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栃木県下野市の自治医大前キリスト教会では、毎週日曜日午前10時半から礼拝を行っています。みことばに耳を傾け、目の前に与えられている恵みの一つ一つに感謝して日々を過ごすことができますように。... more
FAQs about 自治医大前キリスト教会:How many episodes does 自治医大前キリスト教会 have?The podcast currently has 282 episodes available.
October 11, 2020礼拝メッセージ 2020/10/11「桃李もの言わざれども下自ら蹊をなす」マルコ 3:7-12小倉泉師礼拝メッセージ20201011.mp3...more35minPlay
May 31, 2020礼拝メッセージ 2020/05/31「教会は聖霊によって一つ」使徒 2:1-12小倉泉師礼拝メッセージ20200531.mp3今日はキリスト教の3大祭りの一つペンテコステです。初めて聞く人はへんてこな名前だと思うでしょう。日本語では格調高く五旬節と訳されています。他の3大祭りクリスマス、イースターと並べると、世間一般の認知度はぐっと下がって地味な感じを受けるかもしれませんが、クリスチャンと教会にとってはとても大切な記念日です。私たちの救い主であるイエス・キリストが十字架に架けられて死んだ後、三日目によみがえったイースターから数えて50日目に当たる今日、昇天前にイエスが約束された聖霊が降り、多くの人々が救われ、教会が誕生した日だからです。ペンテコステのもともとの意味は単純に50番目という意味です。しかし、イスラエルの歴史を振り返って見ると、この50番目には興味深い意味があります。モーセに率いられたイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放された出来事―いわゆる出エジプトの出来事ですね―そのきっかけは過越しです。エジプト中の初子を殺すため主の使いがエジプト中を巡り歩いた時、子羊の血が塗られたイスラエル人の家は過越して中に入らなかったわけです。それでイスラエル人の初子は一人も殺されることなく、エジプトの初子だけが殺されました。この出来事によってファラオは主なる神を恐れ、イスラエルを解放したわけです。この出来事を記念して祝われたのが過越しの祭りです。これは救いの日であり現代でもユダヤ人にとって最大の祭りです。この過越しの祭りは「種なしパンの祭り」とも呼ばれ7日間続きますが、祭り期間中の安息日の翌日から50日目が7週の祭りと言われ、やはりユダヤ人の大切な祭りになっています。これは「刈入れの祭り」とか「初穂の祭り」とも呼ばれ、収穫した作物の初穂を主に献げる感謝の祭りです。約束の地に導き入れられ、安息を与えられた後に、その感謝を表す祭りだからです。新約聖書に出て来るペンテコステはこの日を指しています。教会は救われた者たちが一つに集められて形作られます。クリスチャンにとって教会は、神によって遣わされ、置かれ、結び合わされた所、まさにこの世における自分の居場所です。その教会が世界で最初に誕生した日、それがペンテコステです。この日誕生したエルサレム教会はこの後、全世界に生み出されてゆくキリストの教会の初穂です。初穂の祭りを祝う日に初穂としての教会が誕生するというのは、なかなかに憎い演出です。神様やるなといった感じがします。さらに50日目ということに注目すると、出エジプトの日から数えて50日目にあたる日は、イスラエルにとってとても重要なことが起きた日でもあります。それはシナイ山で十戒に代表される律法を授けられ、神の民として契約を結んだ日であるからです。この日にイスラエルの民は石の板に書き記された律法によって正式に神の民となったのです。そして新約聖書の50日目、ペンテコステは、聖霊によって新しい神の律法が人の心の板に書き記され、新しい神の民が生まれたのです。エレミヤ書に主が人々の心に新しい律法を書き記すとの約束があります。エレミヤ31:31~33「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」パウロはそれを受けてコリント教会の存在がその証拠であり、神の御霊によってそれがなされると言っています。Ⅱコリント3:3「生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記された」。救われる者の数が一気に増え、教会が誕生する。そのようにペンテコステはとても重要な日であるわけです。では、ペンテコステの日に起きたことを詳しく見てゆきましょう。ペンテコステの日、弟子たちはある家に集まっていました。一説にはマルコの母の家だったとも言われています。この家はたびたび弟子たちの集まりに使われていたようで、ペテロがヘロデの捕らえられた時も弟子たちが集まって祈っていたのはこの家でした。イエスが昇天してから約束の聖霊が降るまで、弟子たちは毎日集まって祈っていたと思われます。イエスの昇天から10日目、五旬節の日の朝を迎えました。いつものように弟子たちが集まり祈っていると、異変が起こりました。「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。」(2:2~3)まず、激しい風が吹いた時のような大きな物音が家中に響き渡りました。この音は当然ながら外にも響き渡り、多くの人々を驚かせ、何事が起きたのかと思わせました。人々の注意を引き付ける役割を果たしたのです(2:6)。次に具体的にはどんなものなのかははっきりわかりませんが、炎のような舌が分かれて現れ、弟子たち一人ひとりの上にとどまりました。火のようなものが天から降って来て、それが分かれて舌のようになり弟子たち一人一人の上にとどまったということでしょうか。これは弟子たち一人一人に何か不思議なことが起こっているということを明白に示すためのもののように思います。火は神の臨在やさばきと結びついていますし、黙示録では聖霊が火で象徴されてもいます。黙示録4:5「御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。」舌の形を取ったのは、この後弟子たちが外国のことばで語ることと関係しているのでしょう。これから起こる不思議なことは、神の聖霊の働きによることを人々に示すためだったと思われます。天から降った聖霊に満たされた弟子たちは、集まって来た人々を前にして外国のことばで話し始めました。「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた(2:4)。」ペンテコステの日に行われた初穂の祭りはユダヤ人にとって大切な3大祭りの一つですから、大勢の巡礼者がエルサレムに来ていました。彼らは普段は外国に住んでいて、ヘブル語ではなくその外国のことばを話していました。そういう巡礼者たちが、普段自分が使っている外国語を弟子たちが語るのを目にしたのです。しかもその外国語は一つ二つではありませんでした。9~11節にリストが載っています。それだけで15の言語になります。このリストはエルサレムを中心に東に位置する地域から始まり、北に行き、南に下がり西に行く形を取っています。エルサレムを取り囲んでぐるっと一周している形です。つまりそれは当時知られている世界のすべてをあらわしているのです。弟子たちが外国語で語っていたのは神のなさった大きなみわざでした。「あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは」(2:11)と人々が言っていることからわかります。具体的な内容は14節以下のペテロの説教を見ればわかります。今起こっていることは旧約聖書ヨエル書が預言した聖霊降臨の結果であること、それは十字架に架けられて死んだイエスが復活して天に上り、父なる神から聖霊を受け、その聖霊を注いでいること、そのことによってイエスこそ救い主であり主であることが証明されたこと、そしてユダヤ人たちはこのイエスを十字架につけてしまったことです。目の前で起こっている不思議なことは聖霊が起こしているのです。そしてその聖霊を降臨させたのは復活によって救い主であることが証明されたイエスです。しかし、そのイエスを拒絶して十字架につけたのは自分たちです。その事実を否定できない形で突き付けられ、人々は悔い改めイエスを信じるように促されたのです。その結果、イエスを信じてバプテスマを受けた人々が3000人も起こされ、最初の教会が誕生したのです(2:41)。使徒の働きの1章では弟子の数は120人ほどですから、一気に25倍に増えたということになります。そしてこの日以降、毎日救われる者が起こされ、美しの門での出来事の直後(4:4)には男の数だけで5000人、女と子どもを含めればゆうに1万人を超える教会になって行ったのです。ペンテコステの日に誕生した教会がどんな教会だったか、どんなことをしていたかは2:42を見ればわかります。「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」教会はここにあげられている4つのことを熱心に心合わせて実行していたのです。使徒たちの教え―これは聖書に基づくイエスの教えを意味します―に従うこと、神の家族として互いに助け合い、様々なものや物事を分かち合うこと、聖餐式を行って皆キリストにあって一つであることを覚えること、お互いのことを含めて心を合わせて祈り合うこと、この4つのことを行っていたのです。ギリシア語原文では、「ずっと4つのことに固執していた」という言い方がされています。44節以下は42節の補足と言えるでしょう。そこで目につくのは「一つである」ということです。「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」ユダヤ人であるからと言っても、皆が同じように考えたり行動したりするわけではないでしょう。いろんな違いがあったはずです。考え方の違う人、性格の合わない人、好みの違う人、身分や立場の違いも含めれば、その違いはかなりのものになるはずです。それでもここに書かれてあるように、それらの違いを超えて一つになれたのは、同じ一つの聖霊によって導かれ、救われ、同じ教会の中に置かれたからです。その原理、原則は今も変わりません。私たちも同じ一つの聖霊によって導かれ、キリストと出会い、キリストを信じるように促され、救われて、この教会に置かれました。同じように導かれた兄弟姉妹と、キリストにあって組み合わされ、結び合わされ、一つの教会を建て上げているのです。私たちの内に住まわれる一つの聖霊によって、それぞれに与えられている独自の賜物を用いることで、教会を建て上げることになるのです。交読文で読んだⅠコリント12章に書かれてある通りです。この春以降、新型コロナウィルス感染症の影響で一緒に集まって礼拝することができなくなりました。それは私たちにとってこれまで経験したことのない事態で、とても苦しい時でした。皆と一緒に教会で礼拝を献げられるということが、どれほど私たちにとって喜ばしいことで、神の恵みであるか、ということを深く味わわされた時だったのではないかと思います。クリスチャン、教会、礼拝、これらについて改めて問い直すということにおいて、今回の新型コロナウィルス感染症による事態は、それなりの意味を持っていたように思います。緊急事態宣言が全国で解除され、私たちの教会も来週から一堂に会しての礼拝を再開します。再開される礼拝への皆さんの思いはどんなでしょうか。聖霊によって一つとされた私たちが、一つ心で一緒に礼拝を献げる。当たり前だと思っていたことが、決して当たり前ではなく、私たちが一つになって礼拝することが、特別の神の恵みであったことを意識しながら、来週から礼拝を献げられたなら幸いだと思います。...more30minPlay
May 24, 2020礼拝メッセージ 2020/05/24「幸せな晩年と引き継がれる祝福」創世記 25:1-11小倉泉師礼拝メッセージ20200524.mp3 24章の主題はイサクの結婚でした。アブラハムになされた主の約束を、イサク箱として引き継いで行くわけですが、そのイサクの後に引き継ぐべき孫がいなければ、主の約束は途中で終わってしまいます。ですからイサクの結婚はアブラハムにとっても、主にとっても重大な事柄であったのです。1000㎞も離れたパダン・アラムからイサクの妻にリベカを迎えることは、決して簡単なことではありませんでした。まさに主が働いて下さらなければ実現不可能なことだったに違いありません。そして主はものの見事に働いて下さり、イサクとリベカは結婚に導かれたのです。アブラハムにすれば、イサクが結婚し、やがて孫も生まれて来るに違いない。これで本当に安心することができたのだろうと思います。主の約束を受け継ぐ主役は、アブラハムからイサクへと、そしてイサクの子へと移って行くことになります。25章はその主役交代を示しています。今朝はアブラハムの晩年とその死を見て行きたいと思います。 25章の冒頭にアブラハムのもう一人の妻ケトラのことが出てきます。「アブラハムは、再び妻を迎えた。その名はケトラといった。」創世記の記述を単純に読めば、サラが死んだ (23:1)後に、アブラハムはケトラをめとったように見えます。サラが死んで3年経ち、イサクも妻リベカを迎え、サラを失った悲しみから立ち直ったようだから、アブラハムもサラのことに踏ん切りをつけ新たな歩みのために再婚した、と私たちは理解したくなります。聖書の原則はいつでも一夫一婦制です。一人の夫に一人の妻です。ですから、私たちはアブラハムが何人もの女性を同時に妻にしていたなどとは考えたくありません。それは姦淫になるからです。それでは信仰の父アブラハムのイメージに合いません。でもサラの死後ならケトラと結婚しても、一夫一婦制の原則は守られており姦淫にはなりません。ですから普通なら25章は24章に続くその後の出来事として読んでしまうことが多いです。しかし、それはこの箇所の字面だけを見た思い込みに基づく謝った解釈だろうと思います。聖書の記述は必ずしも時間の経過順には書かれていないのです。この記事は明らかにアブラハムが若かった頃のことを書いています。なぜなら、もしも時間順であるとすれば、再婚した時アブラハムは140歳です。イサクが生まれた時より40年も後になります。イサクが生まれて来るのにも「百歳の者に子が生まれるだろうか」(17:17)とアブラハムは心の中で笑ったのです。アブラハム自身がそんなことあり得ないだろうと主のことばに疑いを持ったわけです。その時から40年後に結婚して、「ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアハ」と6人の子をもうけたことになります。イサクの場合は主の約束に基づくいわば奇蹟です。ですから生まれるのは当然で不思議ではないでしょう。しかし、ケトラの子たちは主の約束とは関係ありません。アブラハムが自力で生んだ子どもたちです。主の奇蹟でも子どもが生まれるなんて不可能だろうと言ったアブラハムが、その40年後に自力で6人の子を生んだことになります。時間順に書かれているとしたら、これは明らかにおかしいでしょう。Ⅰ歴代誌1:32ではケトラに対して「側女」という用語が使われています。「側女」は妻とは区別されることばで、しかも、妻の存在を前提にしたことばです。ですから、ケトラは正式の妻ではなく側女であったことがわかります。さらに言うなら、25:6には「側女たち」という表現もありますから、アブラハムにはケトラ以外にも側女がいたことがわかるのです。とにかくサラがアブラハムの正妻であった時代に、アブラハムはケトラをそばめとしていたということでしょう。ケトラがアブラハムの子を産むのを見て、自分の女奴隷ハガルを利用すれば、自分も子どもの母親になれるに違いないと考えたのかもしれません。イシュマエル誕生の背後に、そばめケトラとその子どもたちの存在があったのかもしれません。 2節から4節にかけてケトラの子どもたちと孫たちのことが書かれています。ケトラの子どもたちはシナイ半島からアラビヤ半島の紅海側(西側)を中心に住みついたようで、アラビヤ系の民族になったと考えられます。イザヤ21:13ではアラビヤに対する宣告の冒頭にデダン人の隊商への呼びかけがあります。これまでに出て来た系図や一覧表と同様に、ケトラの6人の子どもの名前が挙げられた後、ヨクシャンとミディアンの子どもたちだけが取り上げられています。ヨクシャンが取り上げられるのは、彼の子シェバとデダンに由来する地名や民族名が生まれ、このあと何度も聖書に登場することになるからです。シェバはソロモンを訪ねて来たシェバの女王で有名ですし(Ⅰ列王10章)、デダンは神のさばきに関連する預言書の中に出てきます(イザヤ21:13、エレミヤ49:8など)。ミディアンはアラビヤ系の民族で最も有名でしょう。ヨセフが売られたのはミディアン人であり、モーセが寄留したのはミディアンの長老の所であり、ギデオンが戦ったのもミディアン人でした。ミディアン人はイスラエルの敵対勢力として登場し、しばしばイスラエルと戦っています。ミディアンにしろイシュマエルにしろ、アブラハムの直系子孫でありながらイスラエルの敵となるのです。サラから生まれる子が約束の子でしたが、主のみこころと関係なく、いわばアブラハムの欲望が生み出した子どもたちが、後になって余計な問題を引き起こしているわけです。人の行動は、ことばや思いも含めて、それがなされた時だけでなく、後々になっても影響を及ぼすことがあるのです。何かをしようとする時に、今目の前にあることだけでなく、それが後にどんな影響を及ぼすかも考えて行動出来たら良いですね。側女の産んだ子どもがどれくらいいたのかははっきりしませんが、アブラハムにとって最も大切なのは約束の子であるイサクでした。イサクなしにはアブラハムに未来の希望はないからです。イサクがアブラハムに与えられた主の約束を確実に引き継いで行くための最善は何か。それをアブラハムはイサクが生まれてからずっと考えていたはずです。側女の子どもたちはイサクよりはずっと年上であったと考えられます。おそらくイシュマエルよりも年上でしょう。家系図で表せば横並びの異母兄弟ですが、実年齢では一世代上、叔父、叔母の世代でしょう。また、彼らはどう見ても主なる神を信じているとは思えません。後に彼らが住む地域は多神教やアニミズムに支配された地域です。そんな彼らがイサクのそばにいたなら、幼い時からイサクがその影響を受けるのは十分予想できます。アブラハムにとってそれはどうしても排除しなければならないことでした。主の約束を引き継ぐことができなくなるからです。また、彼らの誕生はアブラハムの欲望の結果とも言えます。もっと言うなら姦淫の罪の結果です。一方イサクは主の約束の成就として、恵みと奇跡によって生まれました。両者は水と油、まったく異なるのです。そのイサクに罪の影響が及ぶことのないように、アブラハムは側女の子を東方の国に去らせたと思われます。イサクの未来、それはアブラハムの未来でもありますが、それを脅かす可能性のあるものをすべて、自分の生きているうちに取り除いたことになります。それは主の祝福が正しく引き継がれてゆくためでした。そして、アブラハムは175歳で生涯を全うすることになります。カナンの地に来て100年、イサクが生まれてから75年、イシュマエルが生まれてから89年、サラが死んでから38年、イサクがリベカをめとってから35年、ヤコブとエサウが生まれてから15年アブラハムは生きたことになります。「幸せな晩年を過ごし」と言われていますが、それはいつのことを指しているのでしょうか。約束の成就としてイサクが誕生した時以降でしょうか。でもイサクの誕生後にも、イシュマエルをめぐるサラとの悶着がありました。イサクを献げよと命じられたモリヤの山の出来事もありました。ですから、イサクの誕生が幸せな晩年の始まりとは言い難いように思います。モリヤの山の出来事以降なら幸せでしょうか。いや、サラの死によってアブラハムは大いに嘆いていますから、それも違うように思います。アブラハムの生涯を振り返って行くと、イサクにリベカという妻が主によって与えられ、アブラハムに与えられた主の契約が、子孫に受け継がれてゆく道筋が整った時が「幸せな晩年」ではないかと思われます。単に長生きしたということではなく、年を重ねる中に人生に満ち足りてということでしょう。そして、人生に満ち足りるのは主との関係において平安を得る以外にありません。自分が救われていると言うだけではなく、その中で自分に与えられている使命が成し遂げられ、約束が実現してゆくのを、あるいはその道筋が整えられてゆくのを見る時に、アブラハムのように平安を得、人生に満ち足りることができるのではないでしょうか。主との関係を確立し、主に仕え続け、アブラハムのように幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、主の民に加えられる。そういう人生を送ることができたならなんと幸いでしょうか。175歳で亡くなったアブラハムは、イサクとイシュマエル、二人の息子によってマクペラのほら穴に葬られました。このほら穴はアブラハムがヒッタイト人たちと交渉して、法外な値段を吹っかけられたにもかかわらず、それを受け入れて手に入れた土地でした。それは主の契約をともに担う信仰のパートナーであり、最愛の妻であったサラの遺体を葬るためでした。ヒッタイト人の意向によってどうなるか分からない不安定な貸し墓地ではなく、末代までも誰にも干渉されず、自由に使える自分の墓地を手に入れるためにアブラハムは腐心したのです。そしてそれはまた、約束の地を自分の所有とする小さな第一歩でもありました。アブラハムはそこにサラを葬りましたが、今度は自分自身がイサクとイシュマエルの手によって葬られたのです。イシュマエルはサラによって追い出されたようなものであり、その後、アブラハムの家とは離れて生活していましたが、ここではイサクと一緒にアブラハムを葬っています。イシュマエルには複雑な思いもあったかもしれませんが、イサクと協力してアブラハムを葬っています。アブラハムにとってイサクは主の約束の息子です。イシュマエルも主の約束があったからこそ、自分たちで何とかしようとして生まれた子です。そういう意味ではどちらも主の約束と無関係の存在ではありません。その二人の息子が力を合わせて葬ってくれたのですから、アブラハムにとってそれは人生最後の喜びだったのではないかと思います。アブラハムは主の祝福を受け、満ち足りてその地上の人生を終えました。そして、その祝福は今度はアブラハムの子イサクに引き継がれて行きました。主の祝福は初めの約束のように確かにアブラハムの子孫に引き継がれてゆくのです。それは主が真実な方であり、どこまでも約束に忠実な方であるからです。その祝福の約束が長い年月にわたって受け継がれ、イエス・キリストによって現代の私たちにも及んでいるのです。私たちはアブラハムよりもずっと弱く小さな信仰しかない者でしょう。主の祝福を受け継ぐのに決してふさわしい者ではありません。しかし、イエス・キリストがその私たちの悪いところ、弱いところ、できないところ、罪のすべてを引き受けて十字架で罰を受けてくださったから、すべて赦され、主から愛される神の子どもとされたのです。主の祝福を味わいながら、アブラハムのように満ち足りた人生を歩んで行きたいものです。...more29minPlay
May 17, 2020礼拝メッセージ 2020/05/17「リベカとイサク」創世記 24:52-67小倉泉師礼拝メッセージ20200517.mp3 モリヤの山での出来事の後、イサクはアブラハムと一緒にベエル・シェバに住んだようです。ベエル・シェバではアブラハムとともに家畜の世話をしていたと思われます。時々、ヘブロンにいる母サラの許へも帰っていたと思われますが、アブラハムがそうだったように、イサクも生活の拠点はベエル・シェバだったと思われます。アブラハムとそんな生活を続けている間に族長としての仕事を身に着けるとともに、主の約束の内容も理解し、それを受け継ぐために必要な主に対する信仰も成長させていったと思われます。主の約束を受け継いで行く人間側の準備は着実に進められていたのだろうと思います。イサクが37歳の時、母サラが亡くなりました。サラの死はアブラハムにとって自分のいのちがあとどれくらい続くのかを考えさせたのではないかと思います。自分が主から受けた約束を受け継ぐ者としてイサクは順調に成長しています。イサクまでは何の心配もない。しかし、イサクはまだ独身であり、子どももいない。イサクの後を受け継ぐ者が今はまだいない。自分が生きているうちにイサクの妻を迎え、イサクの後、主の約束を受け継いで行くべき孫の顔を見たい、と思ったのでしょう。それが24章の大半を使ったイサクの嫁取り物語であったわけです。イサクがリベカと結婚したのは40歳の時ですから、サラの死から3年の後です。イサクの結婚相手となる女性は、主を信じる者でなければなりません。偶像崇拝をしているカナン人では絶対にダメなわけです。となると、アブラハムの親族、それも、主に導かれてカルデア人のウルを離れて一緒にカナンの地を目指してきた親族でなければなりません。彼らはアブラハムの父テラとともにハランを中心としたパダン・アラムの地域にとどまった人々でした。アブラハムがカナンの地へ旅立って以来、パダン・アラムに残った人々との交流がどの程度あったのかはわかりません。アブラハムにとってカナンの地こそ約束の地ですから、アブラハムがパダン・アラムを訪ねるということは無かったと思われます。せいぜい使者を遣わして情報を交換する程度だったと思われます。22:20以下にあるアブラハムの兄弟ナホルの家族の記事はそういう情報でしょう。これはおそらくイサクの誕生をアブラハムが伝えたことに対する返信と思われます。ベエル・シェバとパダン・アラムとは約1000㎞離れていますから、互いの状況はほとんど知ることができません。そんなところからイサクの妻を迎えるわけですから、ただ使者を送れば事は済むというわけにはゆきません。しっかりした準備が必要です。やがて族長となるイサクの妻を迎えるわけですから、使者もそれなりの立場・身分を持った者でなければならないでしょう。結納となる品々も相当なものを用意する必要があります。旅は片道だけでも1か月くらいかかりますから、その間、盗賊に襲われないよう護衛も必要です。実際に使者を遣わすまでにかなりの準備が必要になります。それらを全て整えたうえで、最年長のしもべ、アブラハムの家の№2が使者として送られたわけです。そして、リベカが主によってイサクの妻として備えられているのに出会ったわけです。それが先週見たところです。結婚話は、主が導いておられるという確信によって、とんとん拍子で進みました。リベカの父ベトエルも、兄のラバンも、しもべの話しをそのまま受け止めました。そして「【主】からこのことが出たのですから、私たちはあなたに良し悪しを言うことはできません。ご覧ください。リベカはあなたの前におります。どうぞお連れください。【主】が言われたとおりに、あなたのご主人の息子さんの妻となりますように」(24:50~51)と言って、すぐに結婚を承諾しました。しもべは導いて下さった主に感謝の礼拝を献げます。それから結納の品々を贈り、ようやく食事となりました。しもべは食事をし、肩の荷を下ろして一夜の休息を得ました。朝になると、しもべはリベカを連れてイサクのもとに帰らせてほしいとラバンに言います。急な話にラバンもリベカの母親も驚きます。当然でしょう。リベカがイサクと結婚することは確かに決まったけれども、結婚話そのものが昨日初めて聞いたことであり、今日すぐにカナンの地にリベカを連れて行くというのは、あまりにも性急すぎて心の準備が整わないということなのでしょう。彼らは10日ほど準備期間を与えてくれとしもべに答えます。「『彼女の兄と母は、「娘をしばらく、十日間ほど私たちのもとにとどまらせて、その後で行かせるようにしたいのですが』と言った」と55節にあります。驚きと戸惑いは当然だろうと思います。しかし、しもべは、主のみこころがここまで明確に示されているのだから、リベカをイサクのもとに一刻も早く連れて行き、主が導いておられるこの結婚を実現させてほしいと交渉します。しもべのことばの中心にあるのは、主が導き、みこころを示し、私の旅を成功させてくださったということです。そして本当に完成するのは、リベカをイサクのもとに連れて行って、二人が夫婦として結ばれた時だということです。ですから、この時点ではまだ半分だけの完成であって、旅の完全な成功ではないのです。しもべの願いだけならラバンたちは恐らく同意しなかったでしょう。1000㎞も離れた所に、娘を、妹を嫁にやるのです。二度と会えないかもしれないのです。別れのために準備の時間が必要なのは当然でしょう。しかし、主の導きであると言われたので、自分たちの思いに固執するのもまずいと思ったのでしょう。リベカの考えを聞いてみようと提案しました。57節「娘を呼び寄せて、娘の言うことを聞いてみましょう。」おそらくラバンたちは、リベカも別れを惜しんで時間を取るだろうと考えたんだと思います。そして、本人がわかれの時間が欲しいと言えば、しもべも納得するだろうと計算したと思います。しかし、リベカの答えは彼らの思惑を覆しました。「彼らはリベカを呼び寄せて、『この人と一緒に行くか』と尋ねた。すると彼女は『はい、行きます』と答えた。」(58節)このリベカの答えには正直驚きます。一度も会ったことのないイサクの妻となるために、その話を初めて聞いた翌日に、1000㎞も離れた外国に家族や友人たちと離れて一人で行くのです。もちろん乳母のデボラや侍女たちはついてゆくので、まったくの独りぼっちではないですが、考えれば不安になって当たり前の状況です。祖父の兄弟の家だと言っても、誰一人リベカの知る人はいないのです。それなのにリベカは躊躇することなく「はい、行きます」と答えたわけです。リベカにその決断をさせたものは何でしょうか。信仰以外考えられません。アブラハムのことも、イサクのことも、カナンの地のことも、ましてや主がアブラハムに約束したことも、何一つ知らないのです。それでも、「はい、行きます」と決断したのは、主がこのことを導いているという事が明らかだったからでしょう。しもべの詳しい説明をリベカも聞いたはずです。しもべが主に祈った通りのことを自分がしたこと。それによってしもべはイサクの妻となるべき女性はリベカだと確信したこと。そしてリベカはアブラハムの兄弟ナホルの直系の孫娘であったこと。非の打ち所がなくすべてを満たした主の導き。それを聞いたら、主が私に目を留め、私に呼びかけ、イサクの妻になるように導いておられるのは間違いないと確信できたからでしょう。リベカは信仰によって主に従うことを選び取ったのです。主のみこころが示されても、それに従うかどうかはその人の信仰にかかってきます。みこころに喜んで従う人がいます。従いはしますが、みこころを喜ばない人もいます。みこころだと分かっていても従えない人もいます。あえて反抗して従わない人もいます。信仰者でもいろいろあります。人によって違うだけでなく、一人の人でも、あることには喜んで従ったけれど、別のことでは反抗して拒否したなんてこともあります。信仰というのは一つの決まった形を持ったものではなく、生きものであって、その時その時でいろんな姿かたちを取るように思います。いつも喜んで従えるのがベストでしょうが、そうでない時でも信仰が無くなったわけではないように思います。そうでないと、私たちは信仰を持っているなんて言えなくなるのではないでしょうか。なぜなら私たちはいつも喜んで主に従っているわけではないからです。それはそれとして、この時のリベカの決断は信仰に基づいた凄い決断だったと思います。こうしてリベカはしもべとともにイサクのもとに行きました。イサクはベエル・シェバを中心にネゲブ地方の各地を巡りながら家畜の世話をしていたようです。家畜を追っての長旅の後、自分の家(建物ではなく天幕群と思われるが)に戻って来たイサクです。一つの仕事を責任を持ってやり遂げた充実感と、トラブルに巻き込まれることなく無事に帰って来ることができた安心感で、イサクの心は満たされていたのではないかと思われます。そんなイサクは夕暮れ近くに散歩に出かけました。「散歩に出かけた」は聖書でここだけに出てくる表現で意味がはっきりしません。新改訳はシリヤ語訳聖書にそって「散歩」と訳しています。それは65節で「野を歩いて」と表現されているイサクの姿とも一致します。一方、七十人訳やラテン語訳などでは「瞑想」と訳されています。「瞑想」を意味するヘブル語とここで使われるヘブル語が非常に似ているからです。イサクはボーっとしたくて野に行ったのではなく、独りで静かに今回の旅を振り返り、主の守りと祝福を感謝するために、野に行ったと考えるのが良いように思います。瞑想し祈りつつ野を歩いていたイサクがふと目をあげます。偶然ではなく、祈りの中に主が働かれたのではないかと思います。夕日を背になのか、夕日に照らされてなのか分かりませんが、ラクダの群れが近づいてきます。その群れの足が止まり、誰かが降りました。一方、リベカも前方に人影を認めました。それがイサクであろうと想像したようです。リベカはラクダから降りて、しもべにあの人は誰かと尋ねています。この「降り」は「落ちる」ということばで、夫となるイサクか早く確認したいというリベカの気持ちがよく現れていると思います。イサクは彼らの方に近づいて行きます。近づいてゆくと、父の信頼厚いしもべがいることに気づきます。そしてその傍らに若い女性とその侍女らしき女たちもいます。しかもその若い女性はベールを取って身をおおいました。結婚するまで妻となる女性は夫の前では顔をおおう習慣が当時はありました。リベカはそれをしたのです。自分の妻を迎えるためにしもべが遣わされたことをイサクが知っていたかどうかは分かりません。しかし、この時、イサクはそのことを喜ばしいものとして受け取ったのです。しもべは自分のしてきたことをイサクに話しました。「話した」とやくされることばは、普通は書き記すと訳すことばです。しもべはイサクの心に書き記すようにすべてを話したということです。使命を託された時の危惧から始まり、主が必ず成功させてくださると言い切ったアブラハムの信仰、ナホルの町で祈った祈りのことばに完璧に一致したリベカとの出会い、リベカがアブラハムの兄弟ナホルの孫娘であったこと、家族の躊躇にもかかわらずリベカはカナン行きを拒まずすぐに旅立って来たこと。それらはこの結婚が何よりも主によって定められ、導かれていることを明らかにしていること。また、リベカが主に誠実な信仰を持っており、イサクを主が備えてくれた夫として受け止めていること。それらはこれからのイサクと主、イサクとリベカとの関係に重要です。ただ妻を連れて来ただけでなく、この結婚の背後にある神のみこころ、アブラハムの信仰、リベカの愛と真実、これらを忘れないように心に書き記させたのです。イサクもそれを真摯に受け止め、リベカを妻として迎え、彼女を愛したのです。サラは基本的にはアブラハムに忠実に従いましたが、ハガルとイシュマエルのことでは受け止め方に違いがあり、それがもとで晩年は別居していたようです。ヤコブの場合はレアとラケルとは血のつながった姉妹でしたが、ヤコブの愛をめぐってかなりの葛藤がありました。そばめのジルパやビルハも含めその夫婦関係は常に緊張関係にありました。しかし、イサクとリベカ夫婦に関してはそういったトラブルが見当たりません。イサクもリベカもそれぞれに主に従うことを選び取った人だったからでしょう。主に導かれているとの確信を持った二人の組み合わせが、安定した夫婦を生み出し、互いの愛を強めていったのです。そして、そこからヤコブとエサウが生まれ、約束を引き継ぐ者が与えられ、アブラハムもすべてをイサクに託して安らぐことができたのです。リベカは主の約束を実現するためにイサクの妻として主が備えた女性だったと思われます。主はご自分の計画を実現するために、すべてを、人も、ものも、時も備えられるのです。私の人生にも、皆さんの人生にも、同じように備えがあるのです。そのことを信じ期待し歩んで行きましょう。...more29minPlay
May 10, 2020礼拝メッセージ 2020年5月10日「忠実なしもべ」創世記 24:34-52小倉泉師礼拝メッセージ 20200510.mp3約束というものは、それが自分にとって喜ばしいもの、楽しいもの、好ましいものであればあるほど、その実現が待ち遠しいものです。ちょうど誕生日やクリスマスのプレゼントを子どもたちが待ち遠しく待っているのと同じです。アブラハムが主から与えられた約束もそれは同じです。あなたに子孫を与え、その数を大いに増やそう。また、あなたの子孫にカナンの地を所有として与えよう。さらに、あなたとあなたの子孫によって世界中のすべての民族、つまり全人類が全能の神である主の祝福に与るようになる。それゆえあなたの名は大いなるものとなる。アブラハムに与えられた主の約束の内容です。考えてみればこの約束は凄い内容です。アブラハム自身が主から祝福されて、カナンの地を所有する偉大な民族、国家の父祖となるというだけでも確かに凄いことです。しかし、それだけではありません。約束の後半は、アブラハムは世界中の人の中から、全能の神である主が全人類を祝福するための原点、出発点として選ばれて任命されたことを意味しているからです。アブラハムは全能の神の祝福を全人類にもたらすために、主によって選ばれた唯一の存在であるということを意味しています。人類の半分に祝福をもたらすとか言うなら、残りの人類を祝福するための誰かがいることになります。アブラハムは唯一の存在ではなくなります。しかし、人類の中の特定の誰かではなく、全人類に祝福をもたらす原点、出発点ですから、アブラハムはいわば人類の頂点にある存在だということです。凄いことだと思いませんか。この約束を頂いたアブラハムは、その日から約束の実現する日を心こがれるように待ち望んだはずです。あの約束の最初のものは75歳の時に与えられました。その後、なんどか再確認や新たな内容が付け加えられたりして更新されてゆきます。しかし、その実現には長い時間がかかりました。主の約束の実現としての子どもの誕生はアブラハム100歳の時です。イサクがサラから生まれました。待ちに待ったイサクの誕生でした。イサクこそ主の計画の中に備えられたアブラハムの子でした。アブラハムにとってはようやく主の約束が実現したのです。最初の約束が与えられてから実に25年が経過していました。しかし、イサクが誕生したことによって主の約束が実現したのは事実ですが、それは主の約束の第一歩でしかありません。主の約束は「アブラハムに子孫を与え、それを増やし、カナンの地を所有させ、アブラハムと子孫によって全人類を祝福する」です。イサクの誕生は、この約束の最初の部分の実現でしかないのです。確かに約束の実現が動き出す、そういう意味では大きな一歩ではありますが、完成にはまだほど遠いのです。完成に向かって前進するためには、イサクが結婚し、子どもが生まれなければならないのです。そしてその子どもに主の約束が引き継がれていかねばならないのです。ですから、ただ子どもが生まれれば良いということではありません。そのことは約束の子どもではなかったイシュマエル誕生の出来事を通して嫌というほど思い知らされました。人の知恵に頼った結果、家庭内には余計な問題が生じてしまったのです。ですからイサクがアブラハムにとって主のみこころにそった約束の子どもであったように、イサクに生まれてくる子どもも主のみこころにそった子どもでなければならないのです。そうでなければこれまでのすべてが崩れ去ることになるからです。しかし、アブラハムの回りには偶像の神々を信じるカナン人しかいないのです。カナン人の娘をイサクの妻に迎えたら、生まれてくる子どもは確実に偶像の神々の影響を受けます。アブラハムもイサクも、主なる神だけを神として信じる者であり、それゆえに主から約束を与えられたのです。その主の約束は偶像の神々を信じる者には受け継ぐことが不可能です。いやそれどころか、へたをすればイサク自身も妻の影響で偶像の神々に引かれていってしまうかもしれません。ですからイサクの妻は偶像崇拝と無縁の主を信じる者でなければならないとアブラハムは考えたのです。そうするとカナンの地にはふさわしい娘はいません。ですから自分の親族、カルデア人のウルから主のことばに従って一緒に出て来た父の家族の者の中からイサクの妻を迎えようと考えたのです。イサクの結婚記事は24章全体に及びます。とても長いので全体像が分る程度に抜粋し、交読文と聖書朗読個所に分けてみました。ここで大きな役割を果たしたのが、アブラハムの全財産を管理している最年長のしもべです(24:2)。イサクが結婚したのは40歳の時ですから、アブラハムは140歳です。アブラハムの親族はパダン・アラムに住んでいます。ヘブロンからパダン・アラムまでは直線距離で700㎞ほどあります。日本に当てはめれば東京と山口県との距離になります。道のりでは1000㎞くらいと考えれば良いでしょうか。65年前にはパダン・アラムからカナンの地にやって来たアブラハムですが、さすがに140歳で逆コースをたどってパダン・アラムに旅するのは困難でしょう。本当なら自分の目で確かめて選びたかったでしょうが、無理だと考えて自分の代役を立てたということでしょう。このしもべはひょっとすると15:2に出て来るダマスコのエリエゼルかもしれません。子どものいなかったアブラハムが自分の跡取り、相続人を考えた時に、頭に浮かんだ第1の人物がこのエリエゼルでした。それだけエリエゼルはアブラハムに期待され信頼されていたことが分かります。跡取り候補ですからアブラハムよりも若く、当時は青年ないし壮年であったはずです。その出来事はイシュマエルが生まれる前ですからから50数年前になります。ここでは「最年長のしもべ」と言われていますが、年齢的にはエリエゼルであって少しもおかしくありません。もしそうだとするとエリエゼルはアブラハムが見込んだ通り、忠実、誠実なしもべであったことになります。「しもべ」ということばは現代人にはなかなか理解の難しいことばかもしれません。一般的には奴隷をイメージさせることばですが、使われ方によっては、たとえば「王のしもべ」などは大臣であったり、将軍であったりを意味することがあります。ですから「アブラハムの全財産を管理している最年長のしもべ」は家長であるアブラハムに代わって、アブラハム家のすべてを取り仕切る執事を指していると理解して良いでしょう。アブラハムを補佐し、内政の監督・運営と外部との交渉などを行うまさに№2の立場にある人でしょう。使用人というよりは同労者、戦友といった表現の方がふさわしい、アブラハムが信頼し、心許せる人物と思われます。アブラハムはイサクの結婚という重大な事柄を実現させるために、最も信頼のおける人物を遣わしたのです。アブラハムはしもべに対して語ります。「私はカナン人の間に住んではいるが、あなたは、その娘たちの中から、私の息子の妻を迎えてはならない。あなたは、私の国、私の親族のところに行って、私の息子イサクに妻を迎えなさい。」(24:3~4)しもべはアブラハムの意図を理解し、確認のために質問を返します。「もしかしたら、その娘さんが、私についてこの地に来ようとしないかもしれません。その場合、ご子息をあなたの出身地へ連れて戻らなければなりませんか。」(24:5)結婚するだけならこの質問は意味がありません。カナンの地がアブラハムやイサクにとって主から与えられた約束の地であることを理解していているからこその質問です。結婚を優先し約束の地から離れることは有りか、それとも約束の地に留まることを優先させるべきなのか、それを確認しているのです。アブラハムは答えます。「気をつけて、息子をそこへ連れて戻ることのないようにしなさい。 天の神、【主】は、私の父の家、私の親族の地から私を連れ出し、私に約束して、『あなたの子孫にこの地を与える』と誓われた。その方が、あなたの前に御使いを遣わされるのだ。あなたは、そこから私の息子に妻を迎えなさい。もし、その娘があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの、私との誓いから解かれる。ただ、私の息子をそこに連れて戻ることだけはしてはならない。」(24:6~8)カナンの地から離れることがあってはならないとアブラハムは厳重に注意します。アブラハムに与えられた主の約束は、その出発点において「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」(創世記12:1)が条件でした。イサクが妻をめとるため親族の地に戻ってしまったなら、主の約束の前提条件が覆ってしまいます。また、その主の約束は「あなたの子孫にこの地を与える」でした(12:7)。この地とはカナンの地であって、親族の住んでいるパダン・アラムの地ではありません。イサクは主の約束(あなたの子孫にこの地を与える)によって生まれ、その約束が確かであることを証明する存在です。ですからイサクとカナンの地を切り離すことはできません。イサクはあくまでカナンの地にとどまらねばならないのです。アブラハムは、約束を与えた主はその約束が実現するために、イサクにふさわしい妻を備えてくださること、しもべのために御使いを遣わして導いてくださると確信していました。主が備えた娘ならカナンの地へ必ず来るはずだと確信していたのでしょう。ですからもし娘が来ようとしないなら、それは主の備えた娘ではなく、しもべは「私との誓い」に縛られる必要はないと言ったのです。しもべはアブラハムの意図を確認し、自分の手をアブラハムのももの下に入れて、イサクの妻にふさわしい娘を探し、連れて来ることを誓うのです(24:9)。この行為は不思議な行為です。しかし、「天の神、地の神である主にかけて誓わせる」という表現(24:3)と結び合わせていますから、非常に厳粛な誓いであると思われます。臨終を前にしたヤコブがヨセフに対して同じことをさせていることからもわかります(47:29)。「もも」とはももから腰にかけての体の部位を指すことばであり、生殖器をも意味します。相手の同意なしに生殖器に手を伸ばせば、それは最低最悪の行為として呪いを招きます。場合によっては容赦なく手を切り落とされる罪です(申命記25:12)。ですからこの行為は、互いの間の深い人格的信頼関係を前提とした誓いであることを示していると考えられます。そうしてしもべはパダン・アラムへ出かけてゆきます。そこでリベカと出会い、リベカこそ主の備えた娘であると確信し、リベカの父ベトエル、兄ラバンに対してイサクの妻としてリベカを迎えたいと話を始めたのが24:34~52です。しもべは自分の立場・身分を明らかにします。その次にどのような目的、どのような経緯でここまで来たかを説明しています(24:34~41)。まずアブラハムのしもべであることを明かします(24:34)。アブラハムはリベカの祖父ナホルの兄弟であり、祖母ミルカの伯父に当たります。とても近い親族であるアブラハムのしもべであることを示し、リベカたちを安心させます。それからアブラハムが主によって大いに繁栄していること「【主】は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります(24:35)。」晩年にイサクが生まれ、そのイサクが財産すべてを相続することを伝えます。「私の主人の妻サラは、年をとってから主人に男の子を産み、主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます(24:35~36)。」そして、そのイサクの妻にふさわしい娘を親族の中から迎えるために自分が遣わされたことを伝えます。「あなたは、私の父の家、私の親族のところへ行って、私の息子に妻を迎えなさい(24:38)。」娘がカナンへの嫁入りを拒否するかもしれないという危惧をアブラハムに率直に打ち明けた時、アブラハムが語った彼自身の中にある確信。「【主】が御使いをあなたと一緒に遣わし、あなたの旅を成功させてくださる(24:40)。」もし親族が拒否する時は誓いから解かれる。「もし彼らがあなたに娘を与えないなら、そのとき、あなたは私との誓いから解かれる(24:41)。」次にどのようにしてリベカこそイサクの妻として主の備えた娘であると確信したかを説明します(24:42~48)。確信の中心にあるのは主の導きです。しもべは町に着き、泉のほとりで「主よ。私がここまで来た旅を、もしあなたが成功させてくださるのなら」(24:42)次のようにしてくださいと祈りました。すなわち、水汲みに来た娘に水を飲ませてくださいと話しかけ、彼女が飲ませてくれるだけでなく、ラクダのためにも水を汲んであげましょうと言ったなら、「その娘さんこそ、主が私の主人の息子のために定められた方です」(24:44)という祈りでした。その祈りが終わらないうちにリベカが水汲みに来、祈った通りの事が起きました。そしてなんとリベカは「ミルカがナホルに産んだ子ベトエルの娘」(24:47)でした。それで「主は私の主人の親族の娘さんを主人の息子に迎えるために、私を確かな道に導いてくださった」(24:48)としもべは「主を礼拝し、…主をほめたたえ」たという内容です。しもべの説明は、リベカとの出会いが主に祈った祈り(しもべだけでなくラクダにも水を飲ませてくれる娘こそイサクの妻)の答えであったこと、それだけでなくアブラハムが命じた条件にぴったりの娘(アブラハムの兄弟の血をひく娘)であったということです。この出来事すべてを主が導いておられることを再確認しています。その上でいよいよベトエルとラバンにリベカとイサクの結婚を承諾するかどうかと問いかけるのです。「それで今、あなたがたが私の主人に恵みとまことを施してくださるのなら、私にそう言ってください。もしそうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになります。」(24:49)ここまで主が導いて恵みとまことを施してくださったのだから、あなたがたもアブラハムに対して恵みとまことを施してほしいと問いかけています。それに対してベトエルとラバンも「主からこのことが出たのですから、私たちはあなたに良し悪しを言うことはできません」(24:50)と答え、さらに「主が言われたとおりに、あなたのご主人の息子さんの妻となりますように」(24:51)とリベカの嫁入りを、主が定められたことと理解し了承しました。「しもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した」(24:52)と記されています。この出来事の中で興味深いのは、しもべの主への姿勢です。泉のそばに着いて祈った時、彼は立っていました(24:43)。イサクの妻にふさわしい娘として主に備えられたリベカの素性がわかった時、彼はひざまずき主を礼拝しました(24:48)。そしてベトエルとラバンがイサクとリベカの結婚を承諾した時、しもべは地にひれ伏して主を礼拝したのです(24:52)。つまり交渉している時は立っていたということです。アブラハムはベトエルの伯父です。その名代ですから、立場上はベトエルより上になります。しかし、ベトエルに対して起立してへりくだって交渉していたのです。主の明確な導きをベトエルとラバンが認め、結婚が承諾された時、主の恵みとまことの豊かさに圧倒されて地にひれ伏して主を礼拝したのです。主に対する祈りが詰まれ、それに主の応答がなされてゆく中で、しもべの主に対する信仰は強められて行ったことがわかります。主人アブラハムの思いをしっかり受け止め、アブラハムと同じ主への信仰を持って事に当たるしもべだからこそ、主の約束の実現を前進させるこの大切な役割を果たすことができたのです。またそうだからこそ、アブラハムも自分の名代として全幅の信頼を置いて遣わすことができたのです。しもべは若い時からアブラハムのそばにいて、アブラハムのすること語ることをいつも見ていたのでしょう。そうしてだんだんアブラハムの考え方や行動の仕方を理解して行ったのでしょう。そしてやがてアブラハムが何を願っているか、何をしようとしているか、そういうことも予想できるようになっていったのでしょう。ツーカーというか阿吽の呼吸でアブラハムの期待に応えられるしもべになって行ったのでしょう。良い忠実なしもべは主人の喜びを共に喜ぶ特権にあずかれます。私たちも主に対して忠実なしもべでありたいと思います。そのためにはアブラハムとしもべの関係のように、いつも主の近くにいることが大切です。聖書を読んで、祈りの中でその意味を問いかけ、主のみこころは何かを考えてゆくことです。その積み重ねによって、しもべがアブラハムの考えを理解できたように、私たちも主に近づけられて行きます。そのようにして主人の役に立つしもべになって、主人とともに喜びを共有できたらなんと幸いでしょうか。...more36minPlay
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