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広すぎる。
部屋も調度品もベッドも何もかも。
自分ひとりでは完全に持て余してしまう。
落ち着かない。
浮世離れしたこの環境が自分の心の安寧を妨げる。
そう思っていた。いやそう思おうとする自分があった。
ドアを開く音
ーあれ…。なんだこの感じ…。
「お客様。どうされました?」
「あ、あぁ…。」147
この部屋に案内されるときに背中に感じた妙な感覚。あれは一体何だったのか。
どうしてあの白人を見た瞬間、悪寒を感じたのか。
つい最近も同じような感覚に襲われた覚えがある。
そうだ。曽我のマンションを張り込んでいたときのことだ。
さっきまで居たはずのパーカーの男が姿を消したかと思ったら、動けなくなった。直感的に自分に危険が迫っていることを感じとった。自分ではどうにも出来ない圧倒的な力が自分の側に居る。しかも悪意を持って。
あの感覚と全く同じだ。
気づくと雨澤は電話をかけていた。
「あ雨澤です。」
「おう気に入ってもらえた?」
「無理です。」
「へ?」
「助けてください神谷さん。」
「おいおい何よ…。」
「居ます。絶対居ます。」
「だから何が。」
「曽我のマンションに居た奴です。」
「なに…。」
「同じ奴かどうかわかりません。けど同じ感じがするんです。このホテルに居ます。」
「わかった。いまホテルか。」
「はい部屋の中です。」
「鍵は。」
「かかっています。開けていません。」
「本当に鍵かかってるか?すぐに調べろ。」
雨澤は部屋の入り口、そして窓の鍵を調べる。
すべてかかっているはずの鍵。しかしベランダに通じる窓の鍵は開いていた。
「開いてます…。」
「部屋に誰かいるか。」
「んなもん分かりませんよ!」
「すぐに鍵のかかる部屋に入ってそこに引きこもれ。」
「は、はい!」
雨澤は書斎部屋らしきところに駆け込んだ。
鍵をかける音
「なんなんスか…。」
「わからん…。いまその部屋に応援が向かっている。」
「勘弁して下さいよ…。」
震えが止まらない。雨澤は書斎机の下に潜り込んでガタガタと震えだした。
しばらくして物音が聞こえた。
「アニキ!雨澤アニキ!」
次郎の声が聞こえた。
あの強面の連中が自分を助けに来てくれた。これほど頼もしいものはない。
雨澤は安堵のあまり立ち上がることができなかった。
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「はい、ドリップのショートね。」
古田がマグカップを持って朝戸に前に座った。
ここは金沢駅隣接のファッションビル一階。コーヒーチェーン店のオープンテラスだ。
「あぁ何から何まですいません。」
「いや気にしないでください。それにしてもなんなんですかね。さっきまでからっと晴れてたのに、急にこの雨。せっかくのオープンテラスが一気に辛気くさくなってしまった。」
どうぞと促され、朝戸はそれに口をつける。
「うん。苦い。」
「あれ駄目でした?」
「いや。久しぶりにここの店のコーヒー飲みました。がつんって来ますね。マズいわけじゃないんです。これはこれで良いですよ。」
「良かった。天気も併せて、完全に下手打ってしまったかと思いました。」
「奢ってもらってんのに、それダメ出しするほど感じ悪くありませんよ自分。それに天気はどうにもなりません。」
「なら良いんです。」
「本当にありがたいことだと思っています。」
「…。」
にやりと笑って古田もまたコーヒーを一口飲む。
「ところでここで何を?」
「…。」
ー久美子を監視する理由が言えない理由があるってわけか…。
「野暮でしたね。すいません。」
「いえ…。」
妙な沈黙が二人の間に流れた。
「藤木さん。」
「…はい?」
「孤独ってどうしようもないですね。」
「孤独…ですか。」
「はい。」
「藤木さんご家族は?」
「いました。」
「いました?」
「ええ。妻と娘がひとり。ですが随分前に愛想尽かされて出て行かれましてね。今の私は天涯孤独の老人です。」
「そうでしたか…。」
「ただ仕事とかそれにまつわる人間関係が自分を紛らわしています。朝戸さんは?」
「自分は母親が居ます。」
「じゃあ孤独ではない。」
「そうです。藤木さんに比べれば全然孤独じゃない。だけどものすごい寂寥感が自分を覆うんです。」
「それが孤独と…。」
朝戸はうなずく。
「よくわかんないですね。それは孤独とは言わない。孤独をただ感じているだけです。事実はそうじゃない。」
「事実が大事なんですかね。」
「と言いますと?」
「実質的に自分は孤独です。」
「実質的な孤独?」
「はい。」
「はて…。」
「信頼関係を構築しているような見た目。でも結果的には良いように使われてポイ。そういう運命なのは分かっている。」
「なんです?もしやお仕事の悩みですか?」
「それと似たようなモノです。救いを求めて友人を頼る。彼は親身になって自分の訴えに耳を傾けてくれた。彼は出来ることはないかと必死に考えてくれた。そしてあれこれと世話を焼いてくれた。でも。」
「でも?」
「それも見せかけ。その背後に別の意図があった。」
「なんと…。」
「それを知った瞬間。藤木さんはどう感じますか。」
「…。」
「自分は何かにすがるしか希望を見いだせなかった。」
「何にすがったのですか。」
「その彼の表向きの好意にすがりました。」
「なぜそんな見せかけの好意に。」
「彼は自分の孤独を埋める術を持っていた。」
「それは?」
「事故で(死んだ妹の姿ですよ)…。」
黒塗りの車がテラス前の金沢駅ロータリーに何台か横付けした。
かと思えばそこから強面の男たちが数名降りて、目の前の高級ホテルに走って行く。
それを見た古田は呟いた。
「仁熊会…。」
「え?なんて?」
「あ…いや、なんでしょうかね。物騒ですな。」
「…ですね。見た感じヤクザっぽかったですが…。」
「ですよね。」
「まさか組同士の構想とかですかね。」
「だったらヤバいですね。ここは早々にずらかりましょうか朝戸さ…。」
朝戸と席を立ったときのことである。
今し方仁熊会の連中が入っていったホテルからサングラスをかけた白人の男がひとり出てくるのを目撃した。
「どうしました?藤木さん。」
「え?」
「大丈夫ですか?」
「え?ワシ?」
「はい。」
「自分、なにか変ですか?」
「ええ。手が震えていますよ。」
「はい?」
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「Что это за парни? なんだあいつら。」
イヤホンを耳に刺しホテルを出たベネシュは呟く。
「Якудза "дзинюкай". ヤクザの仁熊会です。」
「дзинюкай?」
「Да.」
「Только не говори мне, что ты испортил уборку за Саэки? まさか冴木の後始末をしくじったのか?」
「Нет. Невозможно. いえ。ありえません。」
「Пожалуйста, не разрушайте мой замок. 頼むから俺の城を荒らさないでくれよ。」
ベネシュはそのまま金沢駅の地下に進む。
あまり人気の無い地下には制服姿の警察官が数名、死角となるようなところを重点的に調べていた。
「Я вижу. Общественная безопасность располагает некоторой информацией о терроризме...
なるほど。公安はある程度テロの情報を掴んでいるか…。」
「Как мы можем успешно завершить эту часть проекта?
Давайте посмотрим. Майор Зинкава.
ここをどうやって見事完遂させるのか?
見物だな。ジンカワ少佐。」
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「あれ?次郎は。」
スキンヘッドの厳つい顔立ちの卯辰一郎が部屋に入ってきた。
神谷はパソコンの画面を見たまま、一郎とは目を合わさずにそれに応える。
「雨澤の様子見に行った。」
「雨澤さん、なんかあったんですか。」
「俺が曽我のマンションに行ったときに居たって言ったろう。」
「プロらしき連中ですか。」
「うん。そのときと同じ空気を持った奴が雨澤のホテルにいるらしい。だから次郎に向かわせた。」
神谷の携帯が鳴る。
「おう次郎どうだ。」
「オールクリアです。」
「雨澤は。」
「駄目です。ガタガタ震えて立てません。」
「仕方が無い。場所変えよう。とりあえずウチまで連れてきてやってくれ。」
「はい。」
「何か変わったことは。」
「ベランダに通じる窓の鍵が開いてます。ほかは問題ありません。」
「それは雨澤も言ってた。なんでだろう。」
「調べます。」
「頼む。」
「あと雨澤のアニキ気になる事言ってまして。」
「なんだ。」
「白人を見たと。」
「白人?」
「ええ。そいつが例のおっとろしい感じを出してたって。で、自分まさかとおもってヤドルチェンコじゃないかって聞いたんです。」
「で。」
「違うようです。ヤドルチェンコの顔は雨澤アニキも作業中ずっと見てるんで分かるはずなんで間違いは無さそうです。」
「あいつ変装とかしてるって次郎、言ってたけど。」
「その変装の具合もアニキ見てるんで。」
「そうか…。」
「こいつも誰か調べます。」
「頼んだ。」
神谷は電話を切った。
「ま、こういうことだから一郎。雨澤のホテル手配してくれないか。」
「はい。」
「ところで早い帰還だね。もう分かった?朝戸。」
一郎はコピー用紙の束を神谷の前に差し出した。
「朝戸慶太。1977年東京生まれ。父雅也、母千鶴の間に長男として生まれる。沙希という妹がひとりいます。東京の有名私大を卒業するも就職先に恵まれず、現在はフリーターです。」
「氷河期直撃世代か。」
「はい。朝戸の性格は一言で言えば明るい。バイト先の評判も悪くありません。父の雅也は6年前からがんを患っておりまして、母の千鶴はその看病で家に籠もりがち。朝戸家の稼ぎは慶太のバイト代、両親の年金であり裕福でもなく貧困でもなく、平均的な経済状況です。」
「あれ妹は?」
「妹の沙希は6年前に横断歩道を渡っていた際のひき逃げ事故で死亡しました。」
「それは気の毒だな。犯人は。」
「こちら未解決でございます。」
「未解決?」
「実はこの未解決事件について気になる情報が入ってまして。」
卯辰一郎は当時、朝戸慶太がひき逃げ事件の捜査が不十分であると何度も警察署に抗議に来ていたことを神谷に報告した。
「具体的にどういった点が捜査不十分だと言うんだ。」
「慶太曰く真犯人は当時の警察幹部の息子だ。」
「え?」
「証拠として写真も持ってきていたそうです。ですが再捜査はなしだったそうです。当時の関係者から聞きました。」
「その写真は?」
「わかりません。捜査していないのでそれは警察方には残っていません。」
「その当時の警察幹部ってのは?」
「白銀篤(しろがねあつし)。」
「白銀?」
「はい。」
神谷は記憶をたどる。かつては警察キャリアとして自分の立ち位置を見極めるために、諸先輩たちの名前と役職、その派閥など自分なりの人物名鑑を作成していた。なので幹部連中の名前はほぼ網羅している。しかし彼の記憶には白銀という人物はない。
「ひょっとしてこのことと先日のノビチョク事件に何らかの関係があるんじゃないかって考えたんですが、あの事件で殺害されたのは6年前にここの県警本部本部長だった最上です。最上と朝戸について調べても彼らに何らの関係も見いだせません。」
「…。」
「なのであの事件は怨恨によるものとは考えにくいと思います。」
「他には。」
「朝戸はコミュに参画しています。」
「コミュ?」
この単語は神谷の警戒感を高めた。
「はい。インターネットサークルのコミュです。6年前にここ金沢で起こったテロ未遂事件の大きな要素となったコミュです。」
「そうだな。」
「あのコミュの東京オフというイベントがありまして、そこに朝戸は参加しています。」
「いつの話だ。」
「2013年です。7年前。例の事件が起こる1年前です。」
鍋島・朝倉事件の一年前にこの朝戸はコミュと接点を持っていた。つまりインチョウこと下間悠里と接点を持っていたということになる。下間悠里はツヴァイスタンの工作員。コミュは彼の工作活動の拠点となっていた。そこに朝戸が加入していたのである。
「コミュにおける朝戸の様子などは。」
「誰にでも努めて明るく接していたようです。」
「努めて明るく?」
「若干無理してるのではないかと思われる節もあったようで。」
「コミュ内で特に親密な関係になっていた人物とかはなかったか。」
「光定公信。」
「光定公信?」
「はい。」
「あれ?聞いたことあるぞ。」
一郎は写真を神谷に見せる。
「昨日、石大病院において遺体で見つかった光定公信医師です。」
「そうだよな…。」
「ある程度調べて情報を整理してからカシラにあげようと思ったんですが、ささっと調べてこれだけ出てくるので、この段階でご報告に上がりました。」
「なんだこの朝戸って奴は…。」
「本当になんだこいつです。掘ればどれだけでも出てきそうです。」
「ツヴァイスタンと非常に濃い関係があるコミュ。」
「そこに出入りする朝戸と光定。」
「ノビチョクなんて代物は一民間人が手に入れることが出来る代物じゃない。」
「ただツヴァイスタン経由で手にれようと思えば、出来なくもない。」
「コミュの残党による工作活動がいまだに健在であるならば。」
「ですね。」
神谷は時計を見る。
まだ30日の10時だ。野本からの朝戸調査依頼は2日間。しかし朝戸がノビチョク事件なんて重大事件の犯行を行った人物であるとしたら、そんな悠長なことは言ってられない。
「一郎。次は6時間後に報告してくれ。もしそれまでに緊急を要する情報があればかまわす俺に連絡入れろ。」
「了解。」
一郎が部屋を出て行くのを見届けて、神谷は電話をかけた。
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