Sign up to save your podcastsEmail addressPasswordRegisterOrContinue with GoogleAlready have an account? Log in here.
栃木県下野市の自治医大前キリスト教会では、毎週日曜日午前10時半から礼拝を行っています。みことばに耳を傾け、目の前に与えられている恵みの一つ一つに感謝して日々を過ごすことができますように。... more
FAQs about 自治医大前キリスト教会:How many episodes does 自治医大前キリスト教会 have?The podcast currently has 282 episodes available.
May 03, 2020礼拝メッセージ 2020/05/03「夫婦の思いと約束の地」創世記 23:1-20小倉泉師礼拝メッセージ20200503.mp3聖書を読んでいると時々、聖書って面白い書き方をするなと思う個所に出会います。ある出来事をサラっとしか触れないところがあるかと思うと、何でここまで面倒くさく書くのかとか、こんなに同じこと繰り返さなくても良いのではないかと感じる書き方をしているところもあります。今朝開いている創世記23章はそういう面白い個所の一つだと思います。1~2節にはサラの死が書かれていますが、簡潔にサラっとその死の事実が述べられているだけです。しかし、3~20節は、アブラハムがサラを葬る墓地を手に入れるため、ヒッタイト人と芝居がかった交渉をしている様子が書かれています。私たちの感覚からすれば滑稽に見えるやり取りではないかと思います。そしてこんなに詳しく実況中継するかのように交渉内容を書かなくても良いのではと思うのです。私なら「アブラハムはサラを葬るための墓地を求めて、ヒッタイト人エフロンと交渉し、銀400シェケルでマムレに面するマクペラの畑地の洞穴を手に入れ、そこにサラを葬った。この土地は私有の墓地としてアブラハムの所有となった」くらいにまとめた方が、1~2節の表現と釣り合いが取れるように思うのです。3~20節で18節にもわたって書かれていますが、これくらいに要約しても意味内容では問題ないはずです。しかし、実際には18節にわたる文章で、交渉内容から、やりとりの際のしぐさやことばの一つ一つまで克明に記されているのです。この対比がなかなか面白いと思うのです。サラは創世記11章の終わりでアブラハムと一緒に登場します。その時はアブラムとサライという名前でした。二人一緒に主のことばに従ってカナンの地目ざして旅を続けています。それ以後20章まではアブラハムの妻として傍らにいつもいる感じで頻繁に登場します。18章では主ご自身が直接サラに話しかけ、1年後には子どもが産まれていると約束もされています。約束の子イサクを産む母親ですから、当然ですがサラは聖書の中で重要な人物であるわけです。しかし、21章の前半でハガルとイシュマエルを追い出した事件に登場した後、サラは聖書から消えてしまいます。22章のあの重大なイサクを全焼のいけにえとして献げるという出来事にも一切関わっていません。サラは90歳でイサクを産んだと考えられます。21章の出来事はイサクの乳離れの祝い宴の席で起こりましたから、サラはその時92~93歳でしょう。ここまではサラの歩みは確認することができます。しかし、それ以降30数年にわたってその動向は聖書に記録されていません。そして、唐突な感じで、サラは127歳で死んだという記事がここに出て来るのです。この30数年にわたる聖書の沈黙は何を意味しているのでしょう。情報がない分、逆に想像をかき立てられます。サラが死んだ場所はヘブロンでした。「サラはカナンの地、キルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ」(2節)とあります。キリヤテ・アルバはアブラハムの時代の名前でしょう。当時はイスラエルの領土ではなく、ヒッタイト人の町でしたから、そう呼ばれていたと思われます。創世記が記されたモーセの時代にはヘブロンと呼ばれていたと思われます。サラが死んだ時、アブラハムはヘブロンにはいませんでした。「アブラハムは来て」と書かれているからです。単にいなかったというよりは、住んでいなかったという方がより正確と思われます。なぜならモリヤの山からアブラハムとイサクが帰って行った先はヘブロンではなく、もっと南のベエル・シェバだったからです。「アブラハムは若い者たちのところに戻った。彼らは立って、一緒にベエル・シェバに行った。こうしてアブラハムはベエル・シェバに住んだ。」(22:19)22章のイサクはおそらく15~18歳くらいと考えるのが妥当だろうと思いますので、サラは100歳代の後半と思われます。死ぬ20年くらい前から、サラはヘブロンに住み、アブラハムとイサクはベエル・シェバに住む形で別居していたと考えられます。さらに22章の出来事の前、21章ではアブラハムはペリシテ人の地に長く住んだと言われています。「アブラハムは長い間、ペリシテ人の地に寄留した。」(21:34)そして、ペリシテ人の領主であったゲラルの王アビメレクとベエル・シェバで契約を結んでいます。この契約によってベエル・シェバの井戸がアブラハムのものになっていますから、アブラハムが寄留したのはベエル・シェバと考えられます。そうするともっと前からアブラハムはベエル・シェバに住んでいたことになります。アブラハムがヘブロンに住んでいたことがはっきり分かる最後の記述は18章の記事です。「【主】は、マムレの樫の木のところでアブラハムに現れた。彼は。日の暑いころ、天幕の入り口に座っていた。」(18:1)この18章でソドムとゴモラに対する嘆願がなされます。それが終わった時「アブラハムも自分の家へ帰って行った」(18:33)とありますから、この時、アブラハムがヘブロンに住んでいたのは間違いありません。この直後、ソドムとゴモラは主によって滅ぼされてしまいます。それを見届けた後、ヘブロンを引き払いネゲブ方面に移動したことがわかります。「アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ」(20:1)と書かれています。この時にはサラも一緒でした。「ゲラルに寄留していたとき、アブラハムは、自分の妻サラのことを『これは私の妹です』と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人を遣わしてサラを召し入れた」と続けて書かれています(20:1~2)。サラがアビメレクの許から解放された後、彼らがベエル・シェバに住んだのか、ヘブロンに戻ったのかは定かではありません。イサクが生まれたのもどちらなのかわかりませんが、アビメレクとの関係を考えると、ヘブロンの方が昔からの盟約を結んだ人々もいて安心できたのではないかと思われます。明確ではありませんがいったんヘブロンに戻り、そこでイサクは生まれたのではないかと私は考えています。21章のハガルとイシュマエルの追い出し事件の後、アブラハムとサラとの間に微妙な空気が流れ始めたのかもしれません。あの事件でアブラハムが苦しんだのは確かです。イシュマエルはアブラハムの実の子であり、それも最初の子です。正妻サラの子ではありませんが、紛れもなくアブラハムにとって長子です。イサクの誕生が約束されるまでの13年間、イシュマエルはアブラハムにとって唯一の自分の血を引く息子だったのです。アブラハムがどれほどの愛情を注ぎ大切にしていたかは容易に想像できます。また、サラにしても、自分の産んだ子ではありませんが、当時の慣習に従い自分の発案で手に入れた、その意味では正当な息子であって、やはり大切にしていたのは間違いないでしょう。しかし、イサクの誕生によって、大きな変化が生じました。サラにとってイサクこそが全てであって、イシュマエルはもうどうでもよい存在になってしまいました。いやむしろ邪魔な存在になってしまいました。イシュマエルはアブラハムの後継者ではなく、真の後継者であるイサクの陰でイサクを支えることに徹するなら存在する価値はあっても、イサクと張り合うなら排除しなければならない存在だったのです。追い出し事件はサラのこのような思いが明白に示された事件だったように思います。イシュマエルがイサクをからかったのは咎められなければなりませんが、同じようにサラのイシュマエルとハガルに対する徹底的な排斥も非難されるべきではないかと思います。なぜなら、イシュマエル誕生はサラ自身が発案してアブラハムに強要したことだからです。神の約束を待ちきれず、自分の考えで事を行った結果がイシュマエルの誕生でした。最も重い責任はサラにあるのです。にもかかわらずサラはその責任を投げ捨ててイシュマエルとハガル、そしてアブラハムに負わせることになるのです。どう考えてもこの時のサラは身勝手でしょう。一方アブラハムにとってイシュマエルは実の子です。神の計画外ではあっても紛れもなく自分の血を引く子です。そのイシュマエルを捨て去ることはアブラハムにとっては身を切られるように辛いことだったはずです。神が介入して止めてくれないだろうかとアブラハムは期待したかもしれません。しかし、神は冷厳にイサクこそ約束の子であって、イシュマエルは関係ないからサラの言うとおりにせよと命じます。神に言われたら、アブラハムに選択の余地はなく従うしかありませんでした。このイシュマエルの処遇をめぐって、アブラハムとサラとの間にわだかまりが生まれたのかもしれません。この事件の後、直後ではないと思いますが、アブラハムはペリシテ人の地に長く寄留するようになるからです(21:22以下参照)。そして、そのうちにイサクもアブラハムと一緒にベエル・シェバに住むようになります。それはモリヤの山でイサクを献げよとの命令を受け、アブラハムが従った時、出発してから三日目にモリヤの山が見たと書かれています。「三日目に、アブラハムが目を上げてみると、遠くの方にその場所が見えた。」(22:4)ヘブロンからモリヤの山までは直線距離で30㎞ほどしかありません。朝早く出かけたら1日で着いてしまいます。しかし、ベエル・シェバからだと直線距離は70㎞ほど、3日の旅がぴったり当てはまります。サラは20年くらいヘブロンで一人暮らしていたと考えられるのです。もちろんはしためやしもべたちは大勢いたでしょうが、肝心のアブラハムもイサクもいない状況で暮らしていたと思われるのです。時々アブラハムたちは帰って来てはいたでしょうが、そこに住むということは無かったように見えるのです。その原因はサラのイサクに対する溺愛ともいうべき思いの強さ、それの裏返しであるイシュマエルに対する憎しみ、敵意の強さを、アブラハムが感じていたからではないかと思うのです。イサクと深く結びついたサラの思いは、場合によっては神のみわざをも打ち壊しかねないと心配したのかもしれません。それはまた、イサクの神に対する信仰の在り方にも影を落とすと判断したかもしれません。事実、モリヤの山の件がサラのいるところで告げられたとしたら、果たしてアブラハムはモリヤの山に行くことができたかどうか、かなりあやしくなるのではないでしょうか。イサクをささげようとするアブラハムをサラが黙って許すとは思えません。イシュマエル追い出し事件の時以上に、サラが半狂乱になってアブラハムを阻止しようとするのが容易に想像できます。ですからアブラハムはサラには一切関わらせることなく、イサクを連れてモリヤの山へ行ったと思われるのです。イサクを産む以前のサラは、イシュマエル誕生の問題はあったものの、アブラハムを夫また家長として敬い、そのことばに従順に従う妻でした。理不尽と思えるアブラハムのことばにも従順に従ってきました。そのために危機的な状況に置かれることも経験してきました。それでもアブラハムに従い、新約聖書では妻の鏡として称賛される人でした。交読文で読んだⅠペテロ3:5~6に登場しています。「かつて、神に望みを置いた敬虔な女の人たちも、そのように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえば、サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です。」妻たちに対してサラのようになれとペテロは語っているのです。一方、サラが従順な妻であった頃のアブラハムは、良い時と悪い時がはっきりしている、信仰的には不安定さの残る人物でした。ですからサラの存在は大きな助けであったと思います。イサクの誕生が具体的に示されるようになって来た頃から、アブラハムの信仰は成熟し安定してゆきます。アビメレクとの関係で大失敗もあるのですが、イサクの誕生後はぶれることがなくなります。そしてその頂点は22章、モリヤの山での出来事につながります。イサクの誕生によって、神の約束の確かさを体験し、神への信頼が強まったということでしょう。しかし、サラはイサクの誕生の結果、イサクに対する思い、愛情が最優先になってしまったように思えます。イサクを溺愛するあまり、イシュマエルはもとより、アブラハムも、さらには神も二の次、三の次になってしまったように感じます。サラが21章以降聖書から消えてしまった背景には、こういうことがあったのではないかと思うのです。それは同時にアブラハムとサラとの関係にも影響を及ぼしたに違いありません。夫婦ではありますが、それぞれの思いの向かうところがずれて距離が広がって行って、サラはヘブロンに住み、アブラハムはベエル・シェバに住むということになったように思うのです。しかし、サラが死んだという知らせを受けた時、アブラハムはヘブロンに行って、その死を悼み悲しみ、涙を流しました。この涙の意味を考えさせられます。イサク誕生後の夫婦関係は万全、健全ではなかったかもしれませんが、周囲の手前、儀礼的な涙を流したわけではないと思うのです。それはサラを葬るために私有の墓地を手に入れようと、アブラハムがヒッタイト人たちと一生懸命交渉しているからです。アブラハムはここでヒッタイト人たちが言っているように、寄留者ではありますが、彼らから一目置かれる実力者です。それはアブラハムが創世記14章に書かれている戦争の英雄であることや、主の祝福と守りを受けて繁栄している族長であることに基づいているでしょう。ヒッタイト人たちは自分たちの持っている墓地の最上のものに葬ることを許可します。一見、好意的な話に見えますが、実際は違います。丁寧な言い方ではありますが、自分たちの土地をお前に売る気はない、お前に私有の土地を所有させることはお断りだと言っているのです。異分子が自分たちの中にしっかりとした地歩を築くことに対する警戒心が露に出ているのです。アブラハムはそんな彼らを相手に忍耐強く交渉します。共同体を相手にした交渉は難しいと判断し、交渉相手を個人に替えます。ツォハルの子エフロンに話を持ってゆきます。個人間の売買交渉なら、共同体は責任がない分、干渉もしにくくなります。エフロンも最初は共同体と同じように答えます。しかし、注意して見るとしたたかな売り込みをしていることがわかります。アブラハムは墓地にするマクペラの洞穴を譲ってくれと言っているのですが、エフロンは畑地を譲ると言い、それにマクペラの洞穴も付けるという言い方です。譲りますから自由に使ってくださいという言い方ですが、これは当時の売買交渉の定番のやり取りらしく、「譲る」を鵜呑みにしてタダでもらえると思ったら大間違いなのです。タダでなんかとんでもない、代金を取ってくださいと答えないと話にならないのです。ですからアブラハムも代金を受け取ってくださいと申し出るわけです。エフロンはそうまで言うなら値を付けましょうという形で代金を提示するわけです。エフロンが提示した額は銀400シェケル(4560g)でした。畑地の広さがわかりませんから何とも言えないのですが、当時の記録の中に、村一つが銀100シェケルで売られたというのが残っているので、銀400シェケルはかなり吹っ掛けられた額と言えるでしょう。アブラハムなら払えない金額ではないので、アブラハムは即座に同意して支払います。そして手に入れたマクペラの洞穴にサラを葬りました。色々あったけれども、特に晩年には隙間風が吹くこともあったけれど、127年の生涯の中でサラはアブラハムに従い支えて来た妻でした。主の約束を待ってともに忍耐を経験してきた戦友でした。サラの死に臨んでアブラハムの心に、サラと過ごした日々が走馬灯のように思い返されたのでしょう。約束の地を目指して歩んできて、その約束の地で死んだ妻を、約束の地にある自分の所有地に葬ることこそ、亡き妻への最後の責任であり、妻への感謝を表すこととアブラハムは考えたのだと思います。ですからアブラハムはサラを葬る墓地の所有にこだわったのです。忍耐強く交渉し、法外な値段にも嫌な顔をせず即金で支払ったのです。そして、このマクペラの洞穴こそ、神が約束されたカナンの地をあなたとあなたの子孫に与えるということの実現の第一歩だったのです。その約束の地にアブラハムによって最初にサラが葬られたのです。やがてここにアブラハム自身も葬られ、サラと一緒に眠ることになります。そして、イサク、リベカ、レア、ヤコブも葬られます。つまり神の契約を受け継ぐ三代の族長とその正妻が皆ここに葬られことになるのです。三代の族長夫婦で問題のなかった夫婦はありません。皆、相当に面倒な問題を抱えていました。生きている時には互いにぶつかり傷つけ合うこともありました。でも最後の時には互いの思いを全部まとめて受け止めて、夫として、妻として同じ墓に葬られたのです。彼らの葬られた墓は単なる墓ではなく神の約束の確かさを示す地なのです。いろいろあったけれど、いろいろあるけれど、これが神の導く夫婦なんだなと思わされます。振り返って我が家はどうだろうかと考えさせられます。今はまだちぐはぐかもしれないけれど、最後には互いの思いを受け止め、約束の地へ一緒に入って行く者となりたいと思います。...more34minPlay
April 26, 2020礼拝メッセージ 2020/04/26「行動と思い」創世記 22:15-24小倉泉師礼拝メッセージ20200426.mp3創世記22:15~24「行動と思い」今朝の聖書テキストは一応、創世記22:15~24となっていますが、目を留めたいのは前半の15~19節になります。20~24節はアブラハムの兄弟の家系に関する記述で、イサクの妻リベカの背景を説明しています。そういう意味では24章のイサクの嫁取り物語の伏線のようなものです。ですから先に少しだけ触れておきたいと思います。「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルに子を産みました」とあって、ナホルの妻はミルカであることがわかります。このミルカは創世記11:29によってハランの娘であることがわかります。ハランはアブラハムやナホルの兄弟です。ハランはカナンへの旅に出る前にカルデア人のウルで死んでいますから、おそらく一番上の兄と思われます。つまりナホルは姪に当たるミルカと結婚したことになります。ついでながらこのミルカはロトの姉妹になります。ここで思い出していただきたいのが、アブラハムとサラのケースです。創世記20:12、アビメレクに弁明する中で、アブラハムは次のように言っています。「本当に、あれは私の妹、私の父の娘です。でも、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。」アブラハムとサラとは異母兄妹であったということです。この事実からわかることは、アブラハムの一族は同族内で結婚を行っていたということです。全部が全部そうだったかは分かりませんが、少なくとも同じ血筋の中から結婚相手を選ぶという傾向を持っていたのは間違いないでしょう。だからこそイサクの妻をめとるのに、わざわざアラム・ナハライムのナホルの町までしもべを遣わしたということでしょう。おそらくそこには主なる神に対する思いを共有するという信仰上の理由があったと思われます。さて、今日の本題に入りましょう。15~19節です。アブラハムが藪に角をひっかけていた雄山羊をいけにえに献げたあとで、再び主の使いが声をかけました。前回はイサクをまさに屠ろうとして、刃物を振り上げたアブラハムに対して「手を下してはならない」と声をかけました。この時は主の使いとして語っていました。それは「今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった」(22:12)と語り「あなたがわたしを恐れている」とは語らず、語っている「わたし」とアブラハムが恐れている「神」とを区別して語っているからです。しかし、今回は主の使いではあるのですが、主ご自身のことばを伝えるメッセンジャーとして語っています。「わたしは自分にかけて誓う──【主】のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」(22:16~18)「わたしは…誓う」「わたしは…祝福し…大いに増やす」アブラハムが受ける祝福の主語が「わたし」となっています。また、祝福の理由として「わたしの声に聞き従ったから」と言っています。アブラハムを祝福できるのは神ご自身だけですから、この「わたし」は主の使いを指しているのではなく、神ご自身を指しているのは明らかです。そして何よりも「【主】のことば」という表現が、神ご自身のことばを語っていることを示しています。この表現は預言書ではいたる所で目にする表現ですし、預言書でなくても、預言者が王や人々に神のことばを語る時に用いる定番の言い方です。それが用いられる時は厳粛な神の宣言、宣告を伝える時です。ですからここでアブラハムに語られていることは、非常に重要な事柄であるわけです。ちなみにこのような表現が旧約聖書に最初に登場するのがこの個所です。この表現の栄えある第1号が用いられたのがアブラハムなのです。さすがというべきでしょうか。ここで語られている神の祝福の宣言の内容は、これまでにアブラハムに語られたことと大きな違いはありません。アブラハムを祝福する。子孫の数を増やす。子孫によって地のすべての国は祝福を受ける。これらは繰り返し約束されて来たことでした。目新しいこととして言われているのは、アブラハムの子孫は敵の門を勝ち取るということです。「敵の門」を文字通りに理解するなら、神の民に敵対するカナン人の城壁のある町々の門となり、それを勝ち取るとは彼らを征服するということです。そうであるなら、カナンの地をあなたとあなたの子孫に与えると言われた約束の言い換えと理解することができるでしょう。しかし、そうだとすると、22章のあまりにも重い出来事の結果としては物足りない感じがします。神が全焼のいけにえとして献げよと命じたイサクは、神が約束したアブラハムへの祝福を実現する鍵の存在、キーマンでした。21:12には「イサクにあって、あなたの子孫が起こされるからだ」と明言されています。そのイサクを献げるということは、神の約束の実現を放棄すること、破壊することに直結します。アブラハムにとっては信じられないことであり、それこそカルデヤ人のウルを旅立ってからの人生をすべて否定するようなことでした。しかし、アブラハムは夜を徹して神と、また、自分自身と格闘し、神に従うことを選び取る決断をしたのです。アブラハムの信仰が最も輝きを増した出来事、それが22章の出来事でしょう。そのことは神ご自身も認めておられることです。だからこそ、「【主】のことば」という表現が使われ、アブラハムの取った行動を理由として祝福の約束が与えられたのです。しかし、そうだとすると、目新しいことが何もない祝福では割に合わない感じがしてきます。皆さんはそう感じませんか。さらに「【主】のことば」という重大発表、重大宣言をする時の表現が使われているのに、これまで約束されて来たことの二番煎じでは、どうしても肩透かしされた感じでモヤモヤします。そんな風には感じませんか。このモヤモヤ感はどうにかならないものかと考えた時、創世記3:14~15が浮かんできました。「神である【主】は蛇に言われた。「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」女の子孫は蛇の頭を打つ。これは原福音と呼ばれ、救い主預言の最初のものです。アブラハムは女の子孫ですからアブラハムの子孫も女の子孫です。アブラハムの子孫は敵の門を勝ち取る。敵を征服する。女の子孫は蛇=サタンを打ち砕く。両方を重ね合わせることで、アブラハムの子孫の中からやがて救い主が現れ、すべての人を死の恐怖の中に捕らえ支配していたサタンを打ち破る、ということを宣言していると理解できるのではないでしょうか。そのように理解すると、続く創世記22:18の「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」の意味がより明確になるのではないでしょうか。そして「【主】のことば」として宣言される最初のものとして、これならその内容に不足はないと納得がゆくのではないでしょうか。アブラハムが神の声に聞き従って行った行動、すなわち約束の子イサクを全焼のいけにえとして献げるという行動の結果、これまでに与えられていた神の約束が再確認されただけでなく、サタンを打ち破る救い主によって地上のすべての国々が祝福されるという約束が宣言されました。救い主のサタンに対する勝利ととらわれていた人々の解放という祝福の宣言ですから、めでたし、めでたし、です。この神の祝福をもたらしたのは、アブラハムが神の声に聞き従って、イサクを惜しまなかった=いけにえとして献げたからです。確かに本当に殺しはしませんでしたが、御使いの呼びかけがあと0.何秒か遅かったなら、イサクは実際に殺されていたでしょう。このことはアブラハムの心の中では、すでにイサクはいけにえとして神に献げられていたことを意味します。そう考えるとアブラハムの信仰は本当に凄いなと思うのです。これほどの信仰だから、神の祝福を受けるのも、神の友と呼ばれるのもしごく当たり前だよなと納得がゆくのです。しかし、この神とアブラハムとの関係を自分自身に当てはめてみると、凄いよな、そうだよな、などと言っていられないのです。なぜなら、自分はアブラハムのようにはとてもできないと感じるからです。感じるどころか、できないと確信するからです。そうすると私に対する神の祝福は大して期待できないよな、期待するのは虫が良すぎるよな、と暗い感じで俯くことになりませんか。やった分だけ見返りがある。Give and take これが私たちの社会の原則です。アブラハムと神との関係も、ここに記されていることばだけ見ると「やった分だけ見返りがあった」に見えてきます。「あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので」「あなたが、わたしの声に聞き従ったから」「わたしは自分にかけて誓う。」「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」どうですか。アブラハムがやったから神の祝福を得た、というかたちになるでしょう。神の祝福は欲しいけど、できない私が得られるのは大したことないよな、と思ってしまうのではないでしょうか。しかし、ちょっと待ってください。聖書は、特に新約聖書は、行いによって神の前に義と認められるとする行為義認を否定していたはずです。ユダヤ教的律法主義をパウロは徹底的に退け、信仰によって義と認められること=信仰義認の教理をキリスト教信仰の柱として打ち立てました。その考えのもとはイエス自身のパリサイ人や律法学者たちへの非難の中にすでにあったものです。イエスは律法を表面的に解釈し、字面に合っていれば良しとする彼らの生き方、あり方を非難していました。律法のことばの背後にある神の意図を受け止めること、そして神と人とに対する愛を原動力として生きることを求めました。ですから、創世記のこの記事も、アブラハムが神の声に聞き従って行動したから、神の特別凄い祝福にあずかったと単純に理解すべきではないと思うのです。そのように理解するなら、それは誤解、曲解であるかもしれないからです。信仰と行動の関係についてはヤコブの手紙が詳しく扱っています。交読文で読んだところです。ヤコブの手紙2章も単純に読むと誤解されやすい個所です。救いのためには行いが無ければならないと主張していると理解し、パウロの信仰義認と対立しており、聖書には矛盾があるという人もいるくらいです。確かに24節のことばだけを見るとそうも思えます。「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。」そこでは、行いによって義と認められる、とはっきり言っているからです。しかし、前後を含めて全体を見てみると、パウロと矛盾することを言っているわけではないことがわかります。まず、パウロは信仰さえあれば行いはどうでもいいなどとは決して言っていません。パウロの信仰義認は、救いの条件としてキリストの十字架のみわざを信じる信仰が不可欠だと言っているだけです。行いに関しては救いの条件にはなり得ないと言っているだけであって、善い行いに関しては勧めこそすれ、しなくて良い、する必要はないなどとは一切語っていません。パウロは信仰生活における行いを決して無視したり否定したりはしていないのです。ですから、ヤコブとパウロは対立、矛盾するというのは間違っています。ヤコブは2:21で「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められた」と言います。行為義認を主張しているとも見えますが、22節で「信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました」と続けます。アブラハムの行動の原動力は信仰であると言っています。神への信仰がアブラハムにイサクを献げるというあの行動を起こさせたと言うのです。その上で結論として「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです」(2:26)と信仰と行いとは不可分のもの、表裏一体、両方あって完成するものと言っているのです。神への信仰が無ければ正しくふさわしい行いはできないし、表面的には正しい行いであっても、神への信仰がなければ、その行いは神にとっては偽善でしかないのです。アブラハムのように神に対する明確な信仰がいつでもあれば、私たちの行動も立派なものになるのだろうと思います。しかし、いかんせん、私の信仰は見劣りしてしまいます。しばしば揺らぎますし、時には全く不信仰と言って良いほどの体たらくに陥ることもあります。神に喜ばれ、神を満足させる行動が全然できないかもしれません。ダメだなあとつくづく思ってしまうかもしれません。しかし、それでもです。信仰があると言うにはおこがましいと感じるようなものであっても、ささやかでも神への思いを持っているなら、私たちの行動にそれは反映されるのです。思いは私たちを行動へと押し出すのです。アブラハムの行動とは次元が違うでしょう。他のクリスチャンと比べても差は歴然とあるかもしれません。それでも私の神への思いは私の行動を促すのです。それを見逃すことなく神は受け止めてくださるのです。しかも、私の神への思いを生かすために、神は私にふさわしい良いわざをも備えていてくださるのです。小さな信仰かもしれません。信仰とも呼べないもの、漠然とした神への思いでしかないかもしれません。でも、それがあるなら、それは行動に反映され、行動を後押しするのです。神がその行動も備えてくださるからです。そして小さな一歩を積み重ねて行くことで、思いが信仰へ、行動も大きな良きわざへと変化してゆくのです。思えばアブラハムだって最初から立派だったわけではありません。30年、40年かけてああなったのです。自分の内にある神への思いを大切に、一歩一歩進んで行きましょう。...more34minPlay
April 19, 2020礼拝メッセージ 2020/04/19「私たちはひとりではない」イザヤ 41:8-16小倉泉師礼拝メッセージ20200419.mp3「人の主な目的は何か。」答え:「人の主な目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと。」ウエストミンスター小教理問答の第1問とその答えです。この質問は人全体を対象としていますから、人であるなら神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶのが当然ということになります。そうであるなら、主なる神を信じるクリスチャンは、なおのこと神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶべき者です。そして、「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと」を具体的に形にしているのが、ともに集まって神を礼拝するということだろうと思います。それが唯一のこととは思いませんが、中心にあるものの一つであることは間違いないでしょう。ペンテコステの日にエルサレムで誕生した最初の教会はともに集まって、神を礼拝し、交わりも持っていたことが知られています。使徒の働き2:42~47にその姿が記されています。「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」彼らは一つになってみことばを学び、賛美と祈りを献げ、聖餐式を行い、つまり神を礼拝していたのです。また、交わりを持ち、持ち物や食事を分かち合い、助け合い支え合って生活していたのです。またヘブル書の著者も言います。「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」(ヘブル10:25)私たちがともに集まる最大の理由は神を礼拝するためです。クリスチャンのアイデンティティーの中心的な部分にともに集まって神を礼拝することがあるのは否定できないことです。ですから、新型コロナウィルス感染症の感染拡大によって、教会にみんなで集まって礼拝することができなくなっている今の状況は、私たちにとって本当に辛い試練であると言って良いでしょう。ともに集まって礼拝を献げるという、毎週当たり前と思っていたことができないからです。しかも、それがいつまで続くのか、まったく先が見通せないのです。「コロナ、うざい。失せろ」と大声で叫びたいくらいです。この問題が起こった初めの頃は、暖かくなれば落ち着くのでは、と皆が楽観的に考えていた節があります。しかし、感染が広まるにつれて、収束予想はどんどん後ろへ延ばされて行きました。夏まで、から、秋には、になり、今は、1年は覚悟しなければならないだろうとも言われています。私たちの世代が今までに経験したことのない事態です。どう受け止め、どう対応したらよいのか、戸惑うことが多くて大変です。最近、自分自身も予想以上に精神的なストレスを受けていることに気づき始めました。皆さんの中にも同じような方がいるのではないかと思います。そんな中で礼拝を献げられるということも神の恵みなのだということを改めて感じさせられたように思います。何の不自由もなく、当たり前のように日曜日の朝、教会に来て礼拝を献げる。その繰り返しの中で、いつでも自由に礼拝を献げられるものだと、私たちは思い込んでいたように思います。もっと言うなら、礼拝は私がするもの、神のために私がしてあげるもの。そこまで意識してはいないでしょうが、礼拝の主導権が本当は神にあることを忘れ、自分の側にあるように思いこんでいたということはないでしょうか。そもそも私たちが礼拝する神は、人の手によって作られたいのちのない偶像の神々とは異なり、天地万物を創造された、全知全能の永遠の神であり、今も私たちの現実・生活の中に生きて働いておられる神です。唯一の神であり、何物にも比べられない絶対者であり、最も高い所におられる至高の存在です。それに対して私たちはどのようはものでしょうか。確かに神のかたちとして神の似姿に造られたものです。それは神の代理者として神の造られた世界を管理し、より良い世界に維持発展させるためでした。「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された(創世記1:26~27)。」その手始めに人(アダム)は被造物に名前を付けました。その被造物の本質を判断し、それにふさわしい名前を付けたのです。さらにカインとアベルは農業と牧畜を手がけました。トバル・カインは金属加工を、ノアは巨大な箱舟を作り上げました。ノアの洪水の後、人はバベルの塔をも造り始めました。他にも様々なものを創り出して行きました。これらの能力は、万物の創造主である神のかたちとして造られたことの結果であって、神の創造の力の一部を引き継いでいるからです。時代が下るにしたがって人は科学や技術を発展させ、驚くべきものを次から次と創り出して来ました。かつては夢物語と思われていたことでも、現実となっていることがたくさんあります。鳥のように空を飛んでみたいという昔の人のあこがれは、今や宇宙にまで飛んで行ける現実になっています。昔の人なら知りようが無かった地球の裏側の出来事でも、今ならインターネットで瞬時に知ることができます。これらはすべて人が創り出したものです。このような事実を見ると、人とは偉大なものだと感じるかもしれません。神と少ししか変わらない存在、神と並ぶこともできそうな存在と思い込んでしまうかもしれません。しかし、それは違うのです。神と人との差、違いは、決して小さいものではありません。大きいのです。神と人とは決定的に違うのです。神は創造者であり、人はその神によって造られたと被造物なのです。被造物はどんなに優秀なものであっても、創造者を越えることはできません。創造者であるということは被造物を完全に理解しているということです。知らないものを作ることはできないからです。神が人を創ったということは、神は人のすべてを完全に知っているということです。詩篇139篇がそのことを歌っています。「【主】よ あなたは私を探り知っておられます。あなたは私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知り抜いておられます。ことばが私の舌にのぼる前に なんと【主】よ あなたはそのすべてを知っておられます。」(詩篇139:1~4)「あなたこそ私の内臓を造り母の胎の内で私を組み立てられた方です。」(139:13)「私が隠れた所で造られ地の深い所で織り上げられたとき私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られあなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々がしかもその一日もないうちに。」(139:15~16)しかし、逆に被造物は創造者を十分に理解できません。それどころか創造者のみわざですら、十分には理解できないのです。ヨブ記の38章以下にヨブに対する神のことばが出てきます。ヨブは3人の友人や途中から議論に加わって来たエリフと神について激しい議論を繰り広げます。神はじっとその議論を聞いていたのですが、ついに「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」と堪忍袋の緒が切れたように語りだします(ヨブ記38:2)。そして41章まで徹底してお前はいったいどれだけのことを知っていると言うのか、と挑戦的に語りかけています。ヨブは神のことばに圧倒されて、自分が神の前に無知であったのに、知った風に語っていたことを恥じ入り、悔い改めて沈黙するのです。パウロはこの世の知恵、すなわち人の知恵では、神を知ることはできないと言います。Ⅰコリント1:21「この世は自分の知恵によって神を知ることがありません。」そして、自分は知っていると思う人こそ、知るべきことを何も知らないのだと言っています。Ⅰコリント8:2「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。」人がどんなに誇ったとしても、神から見れば人の知恵など愚かさでしかなく、神の知恵とは比べようもないのです。詩篇90篇も神と人との違いを示します。神の永遠性に対して人のはかなさが強調されます。「山々が生まれる前から地と世界をあなたが生み出す前からとこしえからとこしえまであなたは神です(90:2)」「まことにあなたの目には千年も昨日のように過ぎ去り夜回りのひと時ほどです(90:4」」と神の永遠性が歌われる一方で、「あなたは人をちりに帰らせます。『人の子らよ帰れ』と言われます(90:3)」「あなたが押し流すと人は眠りに落ちます。朝には草のように消えています。朝 花を咲かせても移ろい夕べにはしおれて枯れています(90:5~6)」と人のはかなさ、有限性が強調されます。人は一瞬で消え去るものです。永遠から永遠に存在し、千年もひと時でしかない神とは全く違うのです。人は被造物の中では頂点にある特別な存在ですが、神の御前では限りなく小さい存在、無いに等しい存在に過ぎないのです。今朝開いているイザヤ41:14では「虫けらのヤコブ」と呼ばれています。これは芋虫の類を表すことばです。同じ虫でもカブトムシやクワガタなら、まだ少し高級感がありますが、芋虫にはそんなものは感じられません。無価値などうでもいいと無視されるようなものです。神の選びの民であったイスラエルの人々は「虫けらのヤコブ」と呼ばれているのです。当時、北王国イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、南王国ユダもそのアッシリヤの脅威にさらされていました。少し前のイザヤ36章~37章あたりには、アッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲し、攻略しようとしている記事が出ています。アッシリヤの大軍に包囲され、エルサレムは風前のともしびにも似た状態でした。その原因は、主なる神への背信と偶像崇拝、弱者への虐げと搾取という社会的不正の横行でした。神のさばきを避けようがない深い罪の現実が、長年にわたって横たわっていたのです。信仰深いヒゼキヤが王でなかったなら、また、預言者イザヤがそのヒゼキヤのかたわらにいなかったなら、エルサレムも陥落しユダ王国も滅んでいたかもしれません。イザヤに励まされたヒゼキヤの信仰に応え、主の使いが一夜にしてアッシリヤ兵18万5千人を打ち殺し、エルサレムは救われたのです。それがなければエルサレムは陥落し、アッシリヤに蹂躙されていたはずです。直前まで権勢を誇っていた王であっても、たちまち捕らわれ人となり、辱めを受け、いのちを奪われるかもしれないのです。繁栄や平穏無事が没落や死・滅びと隣り合わせになっているのです。そのように人とははかない者、虚しい者に過ぎないのです。前にも紹介したと思いますが、睡眠薬を大量に飲んでいのちを断とうとした人から直接話を聞いたことがあります。睡眠薬で意識が薄れて行く中、学校から帰って来た幼い娘の「お母さん死んじゃ嫌だ」と泣き叫ぶ声を聞いた時、この子のために私は生きなければと感じたそうです。しかし、その時どうにもならなかったのです。薬が効き始め彼女は死に向かって確実に進んでいたのです。生きたい、生きなければと思った時、自分のいのちなのにどうすることもできない現実を思い知ったそうです。死のうとする時、自分のいのちはどうにでもできます。しかし反対に、生きたいと思う時、自分の意志や願いがどんなに強くても、自分ではどうにもできない現実があるのです。彼女は意識が消え去るまで、「主よ。私を赦し、私を生かしてください」と祈り続けたそうです。三日後に彼女は意識を取り戻し、娘のもとに帰ることができました。いのちに対する自分の無力さを知り、自分で生きているのではなく、神に生かされているのだということを思い知ったそうです。この世でどんなに権勢を揮っていても、神の御前では無いに等しい私たちです。自分のものと思っているいのちにすら、自分で何もできない私たちです。「虫けらのヤコブ」「虫けらの私」に過ぎないのです。しかし、その「虫けら」に過ぎない私に対して、神は「わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」と言ってくださるのです。(イザヤ41:9~10)虫けらに過ぎない私を「見よ。わたしはあなたを鋭く新しい両刃の打穀機とする。あなたは山々を踏みつけて粉々に砕き、丘を籾殻のようにする」(イザヤ41:15)と約束してくださるのです。虫けらにとって山々や丘は途方もなく大きなものであり、どうにもならない障害、壁です。それを砕き粉々にする。そんなこと虫けらには不可能です。しかし、神はそれをさせると約束しておられる。全能の神が私たちを助け、私たちに力を与え、進ませてくださるのです。新型コロナウィルス感染症の影響で、これまでと同じように生活することができない状態に置かれている私たちです。ともに集まって神を礼拝するという人にとって最も尊い行為すら思うようにできないのです。不自由はもちろんありますが、これまでの生活、とりわけ神と自由に交われるということが、決して当たり前のことではなく神の恵みであったということを、再確認させられる機会でもあるように思わされます。自宅でひとり礼拝を献げる時、寂しさや物足りなさを感じるかもしれませんが、ひとりでも全能の偉大な神と向き合い、お父さんと呼び掛けて礼拝することができる恵みをかみしめたいと思います。虫けらに過ぎない私たちですが、全能の神、生きて働かれる神、永遠の神がともにいてくださるのです。「まことに、私たちの神、【主】は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか。」申命記4:7 私たちは偉大な国民、神の民です。私たち自身が偉大なのではなく、偉大な神が私たち一人一人を選び取り、神の民としてくださったからです。私たちは独りではありません。神がともにいてくださいます。不自由と困難の中にあっても、この事実を忘れずに歩み続けて行きましょう。...more36minPlay
FAQs about 自治医大前キリスト教会:How many episodes does 自治医大前キリスト教会 have?The podcast currently has 282 episodes available.