「感想」
今回は気軽な気分で『ファーストキス』や『グランメゾンパリ』といった、作品を楽しむつもりであった。しかし、その日は、前日に会った映画好きの人が熱心に薦める「敵」という作品に、なぜか心を引かれてしまったのだった。彼はとにかく熱くこの映画を語っていた。その熱に押された形だ。
評価は、私なりに86点と定める。そんなに高くはない。派手なアクションもなく、笑いも大声で起こることはなかったが、どこか物悲しく、そして不思議な魅力を感じた映画であった。面白くない映画(ビーキーパーのような映画ではないという意味)だが魅力がたっぷりな映画だった。
映画『敵』は、吉田大八監督の手によって、筒井康隆の原作小説を基に作られている。原作は未読ながら、スクリーンに映し出される風景や台詞からは、原作の持つ独特の世界観がひしひしと伝わってきた。
物語の中心は、77歳の大学教授・渡辺儀助である。彼はかつてフランス文学を教え、洗練された佇まいで教壇に立っていたのだろう。しかし、今や先立たれた妻の記憶と、代々受け継がれてきた古びた日本家屋の中で、ひっそりと日々を過ごしている。朝は、決まった時刻に起き、丹念に歯を磨き、整えられた朝食をとる。その姿は、まるで長年の修練によって磨かれたかのような規律正しさを漂わせている。しかし、よく見ると、その整然とした外見の裏には、忘れ去られた情熱や、かつての過ちに対する後悔、そして何よりも抑え込まれた孤独が、かすかに、しかし確実に刻まれていた。
そして、ふとした瞬間、渡辺教授の風情には、皮肉にも、あの「フランス文学の教授」としてお馴染みの蓮實 重彥――鼻持ちならない、あの型にはまった存在を思わせる要素があった。儀助がヒッチコックの話を口にし、演劇へのかつての情熱をちらつかせる姿は、あたかも蓮實重彥のような、偉そうでありながらもどこか空虚な雰囲気を漂わせており、見ているこちらは正直、ムカつかされずにはいられなかった。
ある日のこと、儀助のもとに、一通の奇妙なメールが届く。本文には「敵が北から迫る」など、どこか不気味でありながら、どこか滑稽な言葉が綴られていた。最初はただの迷惑メールと、軽く流そうとした。しかし、次第にその内容は、儀助自身の内面に潜む恐怖や、封じ込めようとしている欲望、そして過去の後悔と見事に重なり、現実と妄想の境界を曖昧にしていく。あのメールは、儀助が自ら作り上げた「敵」――自分自身に向けられた厳しい批判や、苛立ちの象徴――を、まざまざと見せつけるかのように、彼の心にじわじわと忍び寄ってきた。
映画が進むにつれて、儀助の穏やかで整然とした日常は、ひとつひとつの隙間から崩れ出す。丹念に盛り付けられた料理のシーンの裏に、ふと映る質素なカップラーメン。そんな対比の中に、彼が実は虚飾に過ぎぬ生活を送っていること、そしてかつての妻への申し訳なさや、もしかすると禁断の感情に溺れていたのではないかという、苦々しい後悔が、痛烈に浮かび上がっていく。
そして、映画の終盤、ある人物が双眼鏡を手に、薄暗い二階の窓辺を覗くシーンが訪れる。そこに映し出されたのは、どこかみすぼらしく、疲れ果てた姿の儀助であったのではないだろうか。双眼鏡越しに捉えたその顔は、まるで未来の観客自身を映し出すかのようで、私はふと、自分もまた、いつの日かこの孤独と後悔、そして皮肉にも嫌悪感を覚えるような「敵」に支配されてしまうのではないかという、不安に襲われた。
こうして映画『敵』は、単なる映像作品を超え、一人の老人の内面の叫びと、そこに潜む深い感情を私たちに問いかけ続ける。誰もが心のどこかで、儀助のように、かつての情熱や隠された後悔、そして自ら作り上げた「敵」と戦っているのだろう。私もまた、明日からの日常の中で、自分自身の内面と、時には憎々しいほどに嫌な風情をも見つめ直す覚悟を新たにしたのであった。