リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • すべての人々のために祈る(テモテへの手紙一 2章)
    そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。
    (テモテへの手紙一2章1節~2節)
    テモテが牧会者としてまずなすべきことはすべての人々のために祈ることでした。それは神がすべての人々が救われて真理を知ることを望んでおられ、御子イエス・キリストをお遣わしになったからです。主イエスは私たちの救いのために御自身をささげてくださいました。
    その祈りの中で特に「王たちやすべての高官」のために祈ることが勧められます。為政者のための執り成しの祈りです。その理由として私たちが落ち着いた平穏な生活を送るためであることが挙げられます。為政者が行うことが人々の生活に大きな影響を持つからです。特に当時の社会では、キリスト教会が皇帝の権威に逆らうものとして激しい迫害を受ける危険にさらされていたことも背景にあります。
    為政者のための祈りは、今日の日本においても大変重要です。私たちはこの世に妥協してはいけませんが、この世に対し閉ざされていてもいけません。私たちの信仰の目が祈りという仕方でこの世に対し開かれていることが重要です。すべての人が救われることを願う神の熱心を強く覚えて祈りたいと思います。
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  • 神の憐れみによる励まし(テモテへの手紙一 1章)
    わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
    (テモテへの手紙一1章15節~16節)
    パウロは、エフェソの教会で牧会に困難を覚えていたテモテを励ますため、自分が受けた神の憐れみを語ります。教会を迫害していた自分を、神が「忠実な者」と見なして福音宣教者としてくださったという驚くべき恵みです。
    彼は自分のことを「罪人の中で最たる者」だと言います。教会の指導者として資格のない者を、神は赦して立ててくださいました。パウロは自分の存在そのものが神の憐れみの大きさを示す「手本」であると語ります。だから同じ主の憐れみがテモテにも与えられているというのです。
    パウロは、自分はこのように苦労して乗り越えてきたのだからあなたもそうしなさい、とは言いません。パウロが示した道筋は、「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエス」(12節)にますますより頼むことでした。
    教会の働きや、信仰の戦いの中で、困難に直面し疲れを覚えるとき、パウロ同様に主の憐れみが私たちにも与えられていることを覚えましょう。神が召してくださった働きであり、信仰生活です。神が必ず必要な御言葉を示して支えてくださいます。
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  • 預言者派遣の約束(申命記 18章)
    わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。
    (申命記18章18節)
    私たち人間は、聖なる神の声を直接聞き、神を直接見ることはできません。そこで神は、神と人間との間に、神の言葉を告げるモーセのような預言者を立てると約束してくださいました。
    この預言の言葉の実現として来られた大預言者が、主イエスです。聖書は主イエスを証言する文書です。神はかつて預言者を通して語られた言葉を、今の時代には聖書を通して伝えてくださっています。
    しかし、聖書には私たちの将来の具体的な課題等について明確なことは示されていないではないか、と思われる方もあるかもしれません。その不安が、人びとの心を、異教の神々や占いなどに向けさせるのでしょうか。
    かつて、神は預言者を通して神の言葉を語り伝えてくださいました。今も、生ける神は、主の日の礼拝で説教者を立て、大預言者であられる主イエスの言葉を語り聞かせてくださいます。その聖書の説き明かしを聞くなかで、私たちは、具体的な課題について主の導きを祈り求めます。今も生きて働かれる神は、神と隣人を愛し、主のご栄光をほめたたえる道を示してくださいます。
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  • 神に仕える王として(申命記 17章)
    彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。
    (申命記17章18節~19節)
    イスラエルの王は、神の僕であり、諸国の王とは全く異なる存在です。もともとイスラエルには王はいませんでした。神が王として神の民を治められるからです。ですから、神が王を立てよと命じられたわけではありません。
    しかし、後の時代に周囲の敵に対応するため、人びとは王を求めるようになり、神はこれを許容されます。そのときを見越して、神は「あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい」と命じられました(15節)。そして立てられた王に「律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない」と命じられます。王は神を畏れ、神の教えに従って、託された使命を果たす神の僕です。
    私たちは王ではありませんが、それぞれ家庭や職場等で大切な責任と役割を持っています。地位や名誉もあるかもしれません。そこで、私たちは、どのように力を発揮するのか。神の僕たる私たちは神を畏れて、託された使命を果たします。
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  • 救いの想起(申命記 16章)
    アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。アビブの月のある夜、あなたの神、主があなたをエジプトから導き出されたからである。
    (申命記16章1節)
    アビブの月は当時のイスラエルの暦の1月でした。神の民は毎年1月15日(現在の暦では3・4月にあたる)に過越祭を祝いなさいと命じられています。それは主の救いを思い起こし、感謝するためです。過越祭の由来は出エジプト記12章に記されています。出エジプト記には各家庭で小羊を殺して、その血を家の柱と鴨居に塗った、と記されています。
    約束の土地ではこの祭は「主がその名を置くために選ばれる場所」(6節)で行うように語られています。後にその場所は神殿として整えられました。
    この過越祭のときに、主イエスは十字架にかかられ、ご自身を、罪人を救うための犠牲となさいました。犠牲の小羊は、主イエスを示しています。
    私たちは毎年受難週に主イエスの十字架を記念して礼拝をします。しかし、それだけではなく、毎週の礼拝が、十字架による罪の赦しを感謝する礼拝です。主は、各教会の礼拝にご自身の名を置き、共にいてくださいます。主イエスの十字架を毎週思い起こして罪の赦しの恵みを心に刻みましょう。
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  • 神の貧困対策(申命記 15章)
    あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。
    (申命記15章7節~8節)
    誰もなりたくて貧困になるわけではありません。ですから、神は貧しい同胞を助けることをお命じになりました。神の貧困対策です。
    この言葉は、7年目毎の負債の免除の規定の中で語られています。病や災害、不作などの理由で収入が無くなって困った者は、隣人から借りて生活します。翌年も借りれば、さらに負債は大きくなります。ですから神は7年目ごとに、その負債を免除せよと命じられます。人間は罪深く、返済免除の年が近づくと貸さない者も現れます。しかし、神はそのときには返済を求めずに与えなさいと言われます。
    負債免除の規則があれば、これを悪用する者が現れるかもしれません。しかし、返済できるのにその義務を怠る者がいれば、その者は、窃盗の罪に問われるでしょう。
    申命記の時代と私たちの状況は異なります。社会保障制度も今は整えられています。それでも、神は「貧しさ」が放っておかれてよしとはされません。それは時代を越えて変わらないことです。その上で私たちも貧困にいかに向き合うべきか問われています。
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  • 嘲笑され侮られる苦しみ(詩編 123編)
    わたしたちを憐れんでください。
    主よ、わたしたちを憐れんでください。
    わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。
    平然と生きる者らの嘲笑に
    傲然と生きる者らの侮りに
    わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。
    (詩編123編3節)
    「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます」と歌い始めるこの詩編は、「主よ、わたしたちを憐れんでください」と繰り返し求めます。エリコの盲人も求めた「主よ、憐れみたまえ」(キリエ・エレイソン)という求めを、教会は古来から、大切な礼拝要素としてきました。
    私たちが「主よ、憐れみたまえ」と祈るのはなぜなのでしょうか。それは、私たち自身が神の御前に罪人であるがゆえです。しかし、それだけではありません。もう一つ聖書がつねに敏感である苦しみは、人から「恥」や「嘲笑」や「侮り」を受けることの苦しみです。この詩編はとくにこの苦しみのことを「憐れんでください」と訴えるのです。主はどのように憐れんでくださるのでしょうか。
    福音書の十字架の場面は、主イエスがローマ兵からもユダヤ人からも「嘲り」「侮辱」「ののしり」を受けられた苦しみを強調しています。ここに私たちへの憐れみがあります。このように主は私たちに答えてくださっているのです。だからこそ讃美歌136番が歌うように「悩みと恥にやつれし主を、我はかしこみ君と仰ぐ」のです。
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  • 悔い改めの時(ルカによる福音書 13章)
    「『もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。…』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。…肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
    (ルカによる福音書13章7節~9節)
    「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と主イエスは二度繰り返し、そして、いちじくのたとえが始まります。悔い改めの時が迫っていること、悔い改めを我が事として考える必要を主イエスは私たちに語っておられます。
    ぶどう園の主人は植えたいちじくに実がなるのを楽しみにしていました。だから、「もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ている」のです。このようにいちじくに関心を寄せ、忍耐強く待てど暮らせど実がならないので、切り倒すよう園丁に命じます。3章の洗礼者ヨハネの言葉が思い出されてなりません。「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。…斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3章7~9節)。
    「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。…来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」。神の慈しみと厳しさを覚え、光あるうちに罪を認め、神の慈しみのもとに立ち帰りましょう。
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  • だれを恐れるべきか(ルカによる福音書 12章)
    「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」
    (ルカによる福音書12章4節~5節)
    不安が社会を覆っている時代です。情報が溢れ、怖いものは数えきれないほどあります。「だれを恐れるべきか、教えよう」。これは、真に恐れるべきものと、そうでないものとを見分ける知恵の言葉、私たちを不必要な恐れから解放してくれる希望の言葉ではないでしょうか。「友人であるあなたがたに言っておく」と主イエスが愛する弟子たちに語られた言葉です。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」。
    この権威ある神は、愛の神です。5羽2アサリオンで売られている雀の、半端でおまけの一羽でさえ、神がお忘れになることはありません。それどころか、私たちの髪の毛の数までも、一本残らず主はご存じだというのです。「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。
    神のかたちに創造され、御子をさえ惜しまずに与えられた私たちが、神に忘れられることはありません。十字架と復活によって示された神の愛の確かさを心に刻み、永遠を支配しておられる神の権威を思うとき、「恐れてはならない」という主イエスの言葉は、力強く私たちを支えてくれます。
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  • 幸いなのは誰か(ルカによる福音書 11章)
    イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
    (ルカによる福音書11章27節~28節)
    群衆の中から女が、主イエスの母の幸いを謳いました。このように立派な教えを説く息子を産み育てた母親は、どんなに誇らしいだろう、と。主イエスは言われます。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」。
    主イエスの母マリアこそ、神の言葉を聞き、それを守った人でした。天使の告知に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と応え、主イエスを胎に宿しました。赤子の主イエスが乳房を吸ったのは、馬小屋でのことでした。礼拝しにやってきた羊飼いの話、メシアを待望していたシメオンの言葉、神殿での少年イエスの言葉など、不思議に思いながらも心に納め、神の約束に信頼して歩みました。十字架で苦しむ息子を見守り、復活を喜び、約束の聖霊を待ち望んで弟子たちと共に祈りました。
    マリアの幸いは、主イエスの母であるということ自体よりも、むしろ神の言葉を聞き、それを信じて自分を明け渡し、神の約束が成るのを見たことの中にあります。私たちも御言葉を心に蓄え、信頼して歩むなら、神の約束が私たちの歩みの中に成るのを見ることができます。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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