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4月30日木曜 7時半
警視庁公安特課機動捜査班は警視庁内の会議室に集結していた。
総勢30名。全国各地から集められた凄腕の公安警察たちだ。
「定刻なので始める。」
若林がそう言うと松永がマイクを持った。
「おはよう。」
全員が松永に挨拶を返す。
「前置きは無しだ。我が国始まって以来の危機が目前に迫っている。」
こう言うと正面の大型モニターにある眼鏡をかけた男性の画像が映し出された。
どこにでもいる顔立ち。グレーのTシャツに紺色のジャージを羽織っている。
「この男の名は仁川征爾。石川県に椎名賢明という名で潜伏するツヴァイスタン人民共和国のスパイだ。」
捜査員たちがざわついた。
公安特課たるものツヴァイスタンに拉致されたと見られる人物くらい既に頭の中に入っている。
その人物の消息を松永が把握しているということも驚きだが、彼がツヴァイスタンのスパイとしてこの日本に存在しているという報告がさらなる驚きと混乱をもたらした。
「いまから説明する話はにわかに信じがたい事も多分に含む。しかしこれは事実だ。我々の上層部は既にこの情報を事実として共有している。そこのところを十分に理解して欲しい。」
こういうと松永はマイクを百目鬼に譲った。
「1994年、近畿地方の土砂災害で行方不明になったと偽装工作の上、ツヴァイスタンに拉致されていた仁川征爾は5年前ロシア経由で我が国に帰還した。その後我々の監視下で取り調べ、一定の期間を経て石川県へ監視付きで生活を送っている。」
モニターのスライドを進めると、遠目から彼の様子を抑えた画像が何枚も表示される。
自宅の部屋でテレビを見る彼の様子。会社に向かう彼の様子。食事をする様子。会話をする音声、コミュニケーションをとる動画も時々差し挟まれる。
百目鬼が作成したプレゼン資料は彼と一度も会ったことのない特高捜査班のひとりひとりが、その映像や音声によって椎名賢明という人間をより立体的に把握できるような工夫が凝らされていた。
「これらのスライドを見て分かるように、仁川は日本での生活に適応しようと当初積極的に他者との接点を持っているように見受けられる。しかし1年も経たないうちにあまり他人との接点を持たなくなった。」
ここでネットカフェに入っていく仁川をおさえた映像が流される。
「自宅かこのネットカフェで過ごす時間が多くなっていった。」
スライドが切り替わった。爆破事件後のネットカフェの様子が映し出される。
「今見せたネットカフェの今朝の様子だ。仁川がネットカフェを拠点に工作活動を展開している疑いがあり、現場を抑えようとしたところ、証拠もろとも爆破。マルトク捜査員2名死亡。店の従業員、利用者に複数の重軽傷者を出す惨事となった。」
特高捜査員たちの顔つきが変わった。
「君たちの憤る気持ちと哀悼を示す気持ちはわかる。だがそれはこの事件が終結したときまでとっておいてくれ。その猶予すら与えてくれないほど事態は進んでいる。」
百目鬼はスライドを送る手を止め、捜査員たちを見る。
「我々は犯罪を未然に防ぐのが任務だ。いま私は同僚の死を悼む猶予すらないと言った。つまり我々はこの仁川にしてやられているのだ。奴は我々の監視の目を見事にかいくぐり、あと一歩で大願成就といったところまで逆に我々を追い詰めているのだ。その大願成就というのは」
金沢駅の外観が映し出される。
「これは金沢駅の写真だ。この金沢で何らかの大規模なテロが計画されている。それが5月1日の金曜。明日だ。」
会場はどよめいた。
「捜査員諸君はどうして我々マルトクがこうも仁川征爾という一個人に翻弄されることになっているか、疑問に思うことだろう。結論から言えば奴、いや奴らの組織的工作力が我々よりも優れていたからである。」
百目鬼はスライドを進める。
不審船漂着の様子、ノビチョク事件のニュース動画、全国各地で起こるテロ事件。
「これらはすべて仁川の手引きによるものである可能性が高い。そのひとつひとつをここで説明する時間は無いが、ひとつ仁川の恐ろしさを伝える事例を紹介する。」
動画投稿サイトが表示される。
「この動画投稿サイトにちゃんねるフリーダムというチャンネルがある。金沢に拠点を置く報道チャンネルで登録者数も再生数もかなりの数字を持っている。ここの動画にサブリミナル映像が差し込まれていたことが捜査によって判明した。」
会場は再びザワつく。
「仁川はちゃんフリの制作技術者と個人的に接点を持ち、彼の弱みにつけ込んで巧みに自分の協力者として引き込んだ。」
ここで百目鬼はとある学術論文を紹介する。
「これはサブリミナル効果に関する研究だ。この研究によるとサブリミナル効果というものは人間の潜在意識の記憶装置に働きかけるものだそうだ。アルコールがイケる人間とそうでない人間がいるように、この潜在意識の記憶装置には許容量というものがある。通常はそこに記憶された情報は処理可能だが、規定量を超えた時点で自分の力でそれは制御不能となる。このちゃんフリの動画に仕込まれたサブリミナルは言わば薄められたアルコールで、それひとつを見たところで人体に影響はない。しかし摂取回数を重ねることでそれは確実に蓄積されていく。」
ここでそのサブリミナル映像を見せるには皆に影響があると百目鬼は告げ、その内容を口頭で説明した。
人間の目の画像。その天地に「ぶっ壊せ、ぶっ潰せ」の表示。ただそれだけの繰り返しであると。
「じっとこちらを見つめる目があり、それで視聴者の潜在意識にインパクトをもたらすと同時に、主語も目的語もなくただ行動を促す言葉。そんなものが何のサブリミナル効果を生み出すというのか?そんなもの刷り込まれても何の害もないのでは?これは至極まっとうな感覚だ。…だが、この目の画像。この目が鍋島惇の目の画像だと言ったら、諸君はどう思うだろう。」
会場は凍り付いた。
6年前の鍋島事件については鍋島の特殊能力の存在が、事件に大きな影響を与えたとして公安特課の人間全員が共有を義務づけられていた。
つまり理解不能の鍋島能力はマルトクの人間ならば周知のことであった。
そのため百目鬼が鍋島の目と行った瞬間、会場内の全員が事の意味を知ったのである。
「鍋島能力については我々公安特課において、極秘にメカニズム解明に取り組んでいた。しかし一方でこの仁川はサブリミナル映像という形で鍋島能力の応用を試みた。つまりこれが意味するところは…。」
「マルトク内部に仁川のエスがいた。因みにこのエスについては既に対応済みだ。」
「仁川征爾は映像編集のスキルを持っていた。奴はちゃんねるフリーダムの外注先として活躍できる程度のレベルだ。おそらく奴がこのサブリミナル映像を作成し、ちゃんフリ協力者に流し、彼が仕込んだんだろう。」
「つまり仁川はインテリジェンスの中枢であるマルトク内に潜り込み、政府機密にアクセス。その機密を自分で料理し、ちゃんフリという民間メディアを使って頒布した。」
「こんな大それた事を身ひとつで成し遂げる。それが仁川征爾という男の凄まじさだ。」
「そんな仁川が明日、5月1日に金沢でのテロを計画しているという情報が入ったわけだ。」
感情のやり場がない。
会場のものたちは百目鬼の説明に言葉では表現できない複雑な表情を見せるしかない。
そんな中ひとりの男が手を上げた。
「なんだ。」
「仁川征爾の居場所は把握済みと言うことでよろしいでしょうか。」
「ああ。」
「即刻確保しましょう。」
「確保してどうする。」
「おそらく明日のテロは仁川ひとりが起こすテロではないのでしょう。」
「なぜそうと言える。」
「いまの理事官のご説明を聞くとひとつの傾向がみえます。仁川はエスを駒として使っています。仁川が頭脳でエスは手足です。だとすればその首をはねれば危機は取り除かれるかと思います。」
百目鬼は松永を見る。
松永がそれに軽くうなずくのを見て百目鬼は答える。
「既に手遅れである。」
「えっ!?」
「先ほどもサブリミナルの許容量について説明したな。」
「はい。」
「その許容量がピークに達しつつある。」
ここで再び百目鬼は直近のテロまがいの事件をスライド表示する。
「これらはそれが許容を超えた状態を示すのではないかとの報告が入っている。」
男は言葉を失った。
「つまりちゃんフリの視聴者は既に仁川の手を離れているのだ。視聴者の大半はサブリミナルの許容がもういっぱいいっぱいになっている。あとちょっとのサブリミナルを接種すれば大量のテロリストが誕生する。彼らは潜在意識に働きかけられた結果、行動を起こすわけだ。この前代未聞の犯罪教唆に関する物証をどうやって抑えろと言うのか。」
会場は沈黙した。
「我々、公安特課をとりまく世論は厳しいのはこの場にいるものなら誰もが感じているところだろう。そこで我々が仁川を事前に取り押さえたなんて世に出てみろ。それがトリガーとなって視聴者のコップの水があふれることになるかもしれない。」
「世に出ないように緊急逮捕で身柄を抑えましょう。」
「逮捕後の立証が難しいのだぞ。」
「しかしこのまま指を咥えて待つというわけには…。」
「もちろん。そのつもりはない。」
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「椎名班から本部。」
「はい本部。」
「椎名の進路がおかしいです。」
「なに?どうおかしい。」
「勤め先の方向から逸れました。」
「なんやと!?」
「付けます。」
「頼む。」
横から岡田が富樫に声をかけた。
「どこに向かう言うんや。」
「わかりません…。」
岡田は電話をかけた。
「もしもし俺だ。今日って椎名の奴、どこかに直行する予定あったか?……聞いていない…か。…わかった。継続監視頼む。」
「どちらさんで?」
「椎名の上司。」
「あぁ宝くじ大好きおじさん。」
「椎名はいつも通りの勤務になってるってさ。」
「ふうむ…。何でしょうかね。」
「椎名班から本部。」
「はい本部。」
「椎名、北署の駐車場に車止めました。」
「北署かぁ…。え?なんて?」
「北署に車止めました。鞄の中確認しています。車降りるようです。」
「おいおいおいおい。」
このとき片倉の言葉が岡田の脳裏をよぎった。
「5月1日金曜の対応は明日、4月30日木曜の午前に判断される。もしも椎名がキングとしてそのチェス組の司令塔をやってるとすれば、まだこれから何らかの動きを見せるはず。その瞬間を抑える方向で行こう。」137
いままさに片倉たち特高が5月1日の対応を検討している最中だ。そんな中で意表を突く椎名の警察訪問。
しかも監視役兼世話役である富樫を訪ねて警察本部に来るというのではなく、縁もゆかりもない所轄署への来訪だ。
「マサさん。無線で注意喚起。椎名の奴何をするか分からんぞ。」
「了解。本部から北署。」
「はい北署。」
「たった今、椎名が北署に到着した。」
「え?」
「椎名班と協力して奴の行動を充分に監視しろ。」
「了解。」
「本部岡田から北署。」
「はい。北署。」
「もしも危険を感じたら椎名の確保より、身の安全を優先しろ。」
「しかし。」
「いいから!」
「椎名、車降ります。」
「椎名班は北署と連携し、充分に注意せよ。」
「了解。」
心臓の鼓動
とてつもない緊張感が岡田と富樫がいるこの部屋を覆う。
無言の状況が3分ほど続いた。
「北署から本部。」
「はい本部。」
「椎名賢明、出頭です。」
「なに…。」
「自分が昨日のネットカフェ爆破事件を起こしたと言っています。」
岡田と富樫は顔を見合った。
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