高野山大学の社会福祉学科第一期生として卒業するとき、私は寺を継ぐことに決心が至らず、しかし大学側はできるだけ第一期生を全員就職させておかなければならないと考えていた。そのため、担当の先生から大阪の老人ホームでの研修をすすめられ、その後、そちらに就職も内定していた。
内心、この就職によって坊主にならなくても済むと、虫のいいことを考えていたのだ。しかし、兄二人はそれぞれ就職し、三男の私が就職してしまうと、寺を継ぐものがいなくなってしまうという現実に結局、やむなく親父の説得を受け入れ、老人ホームへの就職は諦めたのだった。
親父は役場勤めと坊主の二足のわらじを履いて、なんとか息子3人を大きくしてくれたのだが、私はというと、とうてい寺だけで生計は成り立たたないため、それまでなかった日行というものをはじめ、日銭を稼ぐことをはじめた。
これは檀家にしてもはじめてのことだけに、突然連絡もなしにお参りすることもはばかられ、
前日に「明日、ご命日なのでお参りさせてもらっていいですか」
おかげで月に100軒ぐらいのお参りがあり、約10万円ほどが私の基本給のようなものとなった。
とはいいながら、朝の内に仕事が終わってしまい、暇な時間をもてあましていた。
そんなころ、暇してる若者がいると思ってくれたのだろうか、役場の教育委員会から公民館の主事になってもらえないかとの連絡が入った。
仕事の内容を聞かせてもらい、主事の場合、月に2万円程度の報酬があることも分かった。
私は暇つぶしになるし、基本給に2万円も上乗せされることで一石二鳥だと考え、引き受けることにした。
私の場合、非常勤で、公民館の鍵の管理と開講されている各教室のご用使いのようなことが主な仕事で、年一回の公民館協力委員会という総会と、たまに役場での会議に出席すればよかった。
2年後、前館長が退任すると、今度は後任の公民館長として就任することになり、主事は青年団の元気な若者にお願いした。
私はその後7年間、報酬無しの名誉職である館長を勤めることになったのである。
しかし年々予算が削られるなかで、全館の掃除を請け負っていた業者の清掃が廃止されるなど、利用者負担が原則となり、みんなでつくる公民館活動という方向へ転換していく必要に迫られるようになってきた。
私が公民館にかかわったときに開講されていた教室は、カラオケ教室と書道教室と高齢者学級の3教室だけだったため、教室を増やそうと考えていた私は、音楽を教えている同級生の先生に頼んでコーラス教室を開設することにした。
さらに地域の小学校の校歌を作詞した先生に呼びかけ、川柳・俳句の教室を開講してもらった。
私自身も当時勉強していたご詠歌と三味線の教室を開き、館長と講師の二役をこなしながらも、さらに大正琴や太鼓教室も開設し、田舎の公民館は徐々に活況を呈するようになっていった。
公民館活動が活発になってくると当然のように発表の機会も必要となり、そのための文化祭を開催することとなった。
この文化祭は展示や発表だけではなく、若者と高齢者の交流もゲートボールなどを通しておこない、いっそう地域の人々の絆を深めることに役だったと考えている。
このことを証明するように、わが村の公民館を含め、この町には5つの公民館があるが、翌年から3つの公民館が同様の文化祭を開催することになったのである。
私はこれに意を得て、文化祭を開催していない残りの1館も含め、それぞれ持ち時間30分に限定した全公民館の文化祭ともいえる「公民館フェスタ」を開催することにした。
さらに私は、いくつかの地区がそれぞれ別々に開催していたソフトボー大会や野球大会には、若者ばかりで、ある程度腕に覚えのある人でないと参加できないという欠点をなくすため、これも公民館の事業の一環にして、だれでも参加できる大運動会にすることを提案した。
しかし、はじめてのことは協力を得ることがなかなか難しいものである。しかも各地区の区長さんや公民館協力委員会の委員さんは一年限りの人が多いため、あたらしいことに積極的な人は少なく、ましてや農繁期や暑い時期などには、とても開催できる状況に話がまとまらないのである。
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