人生における「苦しみ」をしっかり見つめ、その原因をあきらかにし、正しい実践によって原因を取り除けば、「苦しみ」がなくなると教わったことがある。
仏教における正しい実践とは、正しいものの見方・考え方・おこない・努力・言葉使いなどの「八正道(はつしようどう)」とよばれるものであり、その原因とは「ものごとに対する執着」であるといわれている。そしてその「執着」を取り除くことによって解放される苦しみが、いわゆる「四苦八苦」である。
生(しよう)・老(ろう)・病(びよう)・死(し)の四苦と愛別離苦(あいべつりく)(別れの苦しみ)・怨憎会苦(おんぞうえく)(いやな者とも付き合わなければならない苦しみ)・求不得苦(ぐふとくく)(欲しいものが手に入らない苦しみ)・五蘊盛苦(ごうんじようく)(心身が盛んなゆえに苦しいこと)の四苦をあわせて「四苦八苦」といい、一般に、人間が生きていることによって苦しみ、難儀することが多い場合によく使われる。
しかし「執着」を取り除けば、それらの苦しみから解放されることは頭では理解できるが、なかなかそう簡単にいかないのが我々凡人なのだ。その執着があるからこそ、多種多様な感情が生起し、むしろそのことから多くのことを学ばされると思うのである。
なかでも「愛別離苦」は深ければ深いほど、大きければ大きいほど、そのものの存在のありがたさに気づかされ、究極の別れである「死」には、自分の生き方や人とのかかわり方、さらには人生の使命において得がたき諭(さと)しが含まれている。
私はここ数年、葬儀の際の「お浄(きよ)めの塩」(または「お清め」)について話をする機会が多くなってきた。
この「お浄(きよ)めの塩」の廃止は、仏教界においてもその取り組みが功を奏し、会葬の礼状にも小さな塩の袋がなくなっていて、この運動が少しずつ広がっていることが実感されるようになってきている。
数年前まで土葬埋葬の風習があった私の田舎では、葬列に参加したものは穢れるとして、野辺(のべ)の送りが終わり、自宅に帰ってくると、入り口の地面にまかれた塩を踏んで家に入ったものだ。あるところでは直接衣服に塩をふりかけたりもする。
穢れたのは人間だけではなく、葬送に使った道具も、故人が着ていた服や寝ていた布団も「浄(きよ)め」の対象である。
これらは「死」にかかわることの全てが「穢(けが)れ」であるとした考えから来たものであるが、果たしてそうであろうか。愛しい家族が死んだ瞬間から、故人やその家族、故人が触れたもの全てが穢れた存在となってしまうのだろうか。
2009年2月、米アカデミー賞外国語映画部門賞を受賞した映画「おくりびと」の一場面にも、納棺師の彼を妻が「汚らわしい」と避けるシーンがあるが、やがてその仕事の尊さを理解するうち、「汚らわしい」という感情は消えていく。
同じようにだれもが、「死」そのものが多くを学ばせてくれる崇高な瞬間だと理解できれば、「穢れ」の感情は生まてこないはずだ。
私の同級生から「親父が死んだので葬儀を頼む」と電話が入った。いわゆる「出檀家(でだんか)」といって、四十年前にこの田舎を離れ他の町で暮らす檀家さんで、その家にとっては初めての葬儀であった。
出棺を済ませ火葬場に着くやいなや、故人の孫に当たる娘さんたち二人が急に泣き出し、それぞれの旦那さんと思われる男性に肩を抱かれ介抱されている。
そしていよいよ喪主の同級生が火葬のスイッチを押す段になった時、その二人は「お父さん、スイッチ押したらあかん!」「おじいちゃん焼いたらあかん!押さんといて」と必死に泣きわめくのである。しかもそのうちの一人は過呼吸症状になるほどの泣きようなのだ。
だいたいこの田舎では「爺々婆々(じじばば)の葬式は孫の正月」といわれるほど、孫は陽気で明るく葬儀にはしゃいでいるのだ。ところが、すでに20歳を過ぎ、所帯を持った孫が「おじいちゃんを焼いたらあかん」と泣き、父親に火葬のスイッチを「押したらあかん」という。
長く葬儀の導師を務めてきた私にとっても初めての経験だった。
さぞかし、好々爺(こうこうや)だったに違いない。本当にいいおじいちゃんだったのだろうことは容易に察することができた。
私が焼かれるとき孫たちは泣いてくれるだろうか・・・・それともはしゃいでいるだろうか・・・・。
考え込んでしまったが、それはともかく、こんな素晴らしいお孫さんたちにとって、かけがえのない存在だったおじいちゃんの葬儀に参列しただけで穢(けが)れたと思われることは、決して本意ではないと思うのだ。もちろん孫たち自身に穢れの感情は全くない。
それどころか息を引き取った瞬間から、愛しい家族の遺体が穢されぬよう、枕元には悪魔降伏(あくまごうふく)を願い不動明王を掛け、遺体にも悪魔を祓う手刀を置き、毒で穢されぬよう樒(しきみ)のひと枝を差し・・・・といった二重三重の防御を施し、さらには葬儀まで夜を通して見守っていたのに、である。
愛しい人との別れは「愛別離苦(あいべつりく)」という苦しみであると同時に、「死」ほど多くのことを教えてくれる瞬間はない。
それは決して穢れではなく、その人の大切さを再確認し、その生き方を学び、命のはかなさを知るときであり、遺されたものが人生の歩み方をあらためて考え、一瞬一瞬に大切な生き方を実践する決意のときでもある。
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