リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 神のものは神に返す(マルコによる福音書 12章)
    彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。
    (マルコによる福音書12章16節~17節)
    12章には11章27節から始まる主イエスと宗教指導者たちとのいろいろな問答が記されています。この一連の論争によって主イエスへの彼らの反感と憎しみが深まります。
    ここで、宗教指導者たちはファリサイ派とヘロデ派を遣わし、主イエスの言葉じりをとらえるための罠を仕掛けます。繊細な政治的問題を絡めた質問をもってです。
    それはローマ皇帝に税金を納めるのが正しいかどうかという質問でした。主イエスが、もし納めなくてもよいと答えれば、ローマ帝国から反逆者として処刑されることになります。また、納めなさいと答えれば、今度はユダヤ人から酷いバッシングがあるはずです。しかし彼らの下心を見抜いた主イエスは、デナリオン銀貨一枚をもって、教えられます。神のものは神にと。
    人間には神の像が刻まれています。人間は神のものです。わたしも神のものです。大切なことは、そのわたしが何をするにしても、根本的に神のものとして神の愛に生きることです。自らを神にお献げする生き方において、皇帝に、社会に貢献する在り方も開かれていきます。
    4 min
  • 主イエスの後に従う群れ(マルコによる福音書 11章)
    そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
    「ホサナ。
    主の名によって来られる方に、
    祝福があるように。
    我らの父ダビデの来るべき国に、
    祝福があるように。
    いと高きところにホサナ。」
    (マルコによる福音書11章9節~10節)
    「ホサナ」はヘブライ語で、「私たちをお救いください」という意味です。困難な状況からの助けを求める祈りの言葉として用いられます(詩118編25節)。
    主イエスがエルサレムに入城されたとき、多くの人びとは一斉に「ホサナ」と叫びました。そして主イエスが通られる道に自分の服や葉の付いた枝を敷きました。主イエスが自分たちを苦しみから救い出すメシアであることを信じたからです。
    しかし、彼らが期待したのはイスラエルを政治的に解放する王としてのメシアでした。彼らは、十字架に至るまで低きに下り僕となられた主イエスをどうしてもメシアと受け止めることはできませんでした。だから最後には「十字架につけろ」(15章13節)と叫んだのです。
    きょうの場面は、ゼカリヤ書9章9、10節の実現です。主イエスはまさに真の平和の王となられるため、高ぶることなく、ろばに乗ってエルサレムに入城されました。その主イエスを、群衆は、歓喜の中で迎え入れましたが、主はすべての人に裏切られました。最後まで主と共におられたのは、ただ父なる神だけでした。
    4 min
  • 憎しみの果て(サムエル記下 13章)
    その後、こういうことがあった。
    そして、アムノンは激しい憎しみを彼女に覚えた。その憎しみは、彼女を愛したその愛よりも激しかった。
    (サムエル記下13章1節、15節)
    まるで小説の題材になるようなことが、ダビデの子どもたちの間で起きました。
    ダビデ家の長男アムノンは異母兄妹タマルに抱いていた強い恋心を、凌辱という行為をもって暴発させます。しかも、その結果、恋心を激しい憎しみへ変化させるという二重の辱めを、アムノンはタマルに強いました。
    この記事から、ダビデの子どもに対する躾のまずさ、あるいはその遠因となった、ダビデの多妻に対する批判を読み取ることができるでしょうか。それらが、このような惨劇を生んだのだ、と。
    ただし、古代国家において、王族が多くの妻妾を持ち、異なった母から生まれた兄妹が結婚する、それは珍しいことではありませんでした。非難されるべきは、アムノンが従兄弟の策略にそそのかされ(5節)、妹のタマルを欺き、欲望を満たしたこと、さらに目的を果たすとそのタマルを捨ててしまったことです。ここには人間を単なる欲望の対象としてしか見ず、自らの都合だけで生きる人間の身勝手さが浮き彫りになっています。この醜悪な事件は、その人間の罪の性質を暴露しているのです。
    4 min
  • 嘆きとその向こう(サムエル記下 12章)
    主はその子を愛され、預言者ナタンを通してそのことを示されたので、主のゆえにその子をエディドヤ(主に愛された者)とも名付けた。
    (サムエル記下12章24節~25節)
    この章は1節から25節を一気に読まなければなりません。預言者ナタンの叱責、ダビデの悔い改めと嘆き、その子の死と激しい悲しみ、そして、ソロモンの誕生。
    ナタンの指摘によってダビデは密かに処理したと思っていた罪を暴かれます。その時、ようやく彼はどれほど深刻な罪を犯したかを自覚します。そのあと、彼が経験せざるを得なかったのは神の懲罰でした。不義の結果として生まれた子どもは死にます。このような悲劇的結果を迎えれば誰もが立ち直れない思いを味わうことでしょう。
    ダビデは悔恨と嘆きのうちに追いやられます。そこで、たいていの人は神から離れていくものです。神はただ厳しい神、無慈悲な神でしかないと思うからです。しかし、ダビデは裁きを受け入れ、悔い改め続けます。ダビデの罪は容易に赦されるような生易しいものではありません。神はダビデを見捨て、滅ぼされても当然でした。しかし、神は憐れまれます。その証拠が、与えられた子供エディドヤ(主に愛された者)、すなわちソロモンでした。神は、ダビデとその家への愛を捨てられませんでした。
    5 min
  • 醜悪な本性(サムエル記下 11章)
    ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。
    (サムエル記下11章27節)
    ダビデは全く欠陥のない聖人君子ではありません。
    11章に記されるダビデの悪事は、他人の妻を奪うということだけではありません。バト・シェバとのよこしまな行為を隠そうと、ダビデは、その重大性を十分に自覚しないまま、計略によってバト・シェバの夫ウリヤを死に追いやります。それは、ダビデに対する彼の誠実さ、忠誠心を何より踏みにじるものでした。
    なぜダビデがこのような罪を犯すことになったのか。聖書は何も語っていませんので、バト・シェバにも責任があると言い訳をしたり、責任をなすりつけ合ったりしても無意味です。ダビデのしたことは主の御心に適わない。その一言に集中する必要があります。
    神の御心に適っているかどうか、それは難解な作業を必要としません。神の御心はいたって単純です。それを受け入れられないところに、人間の醜い本性があります。そして、その醜い本性は、私たち自身の問題でもあります。私たちもまた単純なはずの神の御心が見えないことがあります。神の赦しと憐みを求めて、祈り合いましょう。
    4 min
  • 曲解せずに(サムエル記下 10章)
    ダビデは、「ハヌンの父ナハシュがわたしに忠実であったのだから、わたしもその子ハヌンに忠実であるべきだ」と言って、使節を遣わして哀悼の意を表そうとした。
    (サムエル記下10章2節)
    ここに登場するハヌンの父ナハシュは、サムエル記上11章1~11節に出てくるアンモン人の王であると言われています。そこにはサウルが王としてイスラエルの人々から推挙されるきっかけとなった出来事が記されます。
    ダビデとナハシュの関係は聖書には記されていませんが、ダビデがイスラエルを統一する過程で、ナハシュはダビデと同盟関係を結んだのかもしれません。ダビデはナハシュから得た好意を忘れず、代わって王となったハヌンのために哀悼を示す使節を送ります。
    しかし、それに対するアンモン人の仕打ちはまったくひどい扱いでした。ダビデの善意は曲解されます。その結果、イスラエルと、アンモン人とアンモン人に同調したアラム人連合軍との間で激しい戦闘が起こることになります。善意が善意として受け止められないこと、猜疑心、不信感、敵意はいつもあります。その結果は悲惨です。友情や信頼、同情などの感性に重きを置かないのはえてして世の常であるかもしれません。しかし、神の民はそうであってはならないのです。神の愛に生かされる民は隣人への愛にこそ重きを置きます。
    4 min
  • 自分を賢者と思い込んでいる者の愚かさ(箴言 26章)
    犬が自分の吐いたものに戻るように
    愚か者は自分の愚かさを繰り返す。
    自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。
    彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。
    (箴言26章11節~12節)
    「愚か者」は箴言に49回出てきます。賢い者は愚かさを知っています。主イエスも両者の対比を用いられました(マタ7章24~27節)。
    愚か者でも、犬が自分の吐いたものに戻るのを見ると、強い嫌悪感を抱くでしょう。しかし、愚か者は、愚かさを繰り返し一時的に悲しくなっても、愚かな自分を直視できず、繰り返さないようにする努力を厭います。
    ペトロの手紙二には、「『犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る』…と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです」(2章22節)とあります。愚か者が自らの行為によって正体を現すとは、昔もペトロの時代にも、また今日にも当てはまるものです。愚か者を見抜くには、行動を見ればよい、ということです。
    さらに、始末に負えないのは、「自分を賢者と思い込んでいる者」です。愚かなことをしても、自分を賢者だと見なしていますので、悔い改めることができません。エンドレスで愚かさを繰り返します。
    自分の愚かさを知り、愚かさを繰り返したと嘆き、主に救いを求める者には、豊かな希望があります。
    4 min
  • すべての人の僕になること(マルコによる福音書 10章)
    「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
    (マルコによる福音書10章43節~44節)
    主イエスのこの言葉は、9章35~37節と同一の教えです。神の国には、世間一般の人が、偉くなるために追い求めるあり方とは正反対の原理があります。それは、主イエスのもとでは、すべての人に仕える「僕」こそが偉い者とされるということです。
    「仕える者」と「僕」は、自分のすべての権利をあきらめ、ただ主人の指示に従わなければなりません。その指示に徹底的に服従する僕を主人(神)は祝福し、いちばん上になる者とされます。
    使徒パウロは、「自分を無にして、僕の身分になり、…十字架の死に至るまで従順」だった主イエスのことを語っています(フィリ2章6~8節)。主イエスこそ、すべての人に仕える「僕」でした。それは父なる神の御旨に従って、自分の命を献げる使命を最後まで果たされたお姿、受難のお姿の中にはっきりとあらわされました。
    私たちに示される主イエスの生き方は、私たちのそれとまったく同じではありません。私たちは弱い。しかし、主イエスの弟子になりたいと願う者は、十字架の道に従いながら、人々に仕える生き方を強く祈り求めて歩みます。
    4 min
  • イエスをお遣わしになった方(マルコによる福音書 9章)
    そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
    (マルコによる福音書9章36節~37節)
    弟子たちはカファルナウムに向かう路上、だれがいちばん偉いかと議論し合いました。また、主イエスの受難の予告についても、弟子たちは別々のことを考えていました。そこで主イエスは一人の子供を彼らの真ん中に立たせ、抱き上げられます。それは、天国の民になるためにはどうすればいいのかをその子供を通して教えるためでした。
    当時のユダヤ社会では、子供は考え方や力が弱く、労役や戦争に役に立たないと思われていました。主イエスはその子供のような弱い者、未熟な者を受け入れるのは、わたしを受け入れることと同じであると言われました。それは主イエスへの信仰が最も小さい者、未熟な者に仕える形で表されなければならないことを弟子たちに教えるためでした。
    主イエスは神の御旨により「かえって自分を無にして、僕の身分になり」(フィリ2章7節)この世に遣わされました。それを信じ、受け入れることは父なる神を受け入れることになります。私たちは、父なる神と子なる神との神秘的な関係の中へ、子供のような弱い者に仕えることを通して招かれています。
    5 min
  • 友情を忘れない(サムエル記下 9章)
    「恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。」
    (サムエル記下9章7節)
    サウルの子ヨナタンは、ダビデを「自分自身のように愛し」ました(サム上18章3節)。その友情は、ダビデが生命の危険にさらされたときにも崩れ去ることはありませんでした。むしろ、父サウルの命令に背いてでもヨナタンはダビデを救おうとしました(サム上19章)。
    当時の家父長制において、父親の権威が絶対的に重んじられていたことを考慮に入れるならば、その時のヨナタンの行動は常軌を逸しているといっても過言ではないほどでした。だからこそ、ダビデはヨナタンの友情を決して忘れることはありませんでした。ヨナタンの遺児を丁重に扱うことで、これに報いようとしたのです。
    しかし、これは単なる恩義からではありません。ダビデはヨナタンとの親しい関係を通して神が働いておられるのを知っていたのです。そうして、ダビデはイスラエルの王とされ、神の救いの計画の担い手とされました。神はこのような人間関係を豊かに用いられます。神を信じるものが、身近にいる人との関係を軽んじることは、そこにおいて働かれる神の御業を損なうことにもなるのです。
    4 min

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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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