「私たちの主イエス・キリスト」が、「死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された。」(ローマ1 章4 節)ゆえに、すべての憂いは「時間の問題」になった。
クリスチャンは遅かれ早かれ、復活の力を体験する。しかし「ほんの少し」早める方法があり、その違いが神様に用いられるなら、喜びを倍増させる。ここに信仰の意義がある。
復活の力が、信じる私たちに注がれているという事実を「認める」=「数えて実感する」ことが、復活の力を体験する秘訣。(11 節) →「古い生き方」に人を引き戻す力(心の庭に生えてくる「雑草」)が働いているので、これに対抗する必要がある。
究極的に言えば、雑草を抜く必要はないが、それでは実を結ぶ人生にはならず、もったいない!
「ユダヤ人」=「宗教的な生き方」…正しい行いを積み重ねて恐れを取り払う道(独善の毒が混じっている)裁きの心か罪悪感で満たされる。
「異邦人」=「自由奔放な生き方」…心の赴くままに生きようとするが、現実的には不可能なので、欲求不満に陥り、身の破滅を招く。
どちらも、幸福を装いながら、不幸に落ちる道。罪を王様にする生き方
神が始めてくださったことに、応えて生きるのが、福音の道。
イエス様の十字架を自分のためだと信じる時、イエス様と一緒に十字架につけられ、葬られたと神によって見なされる。そして、同じよみがえりの力を受けられる状態に変えられる。
罪に対して死んだので、もうノルマはない!福音の道にはプラスのみ。
自由の道は、欲望を捨てるのではなく、イエス様の欲望が自分の願いに変わることで乗り越えられる。
福音だけが、私たちを暗い墓場から明るい未来に連れ出す!