リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 主はなお民を慈しむ(申命記 33章)
    あなたは民らを慈しみ
    すべての聖なる者をあなたの御手におかれる。
    彼らはあなたの足もとにひれ伏し
    あなたの御告げを受ける。
    (申命記33章3節)
    約束の地カナンを前に、主はイスラエルに、時に厳しく語りかけてきました。しかしその締めくくりに、主はモーセを通して祝福の言葉を与えます。主の聖なる民としてイスラエルを慈しむことこそ主の御心の大本なのです。
    ところで各部族に祝福が告げられていく中、ルベンへの言葉は「ルベンを生かし、滅ぼさないでください」(6節)と実に短いものです。ルベンはヤコブの長男でしたが、過ちを犯してしまいます(創35章22節)。更にカナンに近づくとルベン族はその手前の東ヨルダンに定住すると言いだし、モーセに叱責されます(民32章)。それでも主は、ルベン族を祝福からはずしはしませんでした。主の慈しみを受けたルベン族は、主に服従してカナンでの戦いにも赴いたのでした。
    主の慈しみは、不品行に満ちた新約のコリント教会にも「聖なる者」と呼びかけ(1コリ1章2節)、そして今を生きる私たちにまで示され続けています。十字架に示された主の慈しみなくして生きていけない、と悟ったとき、私たちは主の足もとにひれ伏し、主の御告げに耳を傾ける者となります。
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  • 祝福された生活(詩編 128編)
    いかに幸いなことか
    主を畏れ、主の道に歩む人よ。
    あなたの手が労して得たものはすべて
    あなたの食べ物となる。
    あなたはいかに幸いなことか
    いかに恵まれていることか。
    (詩編128編1節~2節)
    「イスラエルに平和」という言葉で結ばれる詩編です。その平和の中身としてこの詩編が挙げるのは、「あなたの手が労して得たものはすべてあなたの食べ物となる」ことであり、「妻」であり、「食卓を囲む子ら」です。それは平凡とも言いうることかもしれませんが、それを指して「あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか」と言います。さらに「見よ、主を畏れる人はこのように祝福される」と言うのです。
    それは裏返していうと、平凡な生活そのものが祝福にほかならないことを実感できるということでしょう。その平凡さの中に「神の民に平和」を与えてくださっている御手を見る視力。「いかに幸いなことか」と感謝できる心の持ちよう。それが「主の道に歩む人」に与えられた恵みです。家族があり、「あなたの手が労して得たものはすべてあなたの食べ物となる」仕事があります。毎日の生活、毎日の労働が豊かな意味を与えられています。労働の時間が、家族との時間が、本来の幸いを回復します。きょうから始まる一週も、そのような「主の道に歩む人」の祝福に満たされているはずです。
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  • 愛はじっとできない(ルカによる福音書 15章)
    ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
    (ルカによる福音書15章20節)
    放蕩息子の父親は、まだ遠くにいる息子を見つけて走り出しました。着物の裾をまくって走る姿は父親の威厳をそこないます。それでも彼は走るのです。そして汚い身なりの息子を抱きしめ接吻する。これは二人の関係の回復を意味します。この回復は父親の方から始められ、息子の罪の告白にも先立っています。
    息子は言いました。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。」告白の内容を、息子はあらかじめ用意していましたが、この先の言葉は父親によってさえぎられました。罪の告白が途中でさえぎられたのです。「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」(イザ65章24節)。
    この父親の愛の姿は私たちに向けられた神の一方的な愛を教えます。同時に忘れてはならないのは「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(ヘブ9章22節)ことです。このたとえを語られた主イエスの十字架によって私たちも罪が赦され「アッバ、父よ」と神を親しく呼ぶことができるのです。
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  • 塩気を保ってこそ(ルカによる福音書 14章)
    「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」
    (ルカによる福音書14章34節~35節)
    主イエスの教えは、家族や自分の命を憎み、自分の十字架を背負ってついて来なければ、弟子ではありえないという厳しいものです。これは、一緒について来た大勢の群衆に語られたもので(25節)、物見遊山でついていけば弟子になれるという思いに釘を刺し、彼らをふるいにかける言葉です。
    この後に「塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」と語られます(28節)。思慮深く、完成を目指し続ける決心も必要です。弟子になるために十分な費用とはどのくらいでしょうか。「自分の持ち物を一切捨てないならば、…わたしの弟子ではありえない」(33節)。
    そして、きょうの御言葉では、塩気がなくなることへの警告が語られています。これらの御言葉の厳しさは、弟子の自覚と喜びをもって主に従うことを、主が心から願っておられことを表しています。
    主イエスは、癒し、嵐を静め、わずかなパンと魚で5千人を養い、雀の1羽さえ忘れない神の慈しみも教えてくださいました。主のご配慮の中、主に従うことのできる光栄と喜びを保つことが、弟子の塩気です。
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  • キリストの恵みによって(テトスへの手紙 3章)
    こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
    …神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。
    (テトスへの手紙3章7節~8節)
    3章でパウロは、正しい信仰とともに、正しい生活を強調しています。パウロは「わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし」ていたと語ります。けれども、キリストの恵みによって救われ、聖霊によって新しく生まれさせられたことによって、良い行いに励もうと心がけるようになったことを告白します。
    信仰者の信仰と生活は、キリストの恵みを土台にしています。それゆえ、キリストの恵みがなければ、信仰は信念にすぎなくなり、また生活は、倫理的生活に留まるだけです。信仰者の生活は、単なる良い行いの積み重ねではありません。それは、神が私たちに豊かに注がれた恵みが、私たちから溢れ出ることの結果なのです。
    今、信仰生活の面で悩む部分がありますか。そうであれば、主の恵みを切に求めましょう。「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」。その神が、必ず私たちをまた新たに造り変え、励ましてくださいます。
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  • 愛が深いからこそ(申命記 32章)
    主は荒れ野で彼を見いだし
    獣のほえる不毛の地でこれを見つけ
    これを囲い、いたわり
    御自分のひとみのように守られた。
    (申命記32章10節)
    「新約に比べ旧約の神には愛を感じにくい」と言われるのに対し、旧約でも神の愛がよく示される一例として、10節が紹介されることがあります。ただその後にはイスラエルに対する主の厳しい言葉が続きます。主の愛と厳しさとが自分の中で折り合いがつかない、と思われる方もあるかもしれません。
    そこで今一度、十戒を振り返りましょう。第二戒で主は「わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(申5章9、10節)とおっしゃいます。熱情の愛を注ぐからこそ、その愛を裏切る者に厳しくなさるのです。
    同様の厳しい愛は、「ぶどう園と農夫のたとえ」(マタ21章他)にも描かれています。そこには、愛するひとり子さえもお遣わしになる神の深い愛が示されています。しかし、その神の忍耐と愛を最後まで拒む者には警告が与えられます。主の愛は裏切られても痛くもかゆくもないような愛ではないことを、旧約も新約も一貫して語っています。
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  • 主があなたと共に(申命記 31章)
    「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」
    (申命記31章6節)
    「強く、また雄々しくあれ」と主がヨシュアにおっしゃった場面、と聞くと、モーセ亡き後のヨシュア記冒頭を思い起こされる方もあるでしょう。その前の申命記にも、ヨルダン川を渡れないと知ったモーセを通して主がヨシュアに告げられる場面が出てきます。偉大な指導者モーセがいなくなると分かった時点から、ヨシュアをはじめイスラエル全体に恐れが生じていました。それを鎮めようと、主ご自身が語りかけてくださいました。主が共にいて、共に歩まれるから、「強く、また雄々しくあれ」、「恐れてはならない」と繰り返し力づけてくださいました。
    私たちも、目に見える形で頼りにしていた人や物が目の前から去ることで心揺らいでしまうところがあります。主が共にいてくださるのに、肉の目には見えないために、主を見失ってしまう恐れがあります。ですから、繰り返し、今も生きて一人一人に呼びかけてくださる主の御声を聞くことが大切です。日曜日の公同の礼拝や家庭礼拝で、聖書にある神の言葉に繰り返し耳を傾けることで、恐れは去り、強く、雄々しくされます。
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  • 再び主に立ち帰る(申命記 30章)
    あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。
    (申命記30章2節~3節)
    主はエジプトで奴隷であったイスラエルを導き出し、シナイ山で神の民とする契約を結びます。しかし荒れ野の旅においてイスラエルは幾度も罪を犯してしまいます。それでも主は今一度主に立ち帰り契約を結ぶよう招かれました。この契約では、人の服従だけが求められるのではありません。主も「あなたの神」としてさまざまに働きかけ、神の民を祝福へと導こうとなさいます。とりわけ「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」と宣言されました(6節)。
    この主の御心はバビロン捕囚の時、エレミヤに「新しい契約」を予告されたときにも示されました。「律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(エレ31章33節)。それは神の御子キリストと聖霊によって成就しました。14節の「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」という御言葉は、新しい契約のもとで主に立ち帰る私たちに確かに実現するのです。
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  • 焦慮してパンを食べる人よ(詩編 127編)
    主御自身が建ててくださるのでなければ
    家を建てる人の労苦はむなしい。
    主御自身が守ってくださるのでなければ
    町を守る人が目覚めているのもむなしい。
    (詩編127編1節)
    「朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる」ような毎日の生活があります(2節)。それだけで慌ただしく過ぎてゆくだけの労働生活なら、聖書は「それは、むなしいことではないか」といいます。生活をむなしいものにしてしまわないためにはどうしたらよいのでしょうか。
    「主御自身が建ててくださるのでなければ」家は建ちません。家を建てようとして働くわたしたちの労苦はむなしいものになってしまいます。「主御自身が守ってくださるのでなければ」生活を守ろうとするわたしたちの努力もむなしいものになってしまいます。毎日の生活がそんなむなしさに帰してしまわないために、「主御自身が建ててくださる」、「主御自身が守ってくださる」という信頼へと、日々、思いを向けましょう。
    そのとき、わたしたちの労働は、主を信頼した、主とともにする働きになるでしょう。わたしたちが生きることは、主とともに生きることになるでしょう。それは決してむなしくはない、信頼と喜びに満ちた充実した労働生活の基盤となるでしょう。
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  • 信仰だけでなく、生活も(テトスへの手紙 2章)
    しかし、あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい。…あなた自身、良い行いの模範となりなさい。…そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。
    (テトスへの手紙2章1節~10節)
    神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定している偽教師たちを非難しつつ1章を終えたパウロは、「しかし、あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい」とテトスに言います。聖書の教えに適って、信仰と共に、生活についても大胆に語りなさいということです。それで、パウロは、年老いた男女や、若い男女、奴隷に対して、信仰者に望まれる信仰生活について具体的に述べます。
    けれども、生活の面について語ることは簡単なことではないでしょう。相手を傷つけ、悲しませるかもしれないし、また、嫌われるかもしれないので、かなりの勇気が必要です。パウロもコリント教会を戒めたとき、コリント教会の信徒たちを悲しませたのではないかと心配しました。しかし、後悔はしませんでした。なぜなら、「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」るからです(2コリ7章10節)
    信仰者は行いによって、救われるわけではありません。しかし、救われた者は、行いによって、神の教えである聖書を、あらゆる点で輝かすことになるのです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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