リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 命への扉が開かれるとき(ルカによる福音書 24章)
    そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。』」
    (ルカによる福音書24章45節~46節)
    復活された主イエスは弟子たちの真ん中に現れます(36節)。弟子たちはどれほど驚いたことでしょう。例えば「明るい暗闇」という表現は矛盾しているように、このとき「喜びのあまりまだ信じられ」なかった(41節)とある弟子たちの心は、矛盾の形でしか表現できないものでした。死んだはずの主が復活したという理解を超えた現実が、彼らに混乱と喜びを同時に与えました。
    そこで主イエスは「彼らの心の目を開」かれました。聖書全体(44節)に書いてあることを悟らせるためです。「書いてある」という表現は「以前から神のご計画であった」という意味です。何度も聞いていたにもかかわらず聖書の言葉が理解できなかったのは、心の扉に鍵がおろされていたからです。
    完全に閉ざされた扉が開かれる時、それがイースターです。主イエスの遺体を納めた墓が開き(2節)、二人の弟子たちの目が開き(31節)、そして心の目が開かれた。主が開いてくださった新しい命への道を祝うこの日、私たちの心の目もキリストが開いてくださいますように。
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  • 今ここで始まる命(ルカによる福音書 23章)
    そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
    (ルカによる福音書23章42節~43節)
    主イエスの横で十字架につけられた犯罪人の一人は、ここが自分にとって人生の総決算としてふさわしいと思いました。しかしこの男は、主イエスは「悪いことをしていない」と言います。そしてこの男は主イエスがメシアとして支配なさるとき自分を思い出してほしいと願いました。
    しかし主イエスはこの男が望んだ以上の約束をされます。この男ははるか将来の救いを希望していました。しかし主イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃいました。この刑罰は命を失うには普通1日以上かかる残酷な手段でした。それでも主イエスは「今日」といわれます。
    それは主イエスと共に生きる「今」「ここ」に始まる新しい命だからです。だれもがこの男は地獄に行ったと思ったでしょう。しかし主イエスとの交わりを、誰も引き裂くことはできないのです。「わたしは確信しています。…どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ロマ8章38、39節)。
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  • イエスの力強い祈り(ルカによる福音書 22章)
    「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
    (ルカによる福音書22章31節~32節)
    主イエスとの最後の食事の後、弟子たちは悪魔から激しい誘惑を受けます。悪魔の目的は、彼らの心をくじき神の任務には到底耐えられない罪人であることを証明することでした。
    ペトロはすぐに三度も主イエスを知らないと否定するほど深刻な裏切りの罪を犯しました(54節以下)。失敗する前の彼は自分の信仰を堂々と誇ることができましたが(33節)、誘惑に出遭い自分の信仰的な誠実さなど全く役に立たないことを知りました。
    しかしこの失敗をとおして彼の信仰は練り清められます。神にとっては失敗にも意味があるのです。彼はこの時「兄弟たちを力づけ」る(32節)伝道者となるための鍛錬を受けていたのでした。
    ときに私たちもペトロのように信仰が無くなってしまうのではないかと思うほどの試練にあう時があります。そんな時、私たちに代わって祈ってくれる信仰の友がいることは喜びです。さらに力強い味方がいます。ペトロの「信仰が無くならないように」祈られたイエスは、今日私たちのためにも執り成しの祈りをしてくださるからです。
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  • 終わりを見つめて祈る(ルカによる福音書 21章)
    「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
    あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
    (ルカによる福音書21章28節、36節)
    自分の将来への思い煩いや、社会に対する絶望など、足下を崩すような不安感が襲ってくる時があると思います。そんな時には何かにすがり、現実から逃げ出したくなります。
    しかし主イエスは言われます。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」(34節)。その日と言われている終わりの日が、「不意に罠のように」私たちを襲うことがないためです。その日には、それぞれが「人の子の前に立つ」(36節)のです。
    ですから、その日がいつ来てもよいように備えて「いつも目を覚まして祈」(36節)りましょう。祈りは私たちの心を真っ直ぐ神に向けさせてくれます。この祈りは戦いであり、見ることを避け続けてきた課題に私たちを正面から向き合わせます。しかしこの祈りの先に解決があります。
    なぜなら、私たちにとって終わりの日は「解放の時」(28節)だからです。主を信じる私たちに、最後の勝利は約束されているのです。ですから希望をもって祈り続けましょう。
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  • 大きな深淵(ヨブ記 8章)
    シュア人ビルダドは話し始めた。
    いつまで、そんなことを言っているのか。
    あなたの口の言葉は激しい風のようだ。
    神が裁きを曲げられるだろうか。
    全能者が正義を曲げられるだろうか。
    あなたの子らが
    神に対して過ちを犯したからこそ
    彼らをその罪の手にゆだねられたのだ。
    (ヨブ記8章1節~4節)
    「人間そのものが大きな深淵である」(『告白』)。教父アウグスティヌスの言葉です。
    ヨブと友人たちの神を巡る溝は大きく深くなっていきました。そのことに苛立ちを隠せない二人目の友人ビルダド。彼には頑強な信仰がありました。それによれば、あらゆる災いは、人間の罪に対する神の罰です。その罰に人間は従順に服さなければいけない。それがビルダドにとっての真理でした。ビルダドにとっては、神も人間も深淵ではなく、謎でもありません。それらは明快な事柄です。そんなビルダドにとって、「なぜ」と問い続けるヨブの苦悩は激しい風のように、ただ荒々しく空しいものです。
    苛立つビルダドは、ヨブの子たちの罪を持ち出します。それはヨブにとって最も辛く、心配していた事柄でした。そんな生々しい痛みに踏み込んでさえ、ビルダドは自分の真理を押し付けようとします。彼にヨブの嘆きの深さを聞き取る力はありません。神の御業の不思議さを仰ぐ想像力も持ち得ません。それは、私たちの日々の姿かもしれません。今日、私たちは隣人の言葉に、隣人の何を見つめるでしょうか。
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  • 無垢な願い(ヨブ記 7章)
    人間とは何なのか。
    なぜあなたはこれを大いなるものとし
    これに心を向けられるのか。なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。なぜ、わたしを負担とされるのですか。なぜ、わたしの罪を赦さず悪を取り除いてくださらないのですか。
    (ヨブ記7章17節、20節~21節)
    わたしの目にあなたは価高い(イザ43章4節)。神が、私たちを愛し、大切な存在として見つめていてくださることに勇気を抱きます。
    しかし、ヨブは苦悩の中で、神がそういうふうに人間を大いなるものとして見つめ、心を向けられることに、不可解さと重さを感じ取るようになっています。ヨブは理解していました。わたしの命は風にすぎないと(7節)。それほどに人間の生涯は短く、軽いものであると。神がわざわざ本気になって目を留めるに値しない存在、それが人間であるはずでした。そして、そうであるならば、人間が犯した罪も神にとって些細なことであるはずでした。しかし、神は人間の罪を重大に受け止め、激しい怒りを燃やされる。それがヨブには解りません。自分が神の負担となってしまっている。愛する神の偉大さを自分が傷つけてしまっている。それが、ヨブには辛く、耐え難いことになりました。
    ヨブが願うことは今、病から回復することではありません。ひたすらに自分が神の負担とならないようにということです。辛ささえも神への無垢な告白となり得る。ヨブの願いが教えてくれます。
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  • 愛には恐れがない(ヨブ記 6章)
    絶望している者にこそ
    友は忠実であるべきだ。
    さもないと
    全能者への畏敬を失わせることになる。
    わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。
    流れが去った後の川床のように。
    今や、あなたたちもそのようになった。
    破滅を見て、恐れている。
    (ヨブ記6章14節~15節、21節)
    友人エリファズの励ましは、「絶望している者」という自覚をヨブに与えました。
    ヨブの苦悩は深まります。しかし、その深まりがヨブの感覚を鋭敏にもしました。ヨブはエリファズが語る神の正しさの羅列に「欺き」があることを見抜きます。その羅列は、まるで川の流れのように時が経てば消えてなくなってしまう、そういう不確かなもの、その場しのぎのもの。そのような言葉を語ることは、友にも、神にも、不忠実、不誠実、欺く在り方ではないか。
    ヨブの鋭さは、さらに、あなたは恐れていると、エリファズの欺きの奥にある「恐れ」を見抜きます。なぜエリファズが通り一遍に正しく神を語ったのか。実は、そこにヨブの破滅に対するエリファズの恐れ、自分も巻き込まれるのではないかという脅えがあったこと。だからこそ実は、正しい神を語る言葉をヨブにではなく、自分にこそ向けていたこと。それが、ヨブには透けて見えてしまいました。
    恐れが、友の苦悩を深めます。そこに愛がないからです。「愛には恐れがない」(1ヨハ4章18節)。きょう、私たちの言葉がまっすぐ友に向かうものでありますように。
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  • 罪の赦しを求めて(詩編 130編)
    わたしは主に望みをおき
    わたしの魂は望みをおき
    御言葉を待ち望みます。
    わたしの魂は主を待ち望みます
    見張りが朝を待つにもまして
    見張りが朝を待つにもまして。
    (詩編130編5節~6節)
    「深い淵の底から」嘆き祈り「主に望みをおく」という祈りは、さまざまな試練にあるとき私たち誰にとっても身近な祈りです。そして「主に望みをおく」ということは、「御言葉を待ち望む」こととひとつです。きょうはその待望の御言葉が与えられる主の日です。自分が抱える「深い淵の底から」御言葉を求め、聖書を開きます。
    ところで、この詩編作者の固有の「深い淵」は何でしょうか。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、誰が耐ええましょう」と語り、「あなたのもとに」ある「赦し」を待ち望んでいます。詩編作者は、「罪」の淵の底から御言葉を求めています。
    「見張りが朝を待つにもまして」切実に「赦し」と「慈しみ」を期待する罪人。それは主を十字架につけてしまった直後の弟子たちの「淵の底」の姿と重なり、私たちに通じるものです。その弟子たちの肉声のように私たちにも「イスラエルよ、主を待ち望め」という言葉が届きます。
    「主はイスラエルを、すべての罪から贖ってくださる」。そのことを切望して神に向き合うことこそ、私たちに必要な礼拝の姿勢です。
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  • 神の御前を生きる(ルカによる福音書 20章)
    イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
    (ルカによる福音書20章25節)
    私たちは急に決断を迫られ、一気にその後の進退が決まるようなことに直面するときがあります。主イエスのもとに「正しい人を装う回し者」が現れます。彼らは主イエスの揚げ足を取るため、熟慮を重ねた抜け道のない質問を投げかけました。「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」(22節)。
    当時、異教の国ローマ帝国に支配されていたユダヤで、ローマに積極的に税金を納めるというなら、大多数の民衆の失望を買います。反対に税金を納めなくてよいというならローマ帝国への反逆となり、主イエスは袋小路に追い込まれたはずでした。
    主イエスは彼らの偽善を見破り、彼らの示すどちらの側にも立ちません。人の顔色をうかがうのではなく、神の前を生きるのです。主イエスは言われました「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。
    貨幣には皇帝のものであるしるしとして肖像と銘がありました。では、「神のもの」とは何でしょう。神の姿が刻まれている私たちこそ神のものです。ともに神だけを畏れ生きていきましょう。
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  • 賜物を隠さないで(ルカによる福音書 19章)
    「主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』」
    (ルカによる福音書19章17節)
    ムナのたとえでは、違う生き方をした人たちが出てきます。主人に忠実でなかった僕は、預った1ムナを布に包んでしまいこみ、主人が命じたように商売をしませんでした。他方、忠実な僕たちは商売をして、それぞれ10ムナと5ムナを稼ぎました。
    預ったお金は1ムナずつ、現代でいうなら百万円くらいでしょうか。これは商売をするには僅かなお金を託したという意味です。しかし同じお金を預っても僕たちの態度は違いました。不忠実な僕は主人が「恐ろしかった」のでした。彼らの分岐点は、主人を見るまなざしです。
    このたとえの主人は主イエスです。主人が王になって帰ってくるのは終末の日のことですが、個人的な終わりの日ととらえることも許されるでしょう。終わりの日に、貧乏くじを引いた人生だったと言うなら、不忠実な僕と同じです。
    しかし、私たちの目には貧乏くじを引いたと見える人の方が、すばらしい働きをすることがあります。神からいただいた命を燃やすとき、そこに輝きが生じます。賜物を用いるように神は招いておられます。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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