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金沢駅周辺は瓦礫と黒煙に包まれていた。
さっきまでの轟音と衝撃は過ぎ去り、代わりに訪れた静寂が耳を痛くするほどだった。辺りには硝煙と焼け焦げた鉄の匂いが漂い、崩れ落ちた構造物の隙間から冷たい風が吹き抜けている。
雨はすでに降っていた。小さな雨粒が瓦礫や死体の上に降り注ぎ、静かに煙を冷やしている。
雨音がかすかなざわめきのように現場に広がっていたが、次第にその音が耳障りなほど強くなり始めた。
吉川は荒れ果てた現場に足を踏み入れた。
靴底が瓦礫を踏む音だけが響く中、彼の目は現場を注意深く見回していた。
雨粒が額に叩きつけられ、濡れた髪が顔に張り付く。
「…こちら吉川班。隊長、応答されたい…。」
かすれた声が口から漏れる。何度目かの呼びかけだったが無線からも周囲からも、何の応答もなかった。
胸の奥に嫌な予感が膨らむ。
雨脚はさらに激しくなり、まるで現場の傷口を抉るように瓦礫や遺体を濡らし続けた。
雨水が地面にたまり、小さな水たまりが幾つもできる。
「自分は指揮車両の方を確認してきます!」
一緒にいた部下が焦燥感に駆られたようにそう言うと、瓦礫を避けながら駆け出した。
濡れた瓦礫が滑りやすくなっているのか、彼の足取りはぎこちなかったが、それでも彼の背中には必死さが宿っている。
吉川はその背中を追いかけようとしたが、一瞬足が止まった。
雨音が現場全体を支配する中、瓦礫の間で鉄片が転がるような音が響いた。それは、重たい沈黙の中で不気味に響いた。
その場に立ち尽くし、耳を澄ませた吉川の背中に冷たい雨が容赦なく降り注いでいた。
「班長!」
部下の叫び声が聞こえ、吉川は慌ててそちらへ向かった。
瓦礫を踏み越え、崩れた壁をくぐり抜けた先に、指揮車両があった。だが、それはもはや「車両」と呼べる形を保っていなかった。爆発で大きく歪み、窓ガラスは砕け散り、扉は吹き飛ばされている。
「…これは…。」
言葉を失った吉川は、部下の指差す先を見た。そこには明らかに生命を失ったSAT隊長の遺体があった。
首には扼殺の痕がくっきりと残り、顔は苦悶に歪んでいる。遺体は座席に崩れ落ち、腕は不自然な方向に折れ曲がっていた。
「…嘘だろ…。」
吉川の声が震えた。明らかに人の手による殺害だ。
このSAT隊長は自分の首を握りしめる相手の顔を見ながら絶命したのである。
ー嵌められた。
指揮官に成りすました何者かが、SATを掌握してこの惨劇を引き起こした。
そう理解するまでに、彼は数秒を要した。
「児玉。吉川だ。」
吉川は無線を手に取り、かすれた声で呼びかけた。
この混乱の中で唯一頼れるのは彼しかいない。
だが、無線は無音のままだった。
「児玉、児玉。こちら吉川。応答されたい。」
再度の呼びかけにも、返事はない。その時別の声が無線に割り込んできた。
「こちら、相馬…。」
「相馬!?大丈夫か!」
「だ、大丈夫です…。」
相馬の声は震えており、その言葉の端々に絶望が滲んでいた。吉川は嫌な予感がした。
「相馬、児玉はどうした?」
沈黙が一瞬流れた後、相馬が重い声で言葉を絞り出す。
「児玉さんは…死亡しました。先ほどの爆発で…。」
吉川は息を呑み、その場に立ち尽くした。
自分を支えるはずだった仲間がもういない。その現実が全身を締め付け、喉の奥が詰まるようだった。
「そちらはどうですか。」
指揮車両の惨状と、目の前にあるSAT隊長の無残な遺体。その二つの光景が彼の中で現実感を失わせ、心の中に虚無感を広げていく。そこに古田の変わり果てた姿がある。吉川は分かっている。今のこの状況で相馬になにを伝えるべきなのかを。しかし彼は躊躇した。
「吉川さん。」
「…相馬…。」
吉川は相馬を遮った。
「古田さんは死んだ。」
「え…。」
「胸を撃たれた。息はない。残念だ。」
「そんな…。」
「古田さんだけじゃない。ここは死体の山だ。SATの指揮部隊も、ウ・ダバも死んでる。制服警官もいる。みんな死んだ。」
感情もなく報告される状況を相馬は飲み込めないようだった。
「テロ対策本部には相馬、お前から報告を入れろ。俺は俺で自衛隊に報告を入れる。」
そう言って吉川は無線を切った。
ーなぜだ…。
心の中で誰にも答えられない問いが繰り返される。足元の瓦礫に雨が叩きつけられ、じわりと靴に染みてくる冷たさを感じても、吉川は動けなかった。
ーなぜこんなことになった…。
彼の胸の奥でうごめく感情は、悲しみと怒り、そして自分自身への苛立、それらが一つになって吉川を押し潰そうとしていた。
ふと自分の右手が震えているのに気づいた。
濡れた無線機を握る指先の震えは、止めようとしても止まらない。それが今の自分が抱えている無力感そのものだと悟った瞬間、吉川の中で何かが弾けた。
吉川は無線機を持ち直し、冷静さを装うように深く息をついた。
震える手を抑え、口を開く準備をする。その声にどんな感情を込めるべきなのか、まだ答えは出ていなかった。
「小寺機関長。こちら吉川。」
「小寺だ。」
「吉川、現場の状況送ります。」
一息つき、彼は言葉を続けた。
「ウ・ダバ壊滅。アルミヤ壊滅。SATは指揮部隊含めほぼ全滅。残る戦力は自分の班のみ。特殊作戦群は詳細不明。敵も当方も継戦能力はありません。」
報告を終えると、無線の向こうで一瞬の沈黙が訪れた。
「現場から撤退しろ。」
小寺の冷静な口調が、吉川には重たく響いた。その命令に従うべきだと頭では分かっていたが、彼は最後に一言を付け加えた。
「…児玉が、死亡しました。」
小寺はその言葉に応答せず、無言で通信を切った。
吉川は無線を握ったまま、崩れ落ちるように座り込んだ。現場の静寂が、無情に彼を包み込んでいた。
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金沢駅の状況を伝える無線が一瞬の雑音とともに、公安特課本部に届いた。相馬の声だった。
通信の向こう側から、時折かすかな爆発音や崩れる建物の音が聞こえる。片倉はその声に耳を傾けながら、眉間に深い皺を寄せた。
「古田さんが…死亡しました。」
その一言が本部内に冷たい波紋を広げた。机の上で震えていた片倉の拳が、さらに強く握られる。
数秒の間、彼は何も言葉を発しなかった。
「本…当…か?」
片倉がようやく口を開く。
「はい。自衛隊特務からの報告です…。」
相馬の声はかすれており、その言葉の裏には疲労と無力感が滲み出ていた。
岡田も隣で息を飲み、目を伏せた。
古田の死。それはこの作戦において最悪の知らせだった。
「状況を話せ。」
片倉の声が低く響く。
相馬は深呼吸をするようにして、言葉をつないだ。
「古田さんの死に関しては胸を銃で撃たれたとだけ報告を受けています。息はないとのことです。」
相馬は続ける。
「こちらから報告していたとおり、自分は古田さんと自衛隊特務2名と連携して今回のテロに当たっていました。その特務の一方から入った報告ですので間違いはありません。」
「そう…か…。」
「ちなみに特務のもう一方は死にました。」
「死んだ?」
「はい。爆発に巻き込まれて。」
片倉をはじめ、このテロ対策本部でも金沢駅で大きな爆発があったことを掴んでいた。
「…その爆発やが、詳しく教えてくれ。」
これに相馬は淡々と答えた。
「もてなしドームに突入した機動隊車両の上空にドローンが飛来。そいつが車両の上で小規模な爆発を起こし、直後、車両が大爆発しました。これにより現場はすべてが吹き飛び、焼かれ、死体の山です。SATの指揮部隊も、ウ・ダバも死んでる有様。特務曰くみんな死んだと。」
「みんな死んだってことは、機動隊車両に乗っていた人間もか。」
「はい。全員死亡と聞いています。」
片倉は沈黙したまま、机の上のモニターを見つめていた。だがその目はどこか虚ろだった。
彼の脳裏には、椎名の監視任務に就いていた冨樫の顔が浮かんでいた。彼と連絡が取れなくなっていたことが、ここで嫌でも説明がつく状況となったわけだ。
ーマサさん…。
片倉はこの言葉を声に出すことはなかった。ただ唇を結び直し、目を閉じた。
「相馬、お前は今、その機動隊車両の様子を確認できるのか?」
片倉の声が震えを押し殺しているのが分かった。
相馬の返事は一拍遅れて返ってきた。
「戦闘は鎮静化しているようです。向かうことは可能だと思います。」
片倉は短く指示を出した。
「確認してくれ。その目で。」
無線が切れた後、本部は一層の静寂に包まれた。岡田が片倉の表情を伺ったが、彼の顔は石のように硬直していた。誰も言葉を発さず、ただ空気が重くのしかかるだけだった。