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「拉致被害者を全員返還ですと!?」
「はい。このことはこちら側に陶晴宗を引き込んだ、あなたの功績に依るものが大きいですよ。」
応接用のソファに座り正対する仲野の身体がどこか震えているように見えた。
「しかし、冒頭申し上げたとおり今回のテロを制圧することが条件です。」
「…鵡川総理はなんとおっしゃてらっしゃるのですか。」
「総理には私からまだ詳細をお話ししていません。」
「えっ?」
「仲野先生のご意見を拝聴した上で、総理の決断を仰ごうと思いまして。」
「どうして…。私の意見なんぞ、この段階では必要ないでしょう。」
「いいえ。」
こう言うと静かに櫻井官房長官はソファを立ち、床に座り直した。そして両手をついてそのまま深々と頭を垂れた。
「仲野康哉先生。鵡川内閣の特命担当大臣に就任ください。」
「いや待ってください。私は野党前進党の幹事長です。貴党から適任者を選抜してください。」
「いいえ。この拉致被害者返還交渉特命大臣は、ツヴァイスタン一国との交渉だけでなく、その背後に居る旧宗主国ロシアとの調整作業も重要な任務となります。しかしながら我が党には先生ほどのロシア通はいません。ここは先生以外の適任はいません。」
「何言ってんですか。貴党にもロシア通は何名かいらっしゃいます。」
「彼らは駄目です。」
「どうして。」
「理由は二つあります。先ず一つ。先生は私ども政府側の人間が働きかけないでも国益を最優先に考えて、陶の調略に協力くださった。あなたは最大野党の幹事長。ロシアの力を背景に陶と結託して政権を獲得することも考えられたはずです。しかしあなたはその選択をとらなかった。もう一つは我が党のロシア通と言われる者達はあの国の走狗だということです。」
「走狗…ですか。」
「彼らはもっともらしくあの国の正当性を唱えます。北方領土は話し合いで返還をと。ロシアの経済状況は良くない。だからあそこに救いの手を差し伸べて誠意を持って対応すれば、きっと理解してくれる。おそらく日本からの援助が少ないのだ。誠意が伝わっていないのだ。だからもっと経済援助をとあいつらは言います。ですがどうでしょうか。こちらからの経済援助によって、北方領土の軍事拠点を整備したり、樺太のガス田開発を我がもののようにしている。この様な連中を今回の大臣なんかに任命してみなさい。返すと約束されている拉致被害者も、ロシアの入れ知恵によって帰ってきませんでした。なんて最悪の結末が容易にできます。今回はそのような失敗は設定に許されないんです。金の話じゃありません。国民の生命と財産がかかっているんです。この重責は何よりも国益を最優先できる人材でなければ務まりません。」
仲野は櫻井の政治姿勢に共感を抱いた。
「ツヴァイスタンがオフラーナの手綱を引き締めて軍を粛正し、拉致被害者を全員返還する。このことは、あの国の完全な東側からの決別でもあります。それは世界秩序の変更となり、ロシアとしても黙っていないでしょうな。」
「はい。最悪、ロシアが直接ツヴァイスタンに進駐する想定も必要です。となるとツヴァイスタンの背後に軍事的裏付けが必要となります。」
「そこを日本がやるんですか?」
「いいえ我が国では地理的に無理です。とは言えツヴァイスタンがNATOに加盟することも無理です。従って米軍の関与が必要でしょう。」
「米軍に…ですか。できますか。」
「ひれ伏してでもお願いします。」
「ひれ伏してできますか。」
「勿論ひれ伏すだけではできません。我々の本気の度合いを今回のテロ制圧でアメリカに見せつけねばなりません。」
「できなければ拉致被害者の返還はもとより、我が国の安全保障状況も崩壊…ですか…。」
「そうです。」
「…死んでもやらねばならんと言うことですな。」
「はい。」
再び櫻井官房長官はソファに座る仲野に対して頭を垂れた。
「仲野康哉先生。何卒この国難をお救いください。」
「お止めなさい官房長官。」
とっさに仲野は彼女の土下座を制止した。
「もうその必要はありません。我が心は決まりました。」
「と言うことは…。」
「今からの党内意見の調整は物理的に無理です。私は前進党に離党届を出しましょう。」
「おおっ!」
喜びのあまり櫻井官房長官は仲野に抱きついた。
「前進党の党首には私から事情を説明します。彼も事ここに至って無理解な人間ではない。彼は彼なりに党内をまとめ上げてくれるでしょう。」
そう言って仲野は身を絡める櫻井の腕をほどいて彼女と距離をとった。
「前進党は心配ありません。私がなんとかします。むしろ貴党の調整を私は懸念します。」
「それは心配に及びません。鵡川総理は強い人です。」
「それは存じておりますが…。」
「とにかく仲野先生の特命大臣就任に関する承諾の旨をお話しして、総理のご判断を仰ぎますわ。」