リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 心を高く上げよ(詩編 121編)
    主がすべての災いを遠ざけて
    あなたを見守り
    あなたの魂を見守ってくださるように。
    あなたの出で立つのも帰るのも
    主が見守ってくださるように。
    今も、そしてとこしえに。
    (詩編121編7節~8節)
    「見守ってくださる」という言葉が6回も出てきます。「見守る」だけでなく文字どおり「守ってくださる」という原語です。守ってくださっている方に「目を上げ」ましょう。その方のもとからあなたの助けが来ます。さまざまな試練の中で、私たちの足はよろめきがちだからこそ、きょうも礼拝に行きましょう。
    そして「出で立つのも帰るのも主が見守ってくださる」ことを体感しつつ、「天地を造られた主のもとから」あなたにどんな助けが来るか、あなたからどんなふうに「災いを遠ざけて」くださるか、その確かな答えを礼拝の中でこそ受け取ってください。私たちが「目を上げる」ための場所、それが礼拝ですし、礼拝の中でこそ私たちは心を高く上げることができます。「主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方」であることを疑いなく味わえるのが礼拝です。
    「主があなたを助けて、足がよろめかないようにし」てくださる確かな手応えを実感して、帰宅しましょう。今週もまた、主が「あなたの魂を見守ってくださる」にちがいありません。
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  • もう泣かなくともよい(ルカによる福音書 7章)
    主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
    (ルカによる福音書7章13節~15節)
    主イエスがナインの町の門に近づくと、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところでした。やもめである母親の愛する一人息子、しかも「若者」です。自分の身体をもぎ取られるような深い苦悩と悲しみ、失望の闇の中を、町の人々に付き添われて、やもめは泣きながら歩いています。
    主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と声をかけます。棺に触れて「起きなさい」と言うと、死んだ息子は起き上がりました。頼まれて行った奇跡ではありません。母親を憐れむ心から若者をよみがえらせ、「母親にお返しになった」のです。
    愛する者たちが共に生きることを望まれた主は、私たちの病や痛み、罪を引き受けて、神との平和と永遠の命を得させてくださいます。主にあって愛する者と死別した場合、御国での再会という慰めがあります。生きながら離別の悲しみを味わい、共に暮らしながら心の通わない苦しみに遭う時にも、主は深い憐れみの心で「もう泣かなくともよい」と慰めてくださいます。主に知られていない悲しみはありません。むしろ主は私たちの悲しみを御自身のものとして担い、今日も共に歩んでくださいます。
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  • 父の憐れみを受けて(ルカによる福音書 6章)
    「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
    (ルカによる福音書6章36節)
    「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(27、28節)。
    私たちは、この御言葉を読むとき、ご自分を与え尽くし、十字架で敵を赦して祈られた主イエスを思い起こします。
    「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(31節)。「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」(35節)。私たちは、人に善いことをし、報いは天からいただくようにと勧められています。情け深い神の、子としていただく報いです。恵みにより、信仰によって私たちは既にいと高き方の子とされていますが、主に倣う歩みを重ねる中で、より主に似た者に変えられていきます。
    神を「私たちの父」と親しくお呼びできるのは、主の憐れみの故でした。
    「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ5章8節)。神の愛を心いっぱい受け取り、神の愛の内に留まりながら、主イエスに倣う小さな一歩を踏み出すことができますように。
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  • 御言葉に養われる(申命記 8章)
    主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
    (申命記8章3節)
    主イエスは荒れ野でサタンに誘惑され、石をパンに変えて飢えを満たすよう唆されました。そこで主イエスが想い起こした聖句がこの3節です。イスラエルは荒れ野を旅する中で飢えに苦しみました。すると神は憐れんで天からマナを降らせてくださいました。それは彼らを選んだ神が、ご自身の約束の言葉に忠実であることの証しでした。
    人生は試みを受けることの連続です。パンを欠くこともあり、あてどなく彷徨う日々があり、災いに遭って生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされることもあります。そのような危機に直面しながらも、なおも希望をもって生きることができるのは、あらゆる時に神の備えがあり、約束された祝福は揺るがないとの御言葉を想い起こすからです。耐え難い試練にあっても、今なお生きているのは、神が支えてくださるからです。
    生活が奢れば恵みを忘れます。ですから主は私たちを訓練され、御言葉に立ち帰るよう促されます。試練に耐えた後には祝福に至ることは、主イエス・キリストのご生涯が、何よりも雄弁に物語っています。
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  • 祝福と呪いの間で(申命記 7章)
    あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
    (申命記7章6節)
    主なる神がイスラエルをお選びになったのは「主の愛のゆえ」です(8節)。神はこの世の小さな者に目を留め、これを尊んで慈しみを注いで「御自分の宝の民」とされました。モーセが繰り返し「契約を守れ」と呼びかけるのも、その情熱的な主の愛に応えるためです。
    その応答の仕方が「七つの民を滅ぼす」ことになるのはキリスト教の博愛主義には合わないようにも思えます。ここには主の愛の熱情的な側面が、祝福と呪いという非常に明暗のはっきりした区別で語られています。主を愛して契約の中に留まる者は宝物のように大切にされます。反対に、偶像を拝んで主に敵対する者はことごとく滅ぼされます。律法に示される神との関係はこのように白か黒かです。
    神の民はこの間を揺れ動きながら歴史の中を歩みます。そこで経験したことの多くは呪いの方が現実的でした。その度に神の言葉が思い起こされて、その真実が重みを増したことでしょう。しかし、その呪いを我が身に担われた主にのみ信頼し、神の愛に立ち帰れば、祝福こそが私たちに確かなものとなるのです。
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  • 幸いのための掟(申命記 6章)
    「主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。」
    (申命記6章24節)
    主がモーセを通じてお語りになった律法には約束が伴っています。主の言葉を聞いて忠実に守れば幸いを得る、との約束です(3、18、24節)。それは、自分ひとりのためではなく、神と契約を結んだ民全体のためであり、子どもたちもまたその幸福を受け継ぐためです。
    流浪の民イスラエルが土地を受け継ぐのも、そこに長く生きるのも、神の恵みによります。命を賭けて敵と戦って良い土地を獲得したのは確かに彼ら自身の働きがあってのことです。しかし、神の恵みが取り去られてしまえば、それは一つも実現することはありませんでした。
    その恵みを子々孫々に語り継ぐことの大切さをモーセは本書で繰り返し語ります。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(5節)との掟に励まされて、御言葉を忘れることがないように生活に密着させて生きる、信仰教育と生活の指針が、ここにあります。本来、モーセの律法は人を罪に定める手立てではなく、天の父から子に贈られた、幸いのための尊い教えです。
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  • 何度でも新しく(申命記 5章)
    主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。
    (申命記5章3節)
    礼拝で唱えられる「十戒」は出エジプト記20章の他に申命記のここにもあります。この十戒の告知に特徴的なのは、シナイ山の出来事が神の啓示の決定的な出来事とされていることです。その光景は神の尊厳を表す火と煙に満たされ、その中から語りかける神の声を民は直接耳にしました。ここに明記されるのは、モーセが語る神の言葉の尊厳です。それは後々「律法」の尊厳となり、モーセの語った言葉は神の言葉であることをすべての会衆が受け入れるよう要請されます。
    モーセはこの十戒を中心とした神の律法を、今日、ここで、全会衆を前にして生ける神の言葉として語ります。それはかつてシナイ山で起こった荘厳な出来事ですが、その尊厳がそのままモーセの説教によって再現されます。「主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた」。
    ここで語られている「今」はモアブに集結した民に呼びかけられた「今」ですが、この「今」はその後の時代を一貫して、この御言葉が語られる現在において何度でも「今」として新しく語られます。
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  • 平和をこそ、わたしは語る(詩編 120編)
    わたしは不幸なことだ
    メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは
    平和を憎む者と共に
    わたしの魂が久しくそこに住むとは。
    平和をこそ、わたしは語るのに
    彼らはただ、戦いを語る。
    (詩編120編5節~7節)
    メシェクもケダルも武力を誇った国々です。彼らのことをこの詩編は「平和を憎む者」、「彼らはただ、戦いを語る」と言いますが、神の民もまたそういう彼らの「傍らに」住んでいます。「わたしの魂が久しくそこに住」まなければならないとは全く「不幸なこと」です。「平和を憎む者」という言葉と「彼らはただ、戦いを語る」という言葉に、前からも後ろからも囲い込まれたところに「平和をこそ、わたしは語る」という文があります。これが、私たち神の民の明確な態度表明の立ち位置です。
    前後から脅かされる中で平和を語り続けること。それは「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。その名は平和の君」と告げられているお方に従い続けることに他なりません。「地には平和」という讃美歌と共に生まれ、「平和を憎む」私たちの罪によって殺され、復活してなお「あなたがたに平和があるように」と言って私たちの「真ん中に立」ってくださったお方です。このお方のみに従うことが、どのような非常事態においても私たちの態度表明であることに変わりありません。
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  • 恐れることはない(ルカによる福音書 5章)
    イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
    (ルカによる福音書5章10節~11節)
    この時、シモン・ペトロは、何を恐れていたのでしょうか。
    イエスは、シモンの舟に乗り、舟から群衆に教え始められました。この時の教えは、シモンの心にも響くものがあったのでしょう。徹夜の漁が徒労に終わり、疲れて気落ちしていたのに、イエスから促されると、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えます。
    主のお言葉どおりにすると、おびただしい魚で網は破れそうになり、舟は沈みそうになりました。シモンはひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白します。漁師の自分以上に湖を知り尽くし、自分のすべてをも知り尽くしておられる方を、舟にお乗せしていることに気づいたのです。シモンは主イエスと出会って、罪深い自分の姿を見つめずにはいられませんでした。
    おののくペトロに主イエスは語ります。「恐れることはない」、「あなたは人間をとる漁師になる」と。すべてをご存じの主はペトロを平安のうちに招き、将来を宣言されます。
    私たちも主に知られ、平安のうちに招かれています。遣わされた場所で、主に従って歩みましょう。古い思いを捨てて。
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  • 御言葉を盾として(ルカによる福音書 4章)
    さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、…40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
    (ルカによる福音書4章1節~4節)
    私たちと同じ一人の人として洗礼を受けられた主イエスは、神の子として悪魔の誘惑を受けられます。
    石にパンになれと命じたらどうだと言われると、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と答え、悪魔を拝めば世界中の権力と繁栄を与えようと誘惑されると、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と答えます。天使の守りが約束されているのだから、ここから飛び降りたらどうだと言われると、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」と、すべての誘惑を、御言葉を盾にして退けます。人となられた御子は、私たちにもできる方法で、誘惑に勝ってくださいました。
    神に愛され御心に留めていただいている私たちも悪魔の誘惑にあうことがあります。今日、ここに生かされていることに畏れを覚え、神無き虚栄や、神が勧めておられない蛮勇を避け、御言葉に従って歩みましょう。「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブ4章15節)主が、私たちのために今日もとりなしていてくださいます。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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