リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
Download on the App Store

リジョイス聖書日課 episodes

  • せめぎ合う神への思い(ヨブ記 14章)
    どうか、わたしを陰府に隠してください。
    あなたの怒りがやむときまで
    わたしを覆い隠してください。
    しかし、時を定めてください
    わたしを思い起こす時を。
    (ヨブ記14章13節)
    ヨブは、その心を死の彼方へと向かわせながら、自身の内にある神への二つの思いをせめぎ合わせています。
    ヨブは一方で見つめています。神は、理不尽にも思える激しい怒りを燃やされ、災いをくだされるお方であることを。神への恐れ、畏怖の念。それがヨブの信仰の根底にあります。しかし、他方でヨブは捨てきれません。神は愛のお方であるということを。神は怒りを燃やされながら、その最中にも自身で造られた人間を守り、やがて怒りを静めてくださる方であることを。どちらが本当の神であられるのか。怒りを暴発される神か。それとも、自分という小さな存在をも忘れられない、優しく愛深き神か。ヨブは、死の彼方の世界を隠れ家のようにして、神の本当の姿を見極めたいと願います。
    私たちにも、依然として、神の御業が不可解に見えることがあります。しかし、主の十字架を見つめる私たちは知っています。神の怒り、裁き、そのすべての御業の基に、人間への果てしなく大きな愛があることを。私たちは、その愛を、地上においても、死の彼方においても全身で浴び、生かされていきます。
    0 min
  • 命をかけて、神に向かう(ヨブ記 13章)
    そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。
    だが、ただ待ってはいられない。
    わたしの道を神の前に申し立てよう。
    このわたしをこそ
    神は救ってくださるべきではないか。
    神を無視する者なら
    御前に出るはずはないではないか。
    (ヨブ記13章15節~16節)
    神への畏れを深めるヨブ。このヨブは神への強い憧れと愛を抱き続けている人でした。災難の後も決して変わらずに。だからこそ、命をかけた言葉を神に向かわせます。「このわたしをこそ、神は救ってくださるべきではないか」。
    こう言うヨブは不遜でしょうか。傲慢でしょうか。友人たちにはそう聞こえました。しかし、ヨブは人間の小ささを知っています。人間ごときが、果てしなく大きな神、知恵に満ちた神にたやすく物申せるはずがないことも。そして、神は、訴えかける者に、激しい怒りと不快感を示されるかもしれないことも。そのヨブが叫んでいます。救いを求めて叫んでいます。神への愛の発露として、抑えきれない神への憧れをもって。まっすぐに叫んでいます。そこに、一切の下心はありません。神との間を取り繕う、飾りたてた言葉もありません。丸裸の心だけがぶつけられます。
    私たちは知らされます。ヨブ記の冒頭で、神がなぜあれほどヨブを信頼されていたのか。それは、このようなヨブのまっすぐさであったと。そして、そのまっすぐさは繰り返される嘆きのなかで、より澄んだものに導かれていると。
    0 min
  • 神と共に知恵と力はある(ヨブ記 12章)
    知恵は老いた者と共にあり
    分別は長く生きた者と共にあるというが
    神と共に知恵と力はあり
    神と共に思慮分別もある。
    (ヨブ記12章12節~13節)
    友人たちの言葉が、彼らとヨブとの間にある深い溝の存在を露わにしていきます。両者は、ヨブを襲った災難以前には、その溝に気づかず、互いを友人として気遣い、人を生かし、励ます「知恵」を分かち合っていました。
    しかし、その「知恵」がヨブの嘆きを説明しきれなくなったとき、深く、大きい溝が両者の間に姿を見せました。それでも、友人たちは共有してきた「知恵」に誇りをもち、語り続けます。他方、ヨブは破滅的な災難を身に受けることで、彼らの「知恵」にかつての軽やかな信頼を置けなくなりました。そこに悲しい限界を見たからです。たとえ、それが最良の人間たちによる、歴史と経験を通し得てきた最高の「知恵」であったとしても、ヨブの嘆きに救いを与えてはくれません。
    私たちの日々に起こる小さな一つの事柄にさえ、その理由を人間の「知恵」で安易に説明してはいけない、できないことがあります。人には決して分からない、神の「知恵」に秘められたことがあります。そのことにもう少し繊細であれたなら、私たちは隣人の痛みに、あと少しだけ柔らかく向き合えるはずです。
    0 min
  • 主を待ち望むということは(詩編 131編)
    主よ、わたしの心は驕っていません。
    わたしの目は高くを見ていません。
    大き過ぎることを
    わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。
    (詩編131編1節)
    この詩編の結びは「イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに」です。
    それでは、「主を待ち望む」という私たちの姿勢の中身はどうなっているのでしょうか。それが、最初に言われている「わたしの心は驕ってい」ないということです。そしてそれをダビデは、「高くを見ていません。大き過ぎることを…追い求めません」と言い換えます。
    ダビデには、神殿を建てるという高く大きな夢がありました。神がそれをお許しにならなかったときのダビデの心境を聖書は語っていませんが、あの体験を経たあとのダビデその人の歌がこれだと考えられます。ライフワークといってもよいものが成らなかったとき、ダビデは「わたしは魂を沈黙させます」と言いました(2節)。今まで「大き過ぎること」を見ていた自分を、今、沈黙させ、「わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」と言いながら、自分の今までの願いを無にするようにして「主を待ち望む」という姿勢を獲得しました。
    神はこのようなダビデの「待ち望み」に確かに答えられ、ダビデの子、イエス・キリストを送られたのです。
    0 min
  • 今や、教会によって(エフェソの信徒への手紙 3章)
    こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。
    (エフェソの信徒への手紙3章10節~11節)
    パウロは、1章において、キリストにある神の選びについて記しました。それは神の「秘められた計画」でしたが、パウロたちには特別に啓示されました。この計画について、パウロは6節でこう記しています。「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」。
    イエス・キリストにあって、ユダヤ人も異邦人もなく、すべての人が同じ約束にあずかることができます。そして、そのことをパウロは、異邦人の使徒としてすべての人に解き明かしているのです。
    このパウロの働きは、恵みによって、私たち教会に託されています。キリストにあって、一つの体とされ、約束された御国を受け継ぐ私たちこそ、キリストにおいて実現した神の計画をすべての人に解き明かす宣教の器です。神は私たちをキリストにあって救いに定められただけではなく、他の人びとを救うための手段としても定めておられます。
    0 min
  • わたしたちの平和であるキリスト(エフェソの信徒への手紙 2章)
    実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し…ました。
    (エフェソの信徒への手紙2章14節~16節)
    エフェソの教会は、神の契約の民であるユダヤ人とまことの神を知らない異邦人から構成されていました。そのエフェソの教会を、パウロは、キリストにおいて造り上げられた一人の新しい人であると語ります。
    イエス・キリストを信じるまでユダヤ人と異邦人は対立して生きていました。互いに敵意を抱き、交わりを持とうとはしませんでした。しかし、イエス・キリストは十字架によって両者を神と和解させてくださり、両者の間にある敵意という隔ての壁を滅ぼしてくださったのです。
    キリストを十字架につけたのは、ユダヤ人であり、異邦人でした。キリストは、十字架において、ユダヤ人と異邦人の両者から敵意を受けられました。その敵意を赦すという仕方で、両者に神との平和を、さらには両者の間に神の平和をもたらしてくださったのです。
    キリスト教会は様々な国籍の人たちから成り立っています。それは私たちが、キリストにあって平和を与えられ、一人の新しい人として造り上げられているからなのです。
    0 min
  • 絶大な神の力(エフェソの信徒への手紙 1章)
    また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、…あらゆる名の上に置かれました。
    (エフェソの信徒への手紙1章19節~21節)
    エフェソの信徒への手紙は、教会についての教えがまとまって記されている手紙です。イエス・キリストの使徒パウロは、1章で、キリストにある永遠の選びについて記します。それも神をほめたたえる文脈において記します。
    教会(エクレシア)は、「召し出された者たちの集い」の意味ですが、その召しは、神のキリストにある選びに基づくものです。神は、天地創造の前から、キリストにおいて御自分の民を選んでくださいました。ですから、イエス・キリストを信じる私たちは、神の選びの民であり、神の恵みによって救われた者たちであると考えてよいのです。私たちは、御国を受け継ぐための保証として聖霊を与えられ、「イエス・キリストは主である」と大胆に告白し、神の栄光をたたえる者たちとされています。
    今日の御言葉は、その私たちに対して、キリストに働いた神の絶大な力が働いてくださったことを教えています。私たちがキリストを信じ、霊的に生きる者となることができたのは、キリストを復活させ、天へと上げられた絶大な神の力のお働きによることなのです。
    0 min
  • 晴れやかな偽り(ヨブ記 11章)
    もし、あなたも正しい方向に思いをはせ
    神に向かって手を伸べるなら
    また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ
    あなたの天幕に不正をとどめないなら
    その時こそ
    あなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく
    恐怖を抱くこともないだろう。
    (ヨブ記11章13節~15節)
    ヨブが、神に発した、暗くもギリギリの愛の言葉を、3人目の友人ツォファルは、「無駄口」と切り捨てます(3節)。ヨブの苦悩から、彼の耳は、偽善と高慢さしか聞き取れません。彼もまた打ちひしがれるヨブを高みから見下ろすだけで、嘆く者の傍らに在ろうとしません。そして、他の友人同様、ヨブの過ちを正そうと躍起になります。
    ツォファルが注目したのは、ヨブの神に対する恐れでした。彼は自信満々に、その恐れから解放される方法をヨブに語ってみせます。それは神に手を伸ばし、自らが犯した罪を認め、悔いることでした。そして、もう二度と罪を犯さないと誓うことでした。そうすれば、心の恐れは消えるだろう。ツォファルが語る方法は明快で晴れやかです。
    しかし、それは可能なことか。ヨブはそれほど神の御業を軽く、また自身の恐れを易く受け止めてはいません。いずれもが深く重たい。だからこそ暗く苦悩しています。
    私たちは、暗さの中、混乱の中で神を味わう時があります。味わっている人に出会います。その尊い人間の姿を大切にまっすぐ見つめられたなら。心からそう願います。
    0 min
  • 告白を生きる者へ、神は愛ゆえに沈黙する(ヨブ記 10章)
    御手をもってわたしを形づくってくださったのに
    あなたはわたしを取り巻くすべてのものをも
    わたしをも、呑み込んでしまわれる。
    わたしの人生など何ほどのこともないのです。
    わたしから離れ去り、立ち直らせてください。
    (ヨブ記10章8節、20節)
    主は与え、主は奪う」(1章21節)。ヨブは、かつて自身が語ったその告白を深めていきます。告白を生身で経験し、苦しむことを通して。
    なぜ、神は、一方で人間を形づくり、命と恵みを約束されながら(12節)、しかし、他方で人間を災いに呑み込んでしまわれるのか。かつての告白に、ヨブはもう美しい調和を見ることができません。与え、奪われる神は矛盾しておられる。それが、ヨブのリアルで、率直な感覚になりました。もはや安定した告白の日々にヨブは帰れません。矛盾しているように見える神が耐え難い。その神のもとにある日々を厭う。ヨブは混乱し、願います。神が自分から離れて去ってくれることを。そうして、神から解放され、自分が消えていくことを。
    それでも、ヨブは自分からは、神に別れを告げることができません。それがヨブの信仰です。神が離れ去ること。ヨブはその別れを最後の恩寵として神に願います。それがヨブのギリギリの愛です。神は、そのヨブに愛を絶やされません。ヨブから離れられません。神は、ヨブに捉えきれない大いなる神として、ヨブの願いに沈黙を貫かれます。
    0 min
  • ヨブが憧れた世界(ヨブ記 9章)
    このように、人間ともいえないような者だが
    わたしはなお、あの方に言い返したい。
    わたしの上からあの方の杖を
    取り払ってくれるものがあるなら
    その時には、あの方の怒りに脅かされることなく
    恐れることなくわたしは宣言するだろう
    わたしは正当に扱われていない、と。
    (ヨブ記9章32節、34節~35節)
    ヨブは夢見ます。もしも神と相まみえることができたならと。しかしそれが無理な望みであることをヨブはよく知っています。神は果てしなく遠いお方。その神にヨブの声は届かない。神は理不尽に、容赦なく災いを与えられるお方。その神がヨブは恐い。
    それでも、もしもという希望がヨブの心から消えません。もしも神と人との間に立ち、神の怒りを静めてくれる方がおられるならば、そのときヨブは言いたいのです。神よ、ちゃんと見てくれ、俺の言い分を聞いてくれ、俺は正当に扱われていない、と。ヨブは痛いほどに神を愛しています。その思いがわずかにでも届き、その手応えがあったならば、ヨブの苦悩は報われたでしょう。しかし、やはりそれは無理な憧れであることにヨブの思いは沈みます。神と人との間に立ち得る方は、神と等しく、同時に人の痛みを知る人間でなければいけません。
    そのようなヨブの憧れが私たちをキリストへと誘います。キリストこそ神と人間の架け橋、私たちの平和です(エフェ2章14節)。キリストが、私たちの叫びを神へと運びます。今、私たちはヨブが憧れた世界に生きています。
    0 min

About リジョイス聖書日課

From the publisher's feed

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

More shows like リジョイス聖書日課

3分でわかる!聖書 by 中川健一

3分でわかる!聖書

6 Listeners

聖書人になりたい by kannokazuhiko

聖書人になりたい

1 Listeners

聖書プロジェクト BibleProject by BibleProject

聖書プロジェクト BibleProject

0 Listeners