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マウスホイールをころころと転がし、SNSのタイムラインを流し読みする椎名の目が「日本大好き」という名前のアカウントを補足した。
ーちうつょえひいしなはひうじょんくょふ
ここで椎名の動きは止まることは無い。
他愛もないポストの連続だと言わんばかりに、椎名はタイムラインを下へ移動させた。
この部屋には自分以外の誰もいない。あるのはデスクトップ型のパソコンと部屋の四隅に設置されたカメラだけ。
椎名は大きくため息をつく。次いで首を前後左右に動かす。こうやって肩をほぐすそぶりを見せながら部屋の様子をうかがった。しばらくしても外から何の反応もなかった。
再びモニタに目を移しタイムラインを流すと、日本大好きのアカウントを再度目にした。
「2番目じゃだめだ。1番でないと意味がない。1番でないと支配される側に回る。支配される時代は終わった。」
これには椎名は特別反応を示さず、手を止めることなく画面をスクロールさせる。
ーまたもシーザー。
シーザー暗号は各文字を一定数だけシフトする方法。例えば「れもん」と言う単語がある。この言葉のそれぞれを1つ次へシフトすれば「ろやあ」となる。発行元はこの「ろやあ」の暗号文とその暗号鍵を受け手に伝えることができれば元の意味が伝わるというわけだ。
極めてシンプルな暗号であるため実用的ではない。しかし、現在椎名が置かれている立場では複雑な暗号手法は取りにくいため、隠喩以外の方法ではこういったものしか採用できない。
「日本大好き」は暗号鍵を1番としたポストをしており、これを受けて椎名は暗号文を解読するに至った。
ーちうつょえひいしなはひうじょんくょふ
ー隊長は朝戸の排除を拒否。
「あ痛たたたた…。」
声を出して椎名は目と目の間を指でつまむ。そして目を瞬かせた。
「どうした。」
部屋の中に片倉でも百目鬼でもない男の声がこだました。
「さっきから目が乾燥するんです。多分疲れ目です。」
あー痛いと言って椎名は隅にあるあるカメラの方を向いて、目をパチパチとしている。
「目薬はいるか。」
「いや結構です。」
ところでここしばらく百目鬼さんと片倉さんの声を聞いて居ないのですが、どうしたんですかと椎名は尋ねた。するとスピーカーから片倉の声が聞こえた。
「居るよ。ずっと居る。」
「あぁいらっしゃったんですか。」
「お前ひとりにさせるわけにはいかんやろ。何せウチの司令官なんやし。」
片倉の横に座り、椎名に目薬を勧めた男は席を立って部屋から出て行った。
「朝戸はどうですか。」
「行方不明。」
椎名はモニターに表示される時計を見る。時刻は14時を回ろうとしているところだ。
「空閑の逮捕、朝戸の失踪。チェス組がここに来て壊滅状態となると流石のヤドルチェンコも中止にするかね。」
「それはさせません。一網打尽にする。これがお約束ですから。」
そろそろヤドルチェンコと連絡を取りたい。そう椎名は片倉に言った。
大きく鼻呼吸をした片倉は別の捜査員に視線をやった。彼は片倉の意を汲んだのだろうか、軽く頷いた。
「どういうふうに仕向ける。」
「空閑が公安にパクられ、朝戸も失踪したと事実を告げます。以後、私が指揮を執ると。」
「不審がられないか。」
「ここまで来て撤退する方がリスクが高い。そう説き伏せます。」
「なるほど。」
さてはヤドルチェンコの逃げ場を無くすために、今の今まで奴と連絡を取らなかったのか。そう片倉は椎名を勘ぐった。
「ヤドルチェンコの居場所も抑えてくれないか。」
「そのつもりです。」
机に置かれていた携帯を手にした椎名はそれを耳に当てた。
呼び出し音
呼び出し音は片倉の居る部屋のスピーカーにも流れた。
「どうした。」
「緊急事態だ。ビショップが公安に逮捕された。」
「何だって!?」
「まだある。ナイトがここに来て失踪した。」
受話口から嘆息が聞こえた。
「ということは今回のテロは公安特課の知るところと言うことか。」
「そういうことだ。」
「どうする。」
「ビショップからはどういう話になっているんだ。」
「不測の事態が発生したときはキングの指示に従えと…。」
椎名は頷いた。
「ならば話は早い。作戦は続行する。」
受話口が黙った。
「ここで作戦を中止することは空閑の意思に反する。」
「仁川の奪還か。」
「そうだ。」
ヤドルチェンコの反応が薄い。
「いいか。ビショップとナイトいう二人の人員が欠けただけだ。ミッションはそのまま遂行する。それだけのことだ。」
「しかし…。」
「その君の懸念はなんだね。」
「ビショップの脱落は作戦そのものにさほど影響はないが、ナイトが居なくなるとなると、例の合図はどうするんだ。こちらはあれで一斉に行動を起こすんだが。」
「代わりになるものを用意する。」
「代わりとは?」
「俺がそこに行く。」
この椎名の発言に片倉は身を起こした。
「あんたが現場に?」
「あぁ俺がそこでナイトの代わりにやる。」
「待てあんたがやることないだろう。あんたはあくまでもオフラーナの…」
椎名はヤドルチェンコを遮った。
「あぁそうだ。オフラーナとして空閑の計画を補佐しそれを実現する。これが俺の役割だ。そのために俺は仁川の信奉者である空閑と接点を持った。ツヴァイスタンを出国したときから俺は、この任務をやり遂げることだけを使命としている。空閑の望む仁川の解放はツヴァイスタンとしても勝ち取りたい成果だ。ここにきてひとりの役者が欠けたってだけで作戦をドタキャンしましたは通用しない。」
「…。」
「なにか?」
「わかった。」
ナイトが失踪した今、先ずは奴の合図を無効化する必要がある。その対応をすぐにして欲しい。こう椎名は言った。これにヤドルチェンコは承知したと言った。
「ところで朝戸の合図って言うのは何だったんだ。」
椎名は尋ねる。
「あぁあれ…。」
少し間があった。
「あれはスマホを起爆装置にした爆破だ。」
「爆破?金沢駅に爆発物を仕掛けたのか。」
「いいや。駅に一台の車両を突っ込ませる。それを目視したナイトがドカンって算段さ。」
「その後は。」
「ウ・ダバが大挙して一斉に金沢駅を襲撃。無差別に血の雨を降らせる。そのために手段は選ばない。派手にやるために様々な武器を使う。以上だ。」
あまりにも単純であるが、朝戸の合図の後の行動が野蛮だ。人間の感情を捨て去ったかのようなこの無慈悲な計画に片倉は戦慄を覚えると同時に、ある種の幼稚さを感じざるを得なかった。
「その合図が俺に代わるだけだ。そうすればお前さんも指示の修正に手間はかからないだろう。」
「ああ、助かる。」
で、その肝心の合図はどうするんだ。こうヤドルチェンコは問うた。
「ビショップと同じだ。その起爆装置を俺にも寄こせ。」
答えにしばしの間が空いた。
「スマホを利用した起爆装置と言ったが、それはローカルでしか動かないものではなかろう。」
「そうだ。」
「ウェブサイトを経由して起爆装置を作動させる類いのものであれば、ナイトに教えたものを少し細工すれば、無効化もできるし、俺にそれをそのまま渡すことも可能であろう。」
「流石お見通しだな。」
「基本だ。」
「わかった。細工できたらそこにURLを送る。」
「助かるよ。」
ところでと椎名は切り出した。
「君はどうするんだ。」
「どうするとは?」
「ウ・ダバの指揮を執るんだろう。現場にはいつ入るんだ。」
「もう入っている。」
別室で二人のやりとりを聞いている片倉の動きが止まった。
ー金沢駅に入っているだと?
ヤドルチェンコは小松駅近くのホテルに滞在しているとの情報が、先ほど神谷からもたらされた。この情報については片倉はまだ椎名と共有していない。これはまだ片倉の段階で止まっている。
「なんだ妙に詮索するな。」
「いや、ビショップの計画を引き継ぐわけだから、ある程度の状況を把握しておかねばと思ってさ。」
「心配するな。問題ない。仕事はちゃんとやる。」
「ナイトについては発見次第、処分してくれ。」
電話を切った椎名はそれを静かに机の上に置いた。
「こういうことです。」
部屋の扉が開かれて片倉が入ってきた。
「朝戸を処分ってのは、ちょっと過激な指示やな。」
「ここで生け捕りにせよと指示を出すと勘ぐられます。」
「まぁそうか…。」
だが警察という立場上、殺人を推奨することはあってはならない。今の椎名の発言は聞かなかったことにするというのはできかねる。こう片倉は椎名に言った。
「ではどうすると?」
「あとで追加する。お前の罪状に。」
「それで結構です。」
肩をすくめた片倉は椎名と向かい合って座った。
「車を突っ込ませて爆破ね。」
「私の方でタイミングを図って起爆させます。施設に被害が及ぶでしょうが、人的被害は出ないでしょう。なぜなら市民の誘導はその時点で済んでいますからね。」
「そうだな。」
「この爆破を合図にウ・ダバの連中は金沢駅になだれ込んで、銃を乱射し出すでしょう。そこを先ほどの打ち合わせ通りSATと機動隊で制圧し、一斉検挙としましょう。」
「ヤドルチェンコはすでに金沢駅におるって言っとったな。」
「近くに居るはずです。」
片倉は椎名の目を見つめた。
「何です?」
「…いや、何でもない。」
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外の雑踏
「奴は別に任せる。」
「…そうか。」
「合図を待て。」
「合図とは。」
「追って知らせる。」
「了解。」
短い電話のやりとりを終えた彼は、きびすを返した。
「よう。」
こちらに向かって手を上げる小太りの機動隊制服姿の男があった。
「あぁ勇二。どうした。」
「どうだ。例の捜査の方は。」
男は首を振って勇二と呼んだ男に応えた。
「わかンねぇな。」
「わからない?」
「あぁ。俺はお偉方の思惑って言うのかね。よくわからん。」
「何考えてるかわからないってか?」
「まぁそうだ。」
自分は特高と言われる片倉班長の側に直接お仕えしている身だ。
現場機動隊の君に情報を共有することは守秘義務違反にあたると思うので、話はこれくらいで勘弁してくれないか。君もこの仕事をやって長いだろう。詮索無用だ。男はこう言って、勇二に背を向けた。
「大丈夫か。」
背後から勇二は男に声をかける。
「顔が土気色だ。体調悪いんじゃないか。」
男は背を向けたまま肩をすくめて応えた。
「誰に電話や。」
男は足を止めた。
「機動隊の俺がお前のところに首を突っ込むなんてお門違いも甚だしいだろうけど、見てしまったからには聞かないわけにはいかない。誰に電話や。」
「…。」
「おい。」
「家族。」
「家族?」
「そうだ。」
勇二は黙って彼の背中を見つめた。
お前の唯一の家族である母親は認知症で施設に入っているはずだ。
その母親に合図を待てとは、一体どういうことだ。こう言葉に出そうとした時だった。彼はそのまま逃走しだした。
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