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廃墟を目の前にしたこの空間には、冷たい雨音が微かに反響していた。
瓦礫を避けながら慎重に進む吉川の視線は、常に周囲を警戒している。
「椎名はまだこの空間にいるんでしょうか。」
吉川は小さく呟いた。
「ここは包囲されている。仮に逃げ出すとしても、音も立てずにこの状況を脱するなんて無理だ。どこかで奴の痕跡が出る。」
だが、まだ何の報告もない。それはつまり、椎名はこの封鎖された現場のどこかに潜んでいるということだ。
「この途轍もないテロ事件を、たったひとりで仕立て上げた男だ。奴が動くたびに新たな脅威を生む。弱ったもんだ。」
吉川は足元の瓦礫を注意深く踏みながら、背後から聞こえる足音に気づいた。振り返ると、雨に打たれ、ずぶ濡れになった黒田が視線を落としたまま黙々とついてきていた。
「着替えよう。」
吉川が短く言うと、黒田は顔を上げた。
吉川の視線の先には廃墟と化した商業ビルがあった。
「この雨だ。こいつをしのげる服がある店を知らないか。」
吉川の問いに、黒田は一瞬考え込み、ぽつりと答えた。
「アウトドア系の店がこのフロアにあったはずです。そこで雨具を調達できるかもしれません。」
黒田がそう言った直後、ふと思い出したように「あ」と小さく声を漏らした。
「なんだ。」
「ミリタリーショップもあったのを思い出しました。あそこなら、今の自分たちにもっと合った物が手に入るかも。」
吉川は短く頷いた。
「よし、行ってみよう。」
二人が辿り着いたミリタリーショップは、瓦礫と崩れた天井板が散乱していた。
店舗の入り口には倒れたディスプレイが無造作に放置され、看板も雨水を吸い込んでくすんでいた。
吉川は店内に足を踏み入れるなり、鋭い目つきで周囲を見渡した。その視線は瓦礫や商品ではなく、何か異質なものを探し出そうとしていた。
「…ここだ。」
吉川は確信を込めて呟いた。その場に漂う微妙な違和感が、椎名がつい先ほどまでここにいたことを物語っている。
床の一角に、脱ぎ捨てられたSAT隊員の制服があった。その一部には雨で濡れたような痕跡が残り、他の乾いた瓦礫とは明らかに異なっていた。
「室内でこの濡れ方はおかしい。」
吉川はしゃがみ込み、床に残った水滴の跡を指先で触れた。それは、まるで雨に濡れた誰かが店内で服を着替えた直後のような痕跡だった。
「……誰かがここで物色した。」
吉川は棚に残った商品の乱れや、床に散らばる軍用グッズに目を留めた。明らかに最近動かされた形跡があり、それが特に新しいものであることを示していた。
黒田もその様子を見つめながら、黙って吉川の行動を見守る。吉川は立ち上がり、再び視線を鋭く周囲に走らせた。
「間違いない。奴はここにいた。」
その言葉には、確信と焦燥が入り混じっていた。
彼の脳裏に浮かんだのは、椎名という存在が孕む危険性だった。
「あの男がいる限り、被害はさらに拡大する。」
吉川は躊躇うことなくポケットから携帯電話を取り出した。通話ボタンを押すと、発信音の直後、すぐに応答が返ってきた。
「百目鬼だ。どうした。」
百目鬼の落ち着いた声が受話器越しに響く。しかし、その一言に緊張を込める余裕すら吉川にはなかった。
「吉川です。椎名は金沢駅隣接の商業ビルにいます。」
「なに…。」
百目鬼の声が微かに曇る。
吉川は間を置かずに続ける。
「商業ビルにはまだ機動隊がいると思います。」
「そうだ。」
「すぐにこの場から撤収を。」
「待て。」
百目鬼は一拍置いて反論した。
「お前ひとりより数がいた方が有利じゃないか。」
吉川は百目鬼の言葉を遮るように言い切った。
「SATが椎名ひとりにこうもやられたんです。だたの機動隊が奴に太刀打ちできるとは思えません。」
その言葉には、確固たる現実認識が込められていた。
「自分は敵を殺傷するための訓練を積んでいます。その点で、警察よりは今の状況に対応できます。」
百目鬼は受話器の向こうで短く息を呑んだようだったが、すぐに冷静さを取り戻す。
「……確かに。」
吉川はさらに言葉を重ねた。
「これ以上の犠牲は勘弁です。速やかな機動隊の撤収命令を。」
一瞬の沈黙が続いた。百目鬼は迷いながらも、吉川の言葉が合理的であることを理解していた。
「分かった。すぐに撤収を命じる。」
その一言が返された瞬間、吉川は短く息を吐き、電話を切った。
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金沢駅隣接の商業ビル内、機動隊の無線が一斉に鳴り響き、撤収命令が全員に伝えられた。
「各班、速やかに下階へ。施設周囲の車両へ集合せよ。」
階段や崩れた通路を辿り、最上階から降りてくる機動隊員たち。瓦礫が散乱し、天井から吊り下がったままの照明が揺れている廊下を進む足取りは重い。崩壊したビルの内部には、散乱する破片や商品だけでなく、爆発と銃撃の爪痕が生々しく残されていた。
その道中で、隊員たちは幾度も足を止める。目の前には、まがまがしい形で残された遺体の数々――瓦礫の下敷きになったもの、炎に焼かれて人と分からなくなったもの――その凄惨な光景に耐えきれず、顔を背ける者もいた。
だが撤収命令は最優先だ。誰も声を上げず、全員がただ無言で進んでいく。
商業ビルの外に横付けされた機動隊車両。雨に濡れるその光景は、戦場からの撤退を思わせる重苦しいものだった。
隊員たちは次々に車両へ乗り込み、無線で報告を続けていた。
「点呼します!」
その車両の一台には、救出された山県久美子と森の姿があった。
二人は車内で無言のまま座り込み、過酷な現場を後にする実感すら持てないでいた。
久美子がポツリと呟いた。
「古田さん…大丈夫でしょうか…。」
森は数秒の沈黙を挟んでから、努めて落ち着いた声で答えた。
「大丈夫よ。あの人、しぶといじゃないの。」
「……ですよね。」
久美子の返事は弱々しいものだった。森もまた、自分の言葉が空虚に響いているのを感じていた。
車両の中に漂う空気は重く、誰もが疲弊しきった表情を浮かべている。目の前の惨状に希望を見いだすことなど到底できず、絶望がその場を覆い尽くしていた。
「2名足りません…。」
機動隊員の一人が声を押し殺して班長に駆け寄った。緊迫したその声は、かえって周囲に緊張を広げることになった。
「爆発後の点呼時と比較して2名足りません。」
「爆発後の点呼時と比較して……。」
班長の顔が青ざめた。撤収の過程で人員が失われるなど通常では考えられない事態だ。だが、この混乱の中では、その可能性を否定できない。
「いかがしますか。」
班長は無線を握り締め、目を閉じる。
「……即時撤収命令だ。やむを得ない。」
久美子が隣の森に問いかける。
「社長、どういうことですか。」
その声には、不安と恐怖がにじんでいた。
「……さぁ……。」
森の言葉は途切れ途切れで、それ以上何も言えなかった。
爆発後に確認されていたはずの2名が忽然と姿を消した。この統率の取れた警察組織において、そのような不手際が起きるとは考えにくい。事故なのか、それとも……?
車両は静かに発進し、金沢駅を回り込むようにして進み始めた。窓の外には瓦礫の山、そして所々に散乱する人の形をした何か――その景色が続く。
車内の誰もが言葉を失う中、久美子と森の視線は遠くの鼓門に向けられた。
今朝の出勤時まで駅前にそびえ立っていたその象徴的な建造物は、片方が崩れ落ち、残る片方は黒く焼け焦げている。その無残な姿を見た瞬間、二人は深く息を呑んだ。
「……。」
一言も発することなく、ただ座ったままの二人。象徴的建造物が破壊された現実は、精神的な重圧となって彼らを押し潰していた。
戦場と化した金沢駅――その現実を誰も受け入れることができないまま、車両は瓦礫の街を静かに進んでいった。