、ユダ王国に失われていたものを取り戻したこと、真の礼拝の回復です。「アハズは神殿の祭具を集めて粉々に砕き、主の神殿の扉を閉じ」てしまいました(28章24節)。礼拝を喪失し、神を喪失した民は、自分が何者か、何によって生かされているのかを根本的に見失っていました。まさに民は、神と自らを見失うことで、安らぎを喪失してしまっていました。
    しかし、主はそのような彷徨う人びとを憐れんでくださいました。主はヒゼキヤを王として立て、神殿の扉を開き、整え、そこに民を迎え入れてくださいました。「こうして、主の神殿における奉仕が復活した。ヒゼキヤとすべての民は神が民のためにしてくださったことを喜び祝」う者とされたのです(35、36節)。
    主が礼拝の心を与えてくださいます。そして、安らぎを失った者に、礼拝を通して、真の喜びを与えてくださいます。あなたに礼拝の扉は開かれています。
    0 min
  • 裁きの中の憐れみ(歴代誌下 28章)
    その名をオデドという主の預言者がいて、サマリアに凱旋した軍隊の前に進み出て言った。「…今、わたしの言うことを聞き、兄弟の国から連れて来た捕虜を帰しなさい。主はあなたたちに対して激しく怒っておられる。」
    (歴代誌下28章9節~11節)
    アハズは20歳で父ヨタムの後を継ぎ、ユダの王となりました。しかし、彼はヨタムと違い、父の姿から学びませんでした。彼が陥った罪もその結果も、北イスラエルの王たちが陥ったものとよく似ています。自ら偶像礼拝を行って、主なる神を捨てたのです。そのようにして神の怒りを招いた結果、ユダは北イスラエルとの戦いに敗北し、他民族からの侵略にあい、国は大きな痛手を負いました。大国アッシリアにも苦しめられました。すべてはアハズ王が、「ユダを堕落させ、主に甚だしく背いたから」です(19節)。しかし、そのような災難のさなかでも、アハズは神に立ち帰ることなく、ますます偶像礼拝の罪を犯し続けました。
    ただ、そのような中でも神は完全にユダの民を見捨てられたわけではありません。北イスラエルとの戦いの結果、ユダの多くの婦女子が捕虜となり、サマリアに連れ去られましたが、主の預言者オデドを通しての神の警告の言葉によって、捕虜となった人びとは解放されることになりました。
    神の憐れみは、裁きの中でも弱い者たちに向けられます。私たちの主なる神は、弱い者、小さい者を顧み、憐れんでくださる神なのです。
    0 min
  • 神の前をたゆまず歩こう(歴代誌下 27章)
    ヨタムは主なる神の御前をたゆまず歩き続けたので、勢力を増すことができた。
    (歴代誌下27章6節)
    ウジヤの次のユダの王は、ウジヤの生前から王宮を取りしきっていた彼の子ヨタムです。聖書における彼についての記述が短いのは、皮肉なことに彼が歴代の王たちと比べて良い王であったからです。彼は「父ウジヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った」だけでなく、父の罪の姿から学び、「主の神殿に入ることだけはしなかった」のです(2節)。つまり、神の前に思い上がることなく、王の務めを果たしたのでした。
    彼の建築事業を中心とする内政も軍事的成功も、父ウジヤの手がけた事業を引き継いだものでした。彼が新しく始めたことは何もありません。その意味では、ヨタムは王としては凡庸だったのかもしれません。彼が王として優れている点をあげるなら、それは「主なる神の御前をたゆまず歩き続けた」ことに尽きるでしょう。そして、これこそ、神の民を治める王にふさわしい態度だったのです。
    歴史に残るような偉大なことを成し遂げなくても、たとえ平凡な人生であったとしても、神の前に誠実にたゆまず歩き続けるならば、神はその人を祝福してくださいます。私たちもまたそのような人生を歩みたいものです。
    0 min
  • 思い上がりを戒める(歴代誌下 26章)
    ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及んだ。
    ところが、彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。
    (歴代誌下26章15節~16節)
    アマツヤの次にユダの王となったのはウジヤです。彼は「主の目にかなう正しいことをことごとく行った」と言われ(4節)、「神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及」びました。
    しかし、そのような彼も罪と無縁でいることはできませんでした。彼が陥ったのは「思い上がり」という罪です。勢力が増したのは自分自身の力によるのだ、という思い上がりは、彼を傲慢にし、主に従う者ではなく主に背く者としてしまいました。彼が行った具体的な罪は、神殿の祭壇で祭司にしか許されていない香をたこうとしたことです。彼を諫める祭司に対して怒り始めたウジヤでしたが、そのさなかに重い皮膚病が彼の額を襲います。神の律法によれば、それは宗教的な汚れを意味し、人々から隔離されなければなりませんでした。ウジヤは、王としての務めも果たせなくなってしまいました。神の裁きはそのような形でウジヤに訪れました。
    「思い上がり」は聖書がくり返し戒める罪です。それは全能の神の力を畏れず、すべてを神ではなく自分中心に考えるようになるからです。神の前における謙遜こそ、私たちのあるべき姿なのです。
    0 min
  • エデンの園から聖なる都へ(ヨハネの黙示録 22章)
    天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に12回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
    (ヨハネの黙示録22章1節~2節)
    世の終わりの新しいエルサレムには「命の木」があり、「川」が流れています。それは創世記のエデンの園を思い起こさせます。「初めであり、終わりである」と言われる主イエスが再臨されるとき、初めの時にあった祝福が取り戻されるのです(13節)。
    失われたものの回復だけではありません。そこには発展があります。「園」であった最初の状態は、最後には新しいエルサレムという聖なる「都」へと発展しているのです。その過程には、子どもを産み、育てるという家族の営みがあり、地を耕すという労働と文化もあります。すべては神の祝福の実りです。
    大きな失敗をしたり、思い通りにいかなかったりしたときに、私たちはもう一度初めに戻りたいと思うことがあります。そう思っても、私たちの力は、時計の針を戻すことはできません。しかし、神は最初の状態を回復することのできるお方であり、それどころか、私たちの失敗にもかかわらず、最初のとき以上の祝福へと導いてくださるお方です。エデンの園から聖なる都へ。この大きな神の導きの中に、私たちはきょうも生かされているのです。
    0 min
  • 目の涙はぬぐい取られ(ヨハネの黙示録 21章)
    「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
    (ヨハネの黙示録21章3節~4節)
    天と地が新しくされる終末の完成の光景が描かれています。聖なる都、新しいエルサレムが天から下って来ます。そこは神が人と共にいてくださる場所です。そして、この終わりのときの恵みの大きさが、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」という言葉に表されています。新しいエルサレムでは、悲しみや苦しみのために流す一切の涙はぬぐわれます。
    かつて、主イエスご自身がエルサレムのために泣かれました(ルカ19章41節)。エルサレムの汚れた罪を嘆かれたわけです。そこには罪や死によって涙を流さざるを得ない罪人に対する深い憐れみがありました。主イエスはそのエルサレムで十字架にかかり、罪と死の力を滅ぼしてくださいました。私たちの涙をぬぐうハンカチは、主イエスご自身の涙なのです。
    この地上を歩む間、なお私たちの頬には涙が流れ続けることでしょう。しかし、そのときには主イエスの愛と憐れみの涙を思い出します。私たちには希望があります。主イエスがいつも共にいてくださり、そして、すべての涙がぬぐわれる新しいエルサレムが約束されているのですから。
    0 min
  • キリストと共に千年(ヨハネの黙示録 20章)
    わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。
    (ヨハネの黙示録20章4節)
    偶像礼拝を拒んで殉教した者たちが、やがて生き返ってキリストと共に千年の間統治するという約束が語られています。千年という、私たちの思いをはるかに超えた長い期間が、祝福の大きさを物語っています。それは、黙示録の前半で、苦難の期間が42か月、つまり3年半とされていたのと対照的です(11章2節)。私たちは普段、楽しい時間はあっという間に過ぎ、苦しい時間はいつまでも続くように感じるかもしれません。しかし、信仰者にとっては、苦難の時は短く、喜びの時は長いのです。
    教会の歴史においては、この千年がいつのことなのか、また文字通りの千年なのか、さまざまな議論もあったようです。しかし、いずれにしても大切なことは、私たちが誰と共にいるかということです。「キリストと共に千年の間統治した」とあります。勝利者キリストと共にいることこそが幸いです。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と言われます(2ペト3章8節)。
    信仰者は、きょうという日にキリストと共にいることで、千年の幸いを味わうことができるのです。
    0 min
  • 救えない神々を求めるな(歴代誌下 25章)
    主はそのアマツヤに対して怒りに燃え、預言者を遣わされた。彼は王に言った。「あなたの手から自分の民を救えなかった神々を、どうしてあなたは求めるのか。」
    (歴代誌下25章15節)
    ヨアシュ王が家臣によって殺害された後、その子アマツヤが王位につきました。聖書はこのアマツヤについての評価を「彼は主の目にかなう正しいことを行ったが、心からそうしたのではなかった」と要約しています(2節)。彼はエドムとの戦いでは、神の人の忠告を聞き入れて、「助けることも、挫くことも」できる神の力を信頼して戦い、勝利します。しかし、戦いの後には、エドム人の拝む神々を自分の神として礼拝するようになり、それに対して警告を発する神の預言者の声にも耳を貸さず、かえって預言者を脅迫します。
    敵国の神々を求めるという偶像礼拝に陥ったアマツヤとユダの民に対する神の怒りは、北イスラエルとの戦いでの惨敗、アマツヤの捕縛、エルサレムの城壁の一部破壊、神殿での略奪、さらにはその後の謀反によるアマツヤ殺害という形となってあらわされます。
    偶像礼拝の罪は、私たちを「助けることも、挫くことも」できる力のある主なる神ではなく、私たちを救う力などない、救えない偽りの神々を求めることにあります。そのような罪に陥ることのないように、真の神の力にのみ、より頼んで歩んでいきましょう。
    0 min
  • 神の声に耳を貸さない罪(歴代誌下 24章)
    神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。「神はこう言われる。『なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』」
    (歴代誌下24章20節)
    祭司ヨヤダによって立てられた王ヨアシュは、ヨヤダの生きている間は正しく良い王でした。しかし、ヨヤダが死ぬと、ヨアシュの治世はまったく様変わりします。「主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた」のです(18節)。それはヨアシュが、神の預言者たちの戒めに耳を貸さず、世俗の政治家たちの言うことばかりを聞き入れた結果でした。
    ついにヨヤダの子ゼカルヤに神の霊が降り、ヨアシュ王とその民に向けて神の怒りの警告を伝えます。しかし、民たちのとった行動は、共謀してゼカルヤを石で撃ち殺すことでした。それは、ヨアシュ王の命令でなされました。ヨアシュは自分を王位につけてくれた恩人であるヨヤダの子を殺したのです。この罪に対する神の裁きは、アラム軍による侵略と家臣によるヨアシュ自身の殺害でした。
    主イエスはこのゼカルヤ殺害について言及しておられます(ルカ11章51節)。神の預言者を殺害することは、神の声に聞き従わないという最も重い罪です。しかし、その罪さえも主イエスは、その身に引き受けてくださいました。主イエスを信じる私たちは、神の声に耳を傾け、それに従う者であり続けましょう。
    0 min
  • 再び主の民となる喜び(歴代誌下 23章)
    ヨヤダは、自分とすべての民と王との間に、主の民となる契約を結んだ。こうして、国の民は皆喜び祝った。
    (歴代誌下23章16節、21節)
    イエフの反乱によってアハズヤ王が死ぬと、アハズヤの母アタルヤがユダの国を支配することになりました。その際、北イスラエルの王の一族であるアタルヤは、ユダの王族の根絶を企みます。それは、神がダビデと結んだ契約を無くしてしまおうとする企みでした。しかし、神のご計画は、そのような彼女の企みをくじかれます。
    6年に及ぶアタルヤの支配の後、かくまわれ生き残った前王の子ヨアシュが祭司ヨヤダによって王として立てられました。その際にヨヤダがしたことは、ユダの民に神との契約を再認識させることでした。背信の王たちによってユダでも偶像礼拝がはびこっていましたが、ヨヤダはそれを一掃しました。そして、主の神殿を聖別し、主なる神こそ唯一の神であり、その主なる神との契約によって、ユダの民は主の民であるということを再確認させたのです。民はこのことを喜び祝いました。
    キリストによる新しい契約によって私たちをご自分の民としてくださる神のご計画は、それを妨げようとする人間の企みをくじかれます。そのように守られて、私たちが、今、キリストによって主の民とされていることに喜びを覚えます。
    0 min

About リジョイス聖書日課

From the publisher's feed

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

More shows like リジョイス聖書日課

3分でわかる!聖書 by 中川健一

3分でわかる!聖書

6 Listeners

聖書人になりたい by kannokazuhiko

聖書人になりたい

1 Listeners

聖書プロジェクト BibleProject by BibleProject

聖書プロジェクト BibleProject

0 Listeners