オーディオドラマ「五の線3」

187.1 第176話【前編】


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「片倉班長。報告が。」

神妙な面持ちで捜査員のひとりが片倉に耳打ちした。

「先ほどまでここに居た捜査員が逃走しました。」
「なにっ?」
「署内で電話をする奴の姿を見た同僚警察官が声をかけると、ごにょごにょ言ってその場から走って逃げだしたというものです。」
「簡単に説明してくれ。」

片倉の代わりに椎名の対応をしていた捜査員が、署内で「合図を待て」とか「追って連絡する」と電話で話す姿を同僚警察官が見たので声をかけた。その同僚警察官は彼が公安特課、とりわけ現在の片倉の側に仕えていることを知っており、そんな彼が妙な電話をしているもんだと不審を抱いたのだ。
電話の相手は誰かと尋ねると、彼は家族だと返した。しかし彼の家族は施設に入っている認知症の母親ひとりであり、その応えは明らかに嘘だった。それを指摘しようとしたところで、彼はその場から走り去ったというものである。

「目薬の男ね…。」

独り言を呟いた片倉は腕組みをして口をへの字にする。報告に来た捜査員は片倉の言葉の意味が分かりかねる様子だった。

「あの…追いましょうか。」
「いや、いい。」
「は?」
「放っておけ。今はそれどころじゃない。」
「しかし…。」
「手配だけはしておけ。今はそんなことに戦力を割くことはできん。」
「報告してきた機動隊員が、できることなら自分が捜索したいと申し出ていますが。」
「今はその機動隊員にひとりの欠けも許されん状況や。申し出は嬉しいが今は遠慮してくれ。」
「わかりました。」
「あと富樫さんをここに呼んでくれ。」

捜査員の背中を見送った片倉は呟いた。

「合図…。」

「居るよ。ずっと居る。」
「あぁいらっしゃったんですか。」
「お前ひとりにさせるわけにはいかんやろ。何せウチの司令官なんやし。」174

「このやりとりの後に、俺の隣に座っとった、目薬男が部屋から出ていった…。」

空席になっている目薬男の席に片倉は座り直す。

ドアが開く音

「お呼びでしょうか。」
「マサさん。あんたずうっと椎名のことを監視しとったんやよな。」
「はい。」
「ほやけどあいつは俺らに勘づかれんように外部と連絡を取りあっとった。」
「はい。」
「あいつの携帯とパソコン調べて、それについて何か新しいことは分かったか。」

富樫は首を振った。

「何の痕跡もありません。きっとこれら端末を使って空閑や光定、朝戸らと密に連絡を取っていたんでしょうが、それを示す決定的なもんをなにひとつ見つけられませんでした。」
「そうか…。」

片倉は目の前のモニターに映し出される椎名の姿を見たまま唇を噛んだ。

「しかしそういった電子的通信情報の痕跡を消すようなことまであいつができるとは私は思いません。これにはかなりの専門的知識と技能が求められます。したがってその手の通信に関する痕跡の消去は、椎名以外の人間によってなされていたものと考えます。」
「となると?」
「ネットカフェです。」
「爆発したあのネットカフェか。」

富樫は頷く。

「あのネットカフェっちゅうか、あの手のプライバシーが一定程度確保された空間で、なんらかの協力者と接触し、そういった端末の情報メンテナンスを受けていたものと。」
「専門的な処置か。」
「はい。先ほども申したとおり、奴のパソコンの使用経過を監視カメラで見る限り、椎名がそこまでの技能を有しているとは思えません。そんな奴が私の監視の目をかいくぐってあれら端末にその手の処置を施すのは能力的にそうですが、物理的に無理でしょう。」
「あいつにはなんらかの人的協力者が常にいた。」
「はい。自分はそう思います。我々の目をかいくぐる人的ネットワークを密かに構築。で、このネットワークに自分では手に負えない諸々をアウトソース。ネットワークの情報セキュリティは非常に強固で、ここから外部に漏れることはない。この組織力、統率力が椎名の恐るべき能力であると私は考えております。」
「となると目薬もそのひとつか…。」
「目薬?」
「ああ。」

富樫ははてという表情である。

「マサさん。」
「はい。」
「あの男。」

こういって片倉は顎をしゃくってモニターに映る椎名を指した。

「いまもこの環境下で、そのネットワークを構築し運用しとる。」
「え…。」

富樫は絶句した。

「奴の協力者はついさっきこの場から逃走した。」
「なん…と…。」
「やっぱり椎名の監視は俺じゃなくて、マサさん。あんたにお願いせないかんかったようや。」

片倉の表情から後悔の色が見て取れた。

「くそ…。嵌められた…。これがこいつの計算やったんや。」
「班長…それはどういうことで?」

ふうっと息をついた片倉は心を落ち着かせようと必死である。

「いままで監視役一筋やったマサさんは、椎名の背信行為に傷ついた。んでそのやり場のない感情を端末の解析に全て注ぐ。椎名の監視のプロは自発的に監視対象から距離をとった。」

傷ついたのは確かだが、その表現はいろいろ誤解をうむので訂正を依頼しようとした富樫だったが、片倉の真剣なまなざしを見て、言葉を飲み込んだ。

「監視のプロを自分から遠ざけて、何かにつけて俺とか百目鬼理事官とコミュケーションを図ろうとする。そうすればその間の椎名の監視役は俺か百目鬼理事官になる。」
「あ…。」
「ほうや。あいつは俺らのような監視の素人を監視役として側に置くことに成功したってわけや。こうなりゃイージーモード。素人の目をかいくぐって協力者とコミュニケーションをとるなんて造作もないことや。」
「私を遠ざけてわざと片倉班長と百目鬼理事官を引きつけたと…。」
「そういうことよ。」

富樫の背中が寒くなった。バケモノだ。モニターに映るこの椎名という男は間違いなくバケモノだ。長い警察官人生でも初めて感じる種類の恐怖感が彼を襲った。

「椎名が日本に潜入しだして5年か。その間、マサさん。あんたは椎名の様子をずっと見てきた。」

確かに見てきた。しかし今の状況を迎えることになったのは自分の監視能力が無能であったためだ。こう思うと別種の恐怖が彼を覆い尽くした。

「その間、今日のこの時を迎えるまでの準備を奴は整えとったんやろうけど、おそらくマサさん。あんたがどうにも邪魔やったんやろうな。んであんたを自分の監視役から外させるようにこいつは仕向けた。」
「考えすぎのような気もしますが…。」
「そうだ。そうに違いない。いよいよ本番っていう時に、自分の手足を自由にするために枷となるあんたを別の方面に異動させた。すべて計画通りやよ。」

現にいまのこの状況がこうだ。こう言って片倉は肩をすくめた。

「バケモンですな。こいつは。」
「ああバケモンや。」
「一体、どんな訓練を受ければこうなるんですか。」
「ツヴァイスタンの工作員がみんなこのクオリティやとしたら、もう世界はあいつらの意のままや。」
「確かに。」
「けど世界はそうじゃない。」
「班長…何をおっしゃりたいので?」
「なんか見えてきた気がする…。」

ここで片倉の携帯が震えた。
胸元からそれを取り出した彼は、そこに表示される名前を見てしばらく動きを止めた。

ー京子?

娘の京子が仕事中の片倉に電話をかけてくることは基本ない。その彼女からの電話。嫌な予感がした。

「もしもし。」
「お父さん。わたし。」
「どうした。」
「ウ・ダバのアジト見つけた。」
「なに言ってんだ…京子。」
「朝戸慶太がそこから逃げ出した。」
「あさと…けいた…。」

富樫は険しい表情でただならぬ様子の片倉の顔をのぞき込んだ。

「京子…お前大丈夫なのか。」
「大丈夫。私、いま三波さんと一緒にいる。二人とも無事よ。」
「しかし京子、どうして…。」
「話すと長くなるから。」

京子のこの短いセリフは妙に説得力を持っていた。

「…わかった。」

片倉は詮索は後にすることにした。

「アジトは熨子山の山小屋。熨子山連続殺人事件の現場の山小屋よ。」
「熨子山!?」
「その小屋の中のウ・ダバの連中、みんな死んでいる。多分朝戸に殺された。」
「なんだって…。」
「だから誰かをここに寄こして。至急。」

携帯の送話口を片倉は手で抑えた。

「マサさん。」
「はい。」
「緊急で熨子山の山小屋に人員を派遣してくれ。」
「何名派遣しますか。」
「とりあえず熨子駐在所の人間を派遣してくれ。おって応援を。」
「了解。」

富樫は部屋の無線機を使用して指令と連絡を取り始めた。

「もしもし。いま指示を出した。」

ありがとうと京子が返事をすると電話は切られそうになった。

「待てっ。」
「なに?」
「先ずは安全確保や。お前はいまどこで何をしている。」
「私はいま、山小屋から降りてしばらくのところに居る。」
「三波は。」
「三波さんは…。」
「三波と代わってくれ。」
「あの人はいま、小屋の中にいるの。小屋のあたりは電波が悪いから私が電話できるところまで移動してきたの。」
「…。」
「どうしたの。」
「京子…。お前はすぐ近くの交番に行け。一番近くに熨子駐在所ってのがある。駐在さんがいまからそっちに向かうから、お前はその人と入れ違いで交番で待機してろ。」

このセリフを横で聞いていた富樫は同じ事を指令と共有すると言うように、片倉にむかって頷いて応えた。

「え、だって三波さんが。」
「いいからお前ひとりでも行け。三波はこっちで保護する。」
「でも。」
「すぐに!今すぐだ!」
「駄目よ!」
「死ぬぞ!」

この片倉の発した言葉に京子は黙るしかなかった。

「いいか詳しい事情はよくわからんが、お前らふたりはテロリストのアジトに足を踏み入れたんや。そこのアジトの連中は全員死んどるんかもしれんが、あいつらの情報網を甘く見るな。拠点と連絡が付かんとなると必ず状況を確認するための行動に出る。そのために仲間の誰かがそこに急行するとなると、どうなるかお前わかるやろう。」
「でも…それだと…。」
「いま駐在がそこに向かっとる。三波の保護はそいつに任せるし、応援も北署から数名出す。京子。お前ひとりにできることは現状ない。これは間違いない。だからお前はそのまま駐在所までできる限り早く移動しろ。」
「…。」
「頼む。」
「いま私バイクなの。駐在さんが山小屋に来るまで後どれくらいかかるの。」
「15分。」
「だったら私の方が早いわ。私が三波さん乗せて行く。」
「京子!」

ツーツー音

回頭し、オフロードバイクを山小屋めがけて走り出させたその時。

パンっと言う音

「えっ…。」

バイクを止めた京子の全身に鳥肌が立った。

「さっきお前さんが聞いた破裂音は銃声だ。中の人間は全員撃ち殺されている。だから中に入るな。」175

「全員撃ち殺されているって行ってたはず…。」

「あいつらの情報網を甘く見るな。拠点と連絡が付かんとなると必ず状況を確認するための行動に出る。そのために仲間の誰かがそこに急行するとなると、どうなるかお前わかるやろう。」176

「まさか、すぐ近くに別の拠点があるとか…。」

「死ぬぞ!」176

ゴクリと喉を鳴らした京子だったが、彼女はフルスロットルで山小屋に向かった。
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