リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • すべての人はアダムから(歴代誌上 1章)
    アダム、セト、エノシュ、
    (歴代誌上1章1節)
    歴代誌上の冒頭には、アダムからの系図のリストが延々と記されています。さながら昔々の墓地に来て墓標を見ている思いになってしまいます。彼らは、この世に生を受け、激動の人生を駆け巡りやがては死んで、これらの墓標に名を刻みました。愛と憎しみの狭間に立ち、ある時は戦って傷つき倒れ、叫び声をもった生身の人間です。
    ここに名を連ねる人びとは無意味な存在ではありませんでした。民族の進展に貢献した大切な人びとでした。彼らの人生は、赤々と燃える松明の如きものではなかったかもしれません。ほの暗い灯心のごとくであったかもしれません。どちらにせよ、彼らの人生は、ある時は子として、ある時は父として、命をつなぐものでした。それぞれ命の火をともし続けて来たのです。実に一人ひとりが神の愛の対象であったのです。
    私たち、人類は一人の人アダムから誕生しました。彼の罪の故に呻きながら生きています。同時に、アブラハムのすえである第二のアダムであるイエス・キリストが、私たちに与えられています。主によって新たに生まれる希望に生きることができます。
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  • ヨブの悔い改め(ヨブ記 42章)
    あなたは全能であり
    御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
    あなたのことを、耳にしてはおりました。
    しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
    それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
    自分を退け、悔い改めます。
    (ヨブ記42章2節、5節~6節)
    ヨブは神の言葉により、世界の壮大さとその世界をつくられた神の果てしなさとに触れました。ヨブはその言葉のもとに平伏します。すると神は、「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(4節)とヨブに対話を求められます。
    神は、ヨブが嘆きのなかで思い描いていた以上に、愛に深く、自分をとらえて離さない神であられました。その神に対して、ヨブは「自分を退け、悔い改めます」(6節)。ヨブは神に対する自分の無知を、また、自分に対する神からの愛を低く見積もっていたことを悔い改めたのです。
    主はヨブの悔い改めを受け入れ、ヨブを祝福し、三人の友人たちを叱責されます。彼らは神をよく知らず、正しく語らず、ヨブを苦しめたからです。ヨブは、これらの体験を通し、嘆く者を見捨てることのない神とさらに深く出会います。サタンの企て(1、2章)は失敗しました。
    私たちは苦難を嘆くばかりで、人の痛みに寄り添えず、神を求めることも少ない者ですが、ヨブが仰ぎ見た同じ神と出会っています。ヨブのように神を求め、真実の悔い改めに生きることを願います。
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  • 主権者である神の近づき(ヨブ記 41章)
    彼を挑発するほど勇猛な者はいまい。
    いるなら、わたしの前に立て。
    あえてわたしの前に立つ者があれば
    その者には褒美を与えよう。
    天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。
    (ヨブ記41章2節~3節)
    ヨブ記では40章前半に陸の怪物ベヘモットが語られ、人間では制御できないものの象徴としてレビヤタンが語られています。ベヘモットとレビヤタンを通して、ヨブには理解できない霊的な世界の神秘がヨブの前に開かれます。
    ヨブ記のレビヤタンは、ヨハネの黙示録では巨大な竜、サタンとして登場します。もし仮にヨブが黙示録の記述に触れる機会があったなら、サタンの激しい攻撃から実は神が守ってくださっていたことに感謝したことでしょう。
    神は、ヨブにレビヤタンと戦う勇気があれば、「わたしの前に立て」と語られます。レビヤタンが恐いのなら、誰が神の前に立ち得ましょうか。ヨブはここで、「自分は正しい、神は間違っている、私は神を告発する」という訴えの愚かさに気付いたことでしょう。
    ヨブが神に呼びかけるということは、幾多の生き物、不可思議な怪物という隔たりを越えていくということでした。ヨブは愚かにもその無謀な挑戦を神にし続けてきたのです。そして、神はヨブの切実な愚かさを愛されました。神は、その大きな隔たりを越えて、ご自分からヨブに近づいてくださっています。
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  • 迫害や命の危機の中でも(詩編 140編)
    主にわたしは申します。
    「あなたはわたしの神」と。
    主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
    主よ、わたしの神よ、救いの力よ
    わたしが武器を執る日
    先頭に立ってわたしを守ってください。
    (詩編140編7節~8節)
    詩人は、蛇のような鋭い舌を持ち、蝮の毒を唇に含んでいるような敵と遭遇しました。彼らは言葉の罠を仕掛け、行く道に落とし穴を掘っています(4~6節)。
    詩人は、その中で神に祈り訴えます。「主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」と。また、敵が、自らの唇の毒を自分の頭にかぶり、立ち上がることができなくなれば、と願います。詩人は、舌を操って人を陥れる者は、神により退けられると信じています(10~12節)。
    ところで、このメッセージを準備しているとき、フランスでISによる同時多発テロが起こりました。悲しみや怒りの中で、嘆き祈る声が上がっています。今の時代、群衆の中に身を隠すテロの罠が、社会を脅かしています。
    では、詩人の「わたしが武器を執る日、先頭に立ってわたしを守ってください」という祈りを、今日、どのように理解すればよいのでしょうか。私たちがとるべきは神の武具、身に着けるべきは、平和の福音です(エフェ6章13~18節)。偽りの言葉を退け、世界の平和のために根気よく祈り続けることが求められています。
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  • 主イエスは良い羊飼い(ヨハネによる福音書 10章)
    「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」
    (ヨハネによる福音書10章10節~11節、14節)
    聖書は、神を「羊飼い」に、人間を「羊」に譬えて語ることがよくあります。(詩23編など)。羊は、たいへん弱い動物です。一人で自分の身を守ることもできませんし、一人で餌にありつくこともできません。羊飼いがいる群れから、はぐれてしまえば、その羊は生きていくことができなくなるのです。同じように、人間も、羊飼いである神のもとから離れて生きていくことはできません。
    主イエスは、「わたしは良い羊飼い」である、とおっしゃいました。良い羊飼いであられる主イエスは、私たちのことをよく知っていてくださいます。自分や他人が自分のことを知っている以上に、もっと深いところで、わたしのことをいつも心にかけてくださるのです。
    なにより、主が良い羊飼いであられるのは、私たち羊のために、十字架の上で命を捨ててくださったからです。神から離れ、失われた羊を探し出すために、神は御子をこの世に遣わしてくださいました。今、神と共に生きることができる幸いを覚えつつ、わたしのすべてを知っていてくださる主の御声に聴き従って歩みましょう。
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  • 神の業が現れるため(ヨハネによる福音書 9章)
    「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
    (ヨハネによる福音書9章3節)
    今の自分を受け入れることができなくなるとき、私たちは、その原因がいったい何であるのかを追求しようとします。自分がこうなったのは、「あの人のせいだ」と言ってみたり、「過去にあんな不幸な出来事が起こったのには、ちゃんとした理由や原因があるに違いない」と考えてみたりします。しかし、それで納得できるわけではありません。何かが心に引っ掛かったまま、生きなければなりません。
    ところで、人生で遭遇する出来事において、何が良いことで、何が悪いことでしょうか。社会的な価値判断がそれを決めるのでしょうか。一般にはそうです。しかし、主イエスがくだされる判断は、違います。主イエスは、神の業があなたに現れるために、あなたは、今、ここに生かされているとお語りくださいます。つまり、神があなたに何をしてくださるのか。そこに、あなたのこれからの人生がかかっているのだというのです。
    キリスト者も辛いことをたくさん経験します。それでも、前を向いて生きられるのは、運命のいたずらではなく、神こそがわたしのすべてを支配しておられることを知っているからではないでしょうか。
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  • 赦されて生きる(ヨハネによる福音書 8章)
    「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
    (ヨハネによる福音書8章11節)
    生きていくうえで大切なことがあります。それは、自分がいったいどういう人間であるのかを知ることです。それも、たまに思い起こすのではなく、日々、主からいただくみ言葉によって、自分を位置づけ、今日を生きて行くことが大切だと思います。
    私たちが、毎日聴くべき主イエスの言葉がここにあります。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。
    私たちは、十字架の主によって、すべての罪が赦されている人間です。何と幸いなことでしょうか。私たちは、もう自分が犯す罪によって、のたうちまわって苦しむことはないのです。私たちは、もう「自分は罪深い人間だ」「決して赦されない罪を犯した人間だ」と、自分で自分に言い聞かせながら、辛い毎日を生きる必要はないのです。
    ただお一人、罪を罪として裁くことがおできになる主が、そして、その罪を背負って十字架についてくださった主が、きょうも私たちに告げてくださいます。「わたしもあなたを罪に定めない」。この言葉が、私たちを本当に生かすのです。
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  • 主の御手の中で(ヨブ記 40章)
    全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。
    神を責めたてる者よ、答えるがよい。
    (ヨブ記40章2節)
    神は、ヨブに言葉を促し続けられます。「神を責めたてる者よ、答えるがよい」と。その神の迫力に、ヨブはたじろぎを見せます。「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう」(4節)。ヨブは神の前に平伏せざるを得ませんでした。
    そういうヨブから言葉を引き出そうと、神はさらに言葉を投げかけられます。「男らしく、腰に帯をせよ」と(7節)。古代中東の衣服は、日本の着物のようにボタンがないので、帯を締めなければ、「締まりのないもの」になってしまいます。神はまるでヨブに、本腰を入れてわたしにかかって来いと迫っておられるかのよう、そして、このやり取りを楽しんでおられるかのようです。神は、ヨブをご自身の御手の中に置き続けてこられました。
    苦難の意味を問うヨブの問題は解決されませんでしたが、解消しました。苦難の意味がわからなくてもよいことを知り、神との語らいの中に置かれている幸いがヨブを包みました。神は、私たちが苦悩を語るとしても、本気で神と向き合うことを喜んでくださいます。
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  • 野の獣を養っておられる神(ヨブ記 39章)
    誰が野生のろばに自由を与え
    野ろばを解き放ってやったのか。
    その住みかとして荒れ地を与え
    ねぐらとして不毛の地を与えたのはわたしだ。
    (ヨブ記39章5節~6節)
    前章から挙げられている獅子や烏、鹿、野生のろば、野牛、駝鳥、野の獣、鷹や鷲は、人間が飼い馴らすことが難しい生き物です。馬は身近な動物ですが、だからこそ人は馬の力強さを知っています。
    神は語られます。「鷹が翼を広げて南へ飛ぶのは、お前が分別を与えたからなのか。…高い所に巣を作るのは、お前が命令したからなのか」(26、27節)。お前がしたからなのか、と神から問いかけられたとき、ヨブは自分のちっぽけなことと、神の偉大さを覚える以外にありませんでした。
    しかし神は、自らの小ささに打ちのめされたヨブが、その小ささから神に向かうことを望んでおられました。神はこの世にある生きとし生けるものを養っておられます。神はいずれの生き物も御手のうちに置き、命を育み、成長を守っておられます。これは動物だけのことではありません。神はヨブの命をも支えてこられました。
    自分の世界に浸っていたヨブは、自分の思いを遥かに超えた神の世界に新たに目が開かれます。私たちは、「空の鳥をよく見なさい」(マタ6章26節)の御言葉を思い起こします。神との語らいの中で自然を見る目は幸いです。
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  • 神からの答え(ヨブ記 38章)
    これは何者か。
    知識もないのに、言葉を重ねて
    神の経綸を暗くするとは。
    男らしく、腰に帯をせよ。
    わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
    (ヨブ記38章2節~3節)
    神はエリフの言葉に続いて、長い沈黙の後に語り出されました。ヨブの問いは「自分は無実であるのに、何故このように苦しめられるのか、神の正義はどこにあるのか」というものでした。神は、この問いに直接的には答えてはおられませんが、ヨブに語りかけてくださいました。
    神はこの時を心待ちにしておられたかのようです。これまで、ヨブが自分の身にふりかかった災いの不可解さに耐え続けたように、神も沈黙という忍耐を重ねてこられました。この二つの忍耐がついに終わりを迎えます。
    「わたしが大地を据えた時、お前はどこにいたのか」と問われるとき、ヨブは答えることができません。創造世界について「お前は何を知っているのか」と問われても、自分の存在の小さなことを自覚する以外にないのです。
    しかし、神の厳しい言葉はヨブの口をふさぐためではありません。「答えてみよ」と、神はヨブのさらなる言葉を聞こうとされます。神はヨブとの交わりを望んでおられます。今はもう沈黙ではなく、言葉を通して。時は満ちました。それはヨブにとって厳しくも、恵み深い時です。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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