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私は誰なのだろうか。
こう問うのは、なにも若者だけではありません。
周りの人からのネガティブな言葉や評価に影響されて、歪んだセルフイメージを抱えている人も、多いことでしょう。
しかし、あなたを創ったのは、神様です。
ヤコブは、父親や兄を騙し、また伯父から騙され、決して平坦とは言えない人生を送っていました。だからこそ、ヤコブもまた自分のアイデンティティーについて随分悩んだのです。
しかし、ヤコブは祈りの中で神様と格闘し、確固たるアイデンティティーを得ます。
神様はあなたにどんなデザインを持っておられるのでしょうか?
ヤコブのように必死に神様に祈り、問い続けるならば、神様はきっと示してくださいます。
私たち一人ひとりが、本来の神様のデザインを知り、喜びと平安のうちに生きることが出来ますように祈ります。
青山学院大学は、箱根駅伝で近年素晴らしい成績を残していますが、その背後には、原晋監督という優秀な指導者の存在があります。
今回は、この「信仰のレース」を完走するための4つの秘訣を、聖書から学びましょう。
秘訣① 観客の声援を受ける
私達の信仰のレースは、決して平坦な道ではありません。走りやすい時期もあれば、とんでもない悪路、上り坂、悪天候の時もあります。
あなたも、最高の名監督であるイエス様と一緒に、信仰のレースを走ってみませんか?
全世界で愛されている『赤毛のアン』。主人公のアンは、初め男の子の養子を希望していたマリラとマシューの家に手違いで送られてしまいます。「女の子では役に立たない」と送り返される寸前で、心変わりしたマリラに引き取られ、のちに多くの人を魅了し幸せにする、かけがえのない存在になります。
サウル王の後継者を探しに出た預言者サムエルもまた、人間的な物差しで人選をしようとします。しかし、神様がお選びになったのは、末っ子のダビデでした。
私たちもまた、上辺だけで人を判断してしまいがちです。しかし、神様の目にどう見えているかが全てなのです。
① 人をどういう目で見ているのか?
以上の3つのチェックポイントから自分の判断基準、自分の心の姿、自分の信仰の土台を見つめ直してみましょう。
今日、私たちの目の覆いが取り払われ、信仰による目で人を見ることが出来ますように祈ります。
キリスト教信仰で、もっとも受け入れるのが難しいことがらの一つが、イエス様の復活ではないでしょうか。
「死人が蘇るはずがない」-と、どうしてもそこから抜け出せない。「死」という終止符は、決定的であり、誰も覆すことのできない終わりだと…。
そして、自分の理解に合うように、聖書の記述をぼかしてしまうのです。
あなたは、いつまでもイエス様が復活しなかったかのように生きてはいないでしょうか?
今日の箇所で出てくる、エマオの途上にいた弟子たちもまた、イエス様の復活の知らせを「幻」として捉えていたようです。彼らの顔には喜びはありませんでした。
あなたの顔を曇らせ、墓に閉じ込めている原因はどこにあるのでしょうか?
「死は、勝利に呑み込まれた」(コリント人への手紙第一 15:54)。
皆さんは、天国とはどんな場所だと思いますか?
最近では臨死体験をした人たちが「天国」の様子をレポートしている動画がYouTubuにたくさんアップされているようです。「天国」について、「お花畑があった」という人もあれば、「美しい歌に溢れている場所であった」という人もいます。
しかし、ただの美しい場所が天国なのでしょうか?
聖書は、天国とは神様のおられるところだと語っています。神様のおられるところこそが天国であり、神様のおられない天国など、存在しないのです。
では、一体誰がこの天国に行かれるというのでしょうか?
生前、善行をたくさん積んだ人でしょうか?
少なくとも、「犯罪人は天国には行かれない」、と考えるのが普通だと思います。
しかし、今日取り扱う聖書の箇所では、十字架につけられた重罪犯罪人に向かってイエス様が「あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます」と宣言なさいます。
この犯罪人は十字架に磔になっているので、罪を償うこともできないし、善行を行うことも出来ません。また、十字架刑というのは当時の最も重い刑罰です。そのような「極悪人」ともいえる死刑囚が、一体なぜ天国に行かれるというのでしょうか?
十字架に磔になったイエス様も一見無力に見えます。
極悪人をも天国に引き上げた十字架の力とは…?
イスラエル初代の王様、サウルの転落が始まります。
強い軍隊を持たなかったからでしょうか?
いいえ、それは、サウルが神様の言葉を聞き、それに従わなかったからです。
私たちの現代社会では、「自由」が価値あるものとされているため、「自分に正直になろう」「自分を信じる」など、自分の心の声に従うべきだというメッセージに溢れています。
それは、裏を返せば私たちが他人の声に流されやすいことも意味しています。私たちは常に、社会や周囲の人からのプレッシャーにさらされて生きているからです。
そしてまた、私たちは知らず知らずのうちに、サタンの声に耳を貸してしまうこともあります。サタンの甘い誘惑が孕むものは、苦い実でしかありません。しかし、私たちはそれと気づかずにその声に耳を傾けてしまうのです。私たちの内に住んでくださっている神様の声を押しやって…。
聖書は、神様の言葉を聞きそれに従う人は祝福の源となる、と教えています。
あなたは今日、誰の声を聞いて、行動の選択をしているでしょうか?
立ち止まって、メッセージを聞き、自分の心を点検してみましょう。
ヨナ書1章で神様の命令に背き、2章で魚に飲まれ、3章でニネベの劇的な悔い改めと救いを目の当たりにしたヨナ。
そんなヨナに、唐胡麻を通して、ご自分の思い・視点を教える神様。
●「私の得」が神の視点を隠す
私達も、神様から「いいね!」をもらえる人生を送ってみませんか?
「なぜ愛の神が人殺しを命じるのか」―「聖絶」を考える―、本日はシリーズの3回目(最終回)のメッセージとなります。
A.「なぜ神は残酷な裁きを下すのか?」 ( https://olive-church.net/sermons/herem-01/ )
「イエス様が私たちを救うために十字架について下さった」という福音は、愛と恵みに溢れています。一方で、「カナン人を皆殺しにしなさい」という聖絶の命令は、受け入れがたい厳しさがあります。しかも、ここには「罪のない」子どもも含まれているのです。
しかし、「福音」と「聖絶」は対立するものではなく、同じ論理の延長線上にあるのです。「福音」と「聖絶」の根幹にあるものは、一体何でしょう?
それは、原罪です。
福音が必要なのは、私たちが親から、親もまたその親から脈々と受け継いできてしまった「原罪」があるからです。また、もっと具体的なレベルの話でいえば、いい影響にしろ、悪い影響にしろ、親からの影響を全く受けずに育つ人はいません。そして、親の罪、悪い選択を子どもが刈り取ることになっています。
「福音」も「聖絶」も、罪に対する清めの手段だと言えるでしょう。
しかし、実際に我が子を亡くした親たちは、この説明で納得がいくでしょうか?究極的には、私たち人間の小さな頭で神様のなさること全てを理論整然と解き明かすことは不可能ですし、理論は冷たいものと感じることでしょう。
では、明確な答えがなくても神を信頼することは出来るのでしょうか?
我が子イサクを殺すように言われたアブラハムは、明確な答えなど何一つないまま、神様を信頼しました。イサクはすんでのところで神様の介入により助けられます。
しかし、神の一人子イエスはどうなったでしょうか?
神様は、子の切なる祈りを退け、沈黙を選ばれたのです。
答えは、十字架にあるのです。
前回に引き続き、「なぜ愛の神が人殺しを命じるのか」―「聖絶」を考えるシリーズの2回目のメッセージです。
A.「なぜ神は残酷な裁きを下すのか?」 ( https://olive-church.net/sermons/herem-01/ )
今回は、B「なぜそれを人間たちにやらせるのか?」についてです。
「自分の手でそんなことはしたくない、ノアの箱舟やソドムの時のように神様がご自分でやってくれればいいのに」と思う人もいるかもしれません。
しかし、まずこれは霊的戦いの文脈で理解しなければいけません。霊的戦いとは、天使と悪魔の直接対決ではなく、人間の魂をめぐる戦いなのです。それは、「人間はどちらに従うのか?」「どちらの王国を建て上げるのに組するのか?」というものであり、私たち自身の参与が避けられない戦いなのです。
また、イスラエルの民が「聖書」という壮大なストーリーの中で、非常に重要な役割を担っていることにも注目する必要があります。救世主がある日突然現れても、誰も信じないことでしょう。イスラエルの民は、メシア出現の土壌を連綿と紡ぎ、その正当性を打ち立てるという役割が与えられていたのです。そのために、偶像礼拝をする異邦人に対しては毅然とした姿勢が求められました。
このことは同時に、イスラエルの民の責任の大きさも意味しています。だからこそ神様は、イスラエルの罪に対して厳しい裁きを行われました。「異邦人の裁き」と「イスラエルの裁き」は、神様の救いの計画では表裏一体なのです。
神様は、王国の建設に私たちを用いようとされています。共同作業の中には、時に痛みも伴うこともあります。ここで留意したいのは、現在「聖絶」という言葉で正当化できる戦争や虐殺は一切ないということです。「聖絶」はあくまで、旧約聖書の特殊な時代背景の中でのみ神様がお命じになったことです。
このような厳しい聖書の箇所から目を背けないことは痛みを引きけることであり、神様の王国を建て上げる上で私たちに与えられた重要な使命を確認できるのではないでしょうか?
聖書の中で、最も目を背けたくなる問題の一つ、「聖絶」。
聖書に明記された血なまぐさい記事に触れるとき、人は4つの反応を取ることになります。
健全な反応は4番目ですが、時には棚上げしていた問題を下ろして咀嚼することで、霊的成長を得られることもあります。まるで、圧力鍋で煮た魚を骨ごと食べるようにです。
では、最も食べにくい骨の一つ「聖絶」を、どのように理解すれば良いでしょうか?
今回は、3つの疑問の内、最初の一つを取り上げます。もやもやが晴れるような解説は、必聴です!目を背けていた聖書の記述に、真正面から立ち向かえるようになりますよ!
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