リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
Download on the App Store

リジョイス聖書日課 episodes

  • わたしの主イエス(ガラテヤの信徒への手紙 2章)
    生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
    (ガラテヤの信徒への手紙2章20節)
    「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」。これは、他者に教理を教えている言葉ではありません。キリストと共に死んでキリストと共に生きる人生に造り変えられたパウロが神に献げている信仰告白です。ここで告白されているのは、神とパウロ個人との縦の関係です。
    前の段落(11~14節)では、パウロは、兄弟姉妹との一致と交わりを覚えつつ福音の真理を語っていました。パウロは兄弟姉妹との横の関係をも非常に大事にしていた人なのです。ですから、パウロは、「わたしたちを愛し、わたしたちのために」と語ることもできたはずです。そのパウロが、あえて、「わたしを愛し、わたしのために」と「わたし」を強調していることは、注目に値します。
    「わたしが今、肉において生きている」とも書いてあります。肉のゆえの痛み、苦しみを伴う毎日です。このような日々の中、「キリストがわたしの内に生きておられる」とパウロは語ります。
    「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた」主イエスが、わたしの内に今生きておられるので、わたしは、きょうも、肉において主と共に、主のために生きることができます。
    4 min
  • キリストの僕(ガラテヤの信徒への手紙 1章)
    こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。
    (ガラテヤの信徒への手紙1章10節)
    「今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか」とパウロが言っているのは、人からの評価を受けたいという思いが、もう今ではパウロにはないからです。
    ここで、パウロは昔の自分と対比する中で「今では」と語っている、と私は理解します。昔、ユダヤ律法主義者だった頃の彼は、教会を迫害し、次々とクリスチャンを捕まえて牢屋に送り込み、多くのユダヤ人たちから気に入られて、きっとすばらしい評価を受けていたことでしょう。そして、人から評価される自分の立派な働きを誇りながら、「もっと立派な働きをして、もっと評価を受けよう」と思っていたことでしょう。しかし、「もし、今なお」そんな思いを持っているとしたら、彼は「キリストの僕」とは言えないところでした。
    キリストの僕とは、自分の立派な行いに目を留める者ではなく、キリストがなされた業に目を留める者です。まことの福音に生きる者は、自分ではなく、神がほめたたえられることを求める、そういうしるしを帯びるのです。
    私たちはキリストの僕。神こそ、すばらしいと告白する幸いへ招かれた者たちです。
    4 min
  • 過失からの回復(サムエル記下 24章)
    「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。」
    (サムエル記下24章10節)
    ダビデは人口調査をします。歴史を見ても、国家が安定するとき、あるいは安定を求めるとき、権力者は国家の力を調べます。人口調査は課税のため、兵士の徴募のために必要とされます。ダビデの国も地上の国家である限り、周辺諸国家と同じように国家的行為をしたとしても、それを悪とすることはできません。しかし、ダビデの人口調査はダビデ自身を悩ませ、ダビデは神から懲罰の御告げを聞くことになるのです。
    このような事態を招いた理由は知らされていませんが、なぜかを考えてみましょう。ダビデは、この国を経済と軍事で維持できるのだという思いに促されて、人工調査を行ったと考えてよいでしょう。頼るべきは神なのに、それ以外のものに信頼を置く。それは神の憎まれるところです。ダビデの国は決してそうであってはならなかったのです。力に頼ることへの悔い改めの後、疫病は止み、回復への道が開かれました。
    治政の根本において信頼すべきは経済や軍事力ではなく神です。今日の政治家からすれば戯けた話かもしれませんが、そうなのです。
    4 min
  • 神の言葉とともに(サムエル記下 23章)
    主の霊はわたしのうちに語り
    主の言葉はわたしの舌の上にある。
    (サムエル記下23章2節)
    ダビデはサムエルから油を注がれた時以来主の霊が降るようになりました(サム上16章13節)。
    彼は預言者ではありませんが、しかし、誰よりも主の言葉を重んじた人物であったことは確実です。時に主の託宣を求めています(サム上23章2節など)。預言者の言葉にも耳を傾けています。ダビデほど、神の言葉に耳を傾けて人生を生きた人はいません。ダビデはその業績のゆえに後世のユダヤ人から賞賛されるのですが、それはイスラエル王国の統一者、あるいはイスラエルを強い国とした英雄だからというだけではありません。彼が多くの人の心を捉えて離さないのは、神の言葉への信頼と服従によります。そして、彼が御言葉に心服し得たのは、聖霊が常に彼と共にあったからです。聖霊が働かれなければ御言葉はむなしく響く、ただの音声と同じです。
    聖霊に導かれながら、御言葉を決して軽んじなかったところにダビデの偉大さがあります。ダビデの生涯にはいつも御言葉がありました。時に励まされ、時に叱責され、その御言葉と共にあり続けた生涯の幸いを思います。
    4 min
  • 詩の心(サムエル記下 22章)
    主はわたしの岩、砦、逃れ場
    わたしの神、大岩、避けどころ
    わたしの盾、救いの角、砦の塔。
    わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え
    不法から救ってくださる方。
    (サムエル記下22章2節~3節)
    サムエル記下22章には、感謝の歌が祈りの心でうたわれています。感謝を祈ることの大切さを覚えます。
    ダビデはすぐれた詩人でした。ここだけではなく、詩編にはダビデの作とされるものが多く記されています。
    私たちは、その言葉の一つひとつに感動を覚えるのですが、それは、ダビデの詩がただ芸術性に富んでいるからというわけではありません。その詩の言葉に、ダビデの、主に対する確固とした信頼を見いだすからです。信頼は、何ら疑いも、信仰的葛藤もない完璧な信心から出てくるものではありません。
    ダビデの詩編には、感謝と共に、苦悩、嘆息、悲しみ、時には神に対する疑問を表現する言葉が満ちています。果たしてこの作者は神を信じているのかと問いたくなるような言葉も残しています。だからこそ私たちはダビデの詩に感動させられます。まったくの絶望状態に見舞われ、信と不信の境界線まで押しやられ、そこで神を信じると告白する、そのようなきわどさも珍しくありません。しかし、そこでこそ私たちの現実と共鳴し、主に対する信頼に新しく気付かされます。
    5 min
  • 復讐を求める心に救いを(詩編 109編)
    彼の生涯は短くされ
    地位は他人に取り上げられ
    子らはみなしごとなり
    妻はやもめとなるがよい。
    (詩編109編8節~9節)
    詩人は、相手の不幸を公然と祈っています。私たちは主イエスの「敵を愛せよ」という教え、パウロの「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」という教えを知っていますから、この「復讐の詩編」を読むと戸惑ってしまいます。
    これは詩人の言葉ではなく、詩人を攻撃している敵の言葉なのだとして、この問題を避けようとする解釈、方法もあります。また新共同訳聖書は8~20節を一段下げて編集し、「主はこのように報いられる」と、主の報復の具体的描写として理解しようとしました。
    しかし詩人は赤裸々に、復讐を求める自分の心をさらけ出しているのです。しかし同時に、そのような自分の惨めさを自覚しています。「わたしを助けてください」(21節)という祈りは、「わたしは人間の恥」だ(25節)という罪の自覚のゆえです。
    復讐したくなるわたしの心を、人にではなく神にさらけ出してよいのです。自らの復讐心を含めすべてを神に明け渡してしまいましょう。人がわたしを呪うことがあっても、神はわたしを祝福してくださいます。そのことを信じて神に祈ります。
    4 min
  • 主の復活を信じない弟子たち(マルコによる福音書 16章)
    その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
    (マルコによる福音書16章12節~13節)
    私たちは、主イエスの復活が真実であることを心から信じます。それでは復活の意味とは何でしょうか。まず、主イエスは「力ある神の子と定められた」ことです(ロマ1章4節)。第二に、聖書の預言が成就されたことを証明します(詩16編10節)。第三に、主イエスを信じる人は復活することを保証します。第四に、イエスの復活は福音の中核の真理です(1コリ15章1~6節)。
    主イエスは復活され、その姿を人びとに現されましたが、弟子たちは信じようとしませんでした。ルカはエマオへ向かっていた二人の弟子に現れた復活の主イエスについて詳しく記しました。二人がエルサレムに戻ってイエスの復活を伝えても、弟子たちは信じませんでした。
    しかし彼らの前にご自分を現された主イエスの姿を見て、弟子たちははじめて復活の主を信じました。疑い深い弟子トマスも「わたしの主、わたしの神よ」とひざまずきました(ヨハ20章28節)。
    主イエスは「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました(同29節)。見ないのに信じる私たち皆は、ほんとうに幸いな者です。
    4 min
  • 侮辱される救い主イエス(マルコによる福音書 15章)
    また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
    (マルコによる福音書15章19節~20節)
    神から命じられたことに違犯したアダムの罪によって、人々は死に支配されるようになりました(ロマ5章14節)。しかし、神は第二のアダムである「キリストによってすべての人が生かされる」道を開いてくださいました(1コリ15章22節)。十字架の贖いの血による救いです。
    その救いを得させるため、キリスト・イエスは惨たらしい受難を苦しまなければなりませんでした。十字架の死に至るまでのキリスト・イエスの受難と屈辱が私たちの罪のためであることをいつも心の中に刻んでいましょう。
    15章には、主イエスの受難の御姿が生々しく描かれています。ピラトの尋問を受け、鞭打たれて十字架の死に引き渡される主イエス。ローマ兵士たちから酷く侮辱される主イエス。そして十字架の上につけられる主イエスの御姿です。
    私たちは、常に十字架の上の主イエスを思い起こし、人間の罪深さへの悔い改めと救いの恵みへの賛美をささげなければなりません。心の中で片時も主イエスの十字架を消してはいけません。そこに、私たちの救い、その希望がはっきりと示されています。
    4 min
  • 神のまなざし(サムエル記下 21章)
    ダビデの世に、3年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に託宣を求めた。主は言われた。「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある。」
    (サムエル記下21章1節)
    ギブオン人はヨシュアの時代からイスラエルの民と共存してきました(ヨシュ9、10章)。ギブオン人は、ヨシュアに対し賢く立ちまわり、欺くかたちで平和協定を結ぶ約束を取りつけたのでした。
    時代が下って、聖書に記されていませんが、サウル王は何らかの理由でギブオン人の大量殺害を企てたのです。ギブオン人はその犠牲になりました。そして、ダビデの治世のいつか書かれてありませんが、3年間飢饉に襲われます。その原因を託宣に求めたところ、かつてのサウルの殺戮が原因とされ、そのために、ギブオン人の求めでサウルの子孫が犠牲になります。このとき、ダビデはヨナタンの子メフィボシェトを差し出すことをためらい、同名の、サウルの子を替わりとします。
    この一連の事件をどう受け止めるべきか、読者は戸惑うはずです。ダビデの行動を何でも肯定する必要はありません。背景にサウルの家が最後までイスラエル統一の妨げとなった事実があるのではないかと思います。
    昔、キブオン人の悲しみに目を留めておられた神が、今も目を見開いてこの世の痛みをご覧になっておられます。
    4 min
  • 平和と葛藤(サムエル記下 20章)
    「わたしはイスラエルの中で平和を望む忠実な者の一人です。」
    (サムエル記下20章19節)
    北の10部族が構成するイスラエルと南部で力を持つユダとの葛藤は長く続いてきました。アブサロムの反乱も北のイスラエルの支持があったからです(15章10節)。
    ここに記されるシェバの反逆も、ダビデ王の統一にもかかわらず、根強くあったイスラエルとユダの対立を物語っています。ヨアブがアブサロム軍の将軍であったアマサを殺害したのも、アマサの動員の遅延の理由として、イスラエルとの結びつきを疑ったからではないかと推測できます。
    ダビデ王国はいつもこの分裂の危険性を含んでいました。シェバは「ならず者」に過ぎません。しかもベニヤミンの出身です(1節)。しかし、彼のまわりには、イスラエルの優秀な兵士が集まってきます(14節)。背景にはこの亀裂が反映しているでしょう。
    一見して統一され、すべて調和しているようであっても、恐れと慎重さ、何よりも信仰が欠けているところでは、たとえ教会であっても内側に分裂の兆候をはらんでいます。そのことに、私たちは注意深くなって、なり過ぎることはありません。いつも神の憐れみのもとに一致を祈り求めましょう。
    4 min

About リジョイス聖書日課

From the publisher's feed

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

More shows like リジョイス聖書日課

3分でわかる!聖書 by 中川健一

3分でわかる!聖書

6 Listeners

聖書人になりたい by kannokazuhiko

聖書人になりたい

1 Listeners

聖書プロジェクト BibleProject by BibleProject

聖書プロジェクト BibleProject

0 Listeners