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勇二との連絡を終えた椎名は商業ビルの瓦礫の中で、一息ついた。ヤドルチェンコの始末は勇二に託した。さてここから自分が取る行動は…と考えようとしたとき、かつての百目鬼とのやり取りを思い出した。
「ああそうだ。このテロ対でアナスタシアという言葉を知っているのは俺だけだ。だから案ずるな。」
「アナスタシアがどうしたんですか。」
「…。」
「公安特課はアナスタシアのどこまでを知っているんですか。」
「それは言えない。」
「彼女は息災なんですか。」
「それも言えない。」
「どうすれば教えてくれるんですか。」
「今回の結果次第だ。」
「結果次第とは。」
「何度も言わせるな。テロの防止と一斉検挙だ。」171
アナスタシア・ペトロワ。椎名賢明こと仁川征爾がツヴァイスタン人民共和国にいたときに唯一心を許せる存在だった女性。
「エレナと連絡はとっているか。」
「エレナ?」171
記憶の奥底から、エレナの顔が浮かび上がる。アナスタシアを家まで送った時、玄関先で二度か三度会っただけの少女だった。しかし、最後に見た彼女の表情は忘れられない。アナスタシアがオフラーナに連行される日のことだ。自宅の窓からこちらを睨みつけるように見つめていたエレナの目は、憎悪に燃えていた。その視線は、まるで「姉を売った裏切り者」として彼を糾弾しているかのようだった。
その記憶が鮮明に蘇り、椎名は内心で僅かに眉をひそめた。その瞬間、彼の中で問いが湧き上がる。あの場にいたのは彼とアナスタシア、そしてオフラーナの連行部隊だけだった。エレナの存在やその表情は、他の誰も知り得ないはずだ。それなのに、百目鬼がその名前を持ち出してきた。どういうことだ?
——ブラフだ…。
椎名は心の中で呟いた。
百目鬼は、椎名がどのように反応するかを注意深く観察し、彼の内面や本音、さらには公安特課に対する本当の協力姿勢を見極めようとしていたのだろう。つまりあのブラフは椎名を単なる情報提供者、もしくは作戦指揮者として扱うのではなく、彼の動機や忠誠心を試すものであったと言えよう。
その一方で、百目鬼は椎名の実力やスキルに一定の評価を与えていたことも明らかだ。
彼のツヴァイスタンの内部事情に関する情報や戦術についての豊富な知識と経験は、公安特課の任務遂行において極めて有用なリソースとして活用されている。
実際に椎名は金沢駅でのテロ対策に関して具体的かつ現実的な作戦を立案しており、そのプランは現場での実効性が高いもので、百目鬼もその有効性を認めている。
とはいえ、百目鬼は椎名を全面的に信頼しているわけではない。
むしろ百目鬼は、椎名が何らかの隠された意図を持っている可能性を強く警戒している。
しかしそれを百目鬼は知り得ない。
そこで百目鬼は椎名に協力を求める一方で、「変な気を起こすな」と牽制、公安特課の利益が損なわれる場合には、即座に対抗措置を講じるとの意思を示したのではないか。
——信用せずに信頼する…か…。
「いや……。」
椎名は顔をしかめ、頭をかきむしった。ブラフだと決めつけようとする自分の意識が、真相を否定するための言い訳にしか思えなくなってくる。今改めて考えると、百目鬼がエレナという名前を出した時の表情、言葉の選び方、それらの全てが不自然に感じられた。あれは本当にただの心理戦だったのだろうか?
——もし違うとしたら——?
その問いが頭を離れない。百目鬼がエレナの名前を使った理由が単なる揺さぶりではない可能性。それは椎名にとって、警戒を強めなければならない状況を意味する。もしも百目鬼がエレナに何らかの接触を図っているのなら、それが直接的であれ間接的であれ、何らかの形で公安特課がエレナを捉えているのだとしたら……。
エレナはあの時の記憶の中で止まったままだ。アナスタシアが連れ去られるその瞬間、窓越しに自分を見つめていた彼女の憎悪に満ちた目。その視線が再び現実のものとなったなら、自分はどう動けばいいのか。あるいは、動くべきなのか。
思考を巡らせても答えが出る気配はなかった。
百目鬼の言葉が脳裏をよぎり、幾重にも疑念が渦を巻く。エレナという名前が指し示す真実を突き止めるべきか、それとも一度この感情を封じ込めるべきか。だが結論は明白だった
——動くことでしか物事は進まん。
椎名は立ち上がった。疲労が全身に重くのしかかり、思考の歯車を鈍らせる。
幾つもの作戦を立案し、公安特課の監視に気を配りながら進む日々は、肉体と精神を確実に削っていた。ツヴァイスタン人民軍で鍛え抜かれた椎名でさえ、この状況は耐えがたいものになりつつあった。
——疲れすぎた。休息と補給が必要だ。
そう判断した彼の視線は、従業員通用口へと向けられた。ここは商業ビル。テナントのバックヤードには、彼の必要とする「それ」があるだろう。
だが、ビル全体には警察が配備されている気配が漂っている。最上階で起こった朝戸による銃乱射を受けて、その処理にかり出されたのだろう。彼ら以外にSATや公安特課、特殊作戦群も潜んでいるかもしれない。このビルが「安全地帯」であるはずはない。
椎名は深く息を吸い込み、意識を周囲の環境と同化させた。
ビルの薄暗い廊下を進む足音は、吸音材にでも覆われたかのようにかすかだ。
廊下の角を曲がる際、視界の端に一瞬、制服を着た警官が立つ姿が映った。椎名は即座に動きを止め、廊下の陰に身を滑り込ませる。呼吸を抑え、壁に耳を押し当てると、警官が無線で話している声が微かに聞こえる。
「……このフロアは異常なしだ。下の階を確認する。」
警官の声が消え、足音が遠ざかっていく。それを確認してから椎名は慎重に陰から顔を出し、周囲を確認する。
従業員専用の出入口に辿り着いた椎名はその扉に耳を当て、向こう側の音を慎重に探った。人の気配はない。静かにドアノブを回し、わずかに隙間を開けると、バックヤード独特の消毒液の匂いが鼻をかすめた。慎重に中に入り、壁をつたうように移動しながら周囲を確認する。
やがて従業員休憩スペースの様な部屋にたどり着いた。
そこには冷蔵庫があり、中にはペットボトルの水や、簡易的なエネルギーバー、さらには紙パックのジュースなどが並んでいた。椎名は手際よくそれらを選び取り、必要最低限の物だけを持ち、再び気配を消してその場を後にする。
腹に収めた栄養がじわじわと体に染み渡り、疲れ切った体がかすかな活力を取り戻していく感覚を覚える。完全に疲労が抜けるわけではない。腕や足にはまだ鉛のような重みが残り、思考も薄い霧がかかったようだ。それでも、椎名は目の奥に少しずつ灯る鋭さを感じ取った。流れを断たれた歯車が再び噛み合い、遅々としながらも動き始めるような感覚。腹部に暖かさを覚えると同時に、脳裏には次々と冷徹な思考が浮かび上がってくる。
商業ビルの廊下には、所々剥がれ落ちた天井板や散乱した破片が積もり、照明も半ば死んでいた。瓦礫と闇が入り混じるこの空間は、まさに廃墟。椎名はその中を慎重に進みながら、背後に感じる警察の気配を常に意識していた。どこか遠くでかすかに聞こえる無線の音や、靴底が瓦礫を踏む音。その全てが不確実性を帯びた世界に響き渡り、彼の感覚を研ぎ澄ませる。
椎名は廊下の影を辿り、物音を立てることなく動き続ける。崩れた壁や倒れた棚を器用に避けながら、その姿は闇に溶け込み、まるで存在そのものがこの場所の一部になったかのようだった。彼の背中はすでに暗がりに飲み込まれ、瓦礫の奥深く、商業ビルのさらに静寂な闇へと消えていった。