オーディオドラマ「五の線3」

201.1 第190話「記憶と濁流」【前編】


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廃墟となったコーヒーチェーン店の裏手、崩れた冷蔵什器の陰で椎名はじっと雨音に耳を澄ませていた。
雨がコンクリートを叩き、遠くで崩れ落ちた什器が金属音を鳴らす。焦げた臭い、土と鉄の匂いが鼻を突き、胸に広がる。彼はふと目を閉じ、静かに記憶をたぐった。

土の匂い、鉄の味、そして水の音――
椎名の脳裏には、20年前の記憶が容赦なく押し寄せていた。
近畿地方の山奥。
仁川征爾が高校の写真部として泊まっていた山村で、深夜に土石流が襲った。
カメラバッグを抱えたまま、彼は眠っていた畳の上から突き飛ばされ、壁に頭を打ちつける。直後、濁流がガラス戸を破り、家ごと飲み込んでいった。
「たすけて!」という叫び声。
母のように接してくれた宿の女将の声だった。
炊事場の鍋が鳴る音、家畜の鳴き声、何かがぶつかる音、泥が襲いくる轟音。
助けなど来なかった。

夜が明けたとき、生き残っていたのは仁川ひとりだった。
冷たい水に打たれながら、全身泥にまみれ、呆然と立ち尽くしていた仁川。
その時、崩れた母屋から少し離れた裏手の小屋から、青年が現れた。
歳の頃は自分と同じくらいだろうか。彼は当時、民宿で雑用係として働いていた青年で、奇跡的に別棟で寝泊まりしていたことで難を逃れていたようだった。

「おい、大丈夫かい……君の名前は?」

仁川は震える声で答えた。

「……仁川、征爾……」

その青年――(矢高)は、その名を聞くと目を細めた。

「僕は○○。○○○○だ。」(ごにょごにょにする)

青年は仁川に水を与え、服を乾かし、平静を取り戻させようと尽くした。
そして仁川の様子が落ち着いたようだと確認すると、ふと虚空を見つめながら、ある決意を固めた。

「ここで少し休んでて。」

こう言って青年は仁川を山中の廃屋に匿った。そして仁川は男たちに囲まれた。

「君が、仁川征爾か」

こくりと頷くと袋を被せられ、そのまま仁川は貨物トラックに押し込まれた。
証拠隠滅のため、彼の生存の証となりそうな者は抹消され、仁川征爾という存在は、日本から完全に消された。
次に目を覚ました時には、船の甲板の上。荒れた海を越え、到着したのは異国の港。
ツヴァイスタン人民共和国。
そこから始まるのは、地獄だった。

仁川は、敵国のスパイの血を引く者、反動分子の家系として「収容再教育所」に送られた。
極寒。暗所。赤茶けた鉄格子の中、石鹸もなく、同房の男たちが食い物と暴力で立場を争う世界。
唯一の救いは、仁川が言葉をすばやく覚えたことだった。
ある日、再教育所に来た党の幹部――肥満体で、柔らかい声を発する男に呼び出された。

「この写真を撮ったのは、お前か?」

仁川のカメラに残っていた風景写真。

「いい目だ……。 芸術を愛する者は……寛容を知る」

その幹部は、歪んだ美意識と欲望を併せ持っていた。 子どものような顔立ちの仁川は、すぐにそれに気づいた。
抵抗する術はなかった。 だが仁川は、すべてを“利用”した。
痛みも、恐怖も、耐えた。
日を重ねるごとに、幹部は仁川を「芸術的な感性を持つ者」として上層部に紹介し始めた。
絵画の修復、文化遺産の記録、そして「芸術保全任務」――その裏には情報工作があった。
屈辱と怒り。
それが彼の芯を焼き、鋼のような冷静さを育てた。
仁川は徐々に、“利用される者”から“利用する者”へと変貌していった。
---
ある晩、幹部が別の少年に同じ行為をしようとしたとき、仁川はそれを密告した。
幹部は「人民の敵」として即座に粛清された。
その冷徹な裏切りを評価したのが、秘密警察オフラーナだった。
仁川はオフラーナへスカウトされ、粛清・監視・浸透工作の技術を叩き込まれた。
その中でも群を抜く才覚を見せた仁川は、やがて人民軍直属の戦略諜報部――プリマコフ中尉の目に留まった。

プリマコフは、表向き忠誠心に満ちた軍人だった。口を開けば党への感謝、国家への忠誠を口にし、いかにも典型的な「政治将校」の顔を持っていた。
だが、仁川の目はその奥にある別のものを見逃さなかった。
プリマコフは軍人として戦場を渡り歩いた男ではない。
彼は政治の水脈を読み、忠誠と媚びを巧みに使い分けて這い上がってきた類の人間だった。
そして、その出世志向の野心は、まだ軍内部では露見していなかった。むしろ今は、軍内部で「将来有望な中堅」として出世コースに乗りつつあった。

プリマコフが自分を見いだした理由も、仁川には察しがついていた。
彼は、秘密警察オフラーナの暴走を牽制するため、情報網を軍の手中に収める必要に迫られていた。
オフラーナ内部から密かに情報を引き抜き、裏から締め上げる駒――それが必要だった。
だからこそ、オフラーナで育ち、粛清の技術も知り、なおかつ冷酷無比な仁川を引き抜こうとした。

仁川は迷わなかった。
国内治安組織に留まるよりも、対外工作を担う軍組織に属したほうが、国外脱出の道が開かれる。
何より、プリマコフに取り立てられれば、その背後に控える党幹部たちの目にも留まる可能性がある――
それは、絶望的なツヴァイスタンの檻から抜け出すための、わずかな光明だった。

仁川は、あえてプリマコフの思惑に乗った。
その意図を悟られぬよう、従順な部下を演じながら。
復讐のために、すべてを飲み込む覚悟を胸に、彼は静かに人民軍の潜入スパイへと身を沈めた。

椎名は目を開ける。
外は変わらず雨だ。

「雨と言えば、あれも今日みたいな雨だった…。」

彼はふと、別の記憶を思い出していた。
それは金沢の、とあるスーパーマーケット。
公安特課の監視下の中で、椎名賢明として金沢で生活をしはじめたときのこと。
レジを終えてサッカー台で商品を詰めていた椎名の隣に、男がさりげなく近づいてきた。

「この雨はいつ止むんだ…。」

それだけを言い残して、男は足早に去っていった。
椎名はすぐに反応した。その言葉は、ツヴァイスタン軍の連絡用暗号の一節だった。
その時は確信できなかった。しかし数日後、別の接触があった。
古びた駐車場の自販機の裏、受け取った封筒の中には、真新しいICレコーダーとメモ。
メモに書かれていたのは、かつて濁流の夜、泥まみれの彼に初めて声をかけた言葉だった

――「……君の名前は。」

その言葉の下に、小さく添えられていた名。

『yataka』

「僕は○○。○○○○だ。」(ごにょごにょにする)
「僕は矢高。矢高慎吾だ。」

一瞬、時が止まったようだった。記憶の底に沈んでいた名前と、今目の前にある文字が、ぴたりと重なった。
椎名――いや、仁川征爾の胸に、長く封じていたあの夜の感触が甦る。泥にまみれ、凍えながら差し伸べられた手。
そして、あの声の主が、今なお“任務”の名のもとに、自分と繋がっているという事実。

「俺は奴に救われ、そしていま奴に命を握られている…。」

椎名は、静かに笑った。

「めぐり、めぐるものだな……」

冷え切った空間の片隅で、椎名は小さく息を吐いた。

「……誰も、助けてなんかくれなかった」

それが真実だった。
ツヴァイスタンに渡ってから、ずっとそうだった。
再教育所で暴力と飢えに晒され、ただ生きるために牙を研いだ。
幹部に取り入ったのも、情報屋として頭角を現したのも、
生き残るための選択肢がそれしかなかったからだ。
アナスタシアを守れなかったこと。
それもそうだ。守ろうと思った瞬間には、すでに彼女は連れて行かれていた。
自分の意思で裏切ったわけではない。
だが、止めようともしなかった。止められなかった。
それは変わらない。

「あれで全部だったんだ」

あの日を境に、仁川の中で「希望」という言葉は、意味を失った。
粛清。密告。潜入。
自分を拾い上げた連中を、裏切ることで階段を登っってきた。
そこに情はない。
あったとしても、見せたら殺される。
だから、見せなかった。
だから、生き残れた。
それでも、忘れられないものがあった。
それはアナスタシアの目だ。
何も言わずに、ただ黙ってこちらを見ていた。
その視線がずっと頭にこびりついている。

「……誰も彼女を助けなかった。俺も」

そして、彼女だけじゃなかった。
あの国にいた誰もが、誰にも助けられなかった。
むしろ、誰かを犠牲にしなければ、生きていけない構造が、そこにあった。
それが、あの国家だった。

「壊すしかない。もう一度、地ならししないと意味がない」

仁川がそう考えるのは、怒りだけが理由じゃない。
今さら取り戻せるものがないからだ。
正義とか、信念とか、そんなものはとっくの昔にどこかへ消えた。
残ったのは、焼けた瓦礫の上で、どう“決着”をつけるかだけ。

「日本も同じだ。」

ツヴァイスタンから帰ってきたとき、日本の警察は「保護」ではなく「監視」をした。
自分がどうして帰国できたのか。
あの災害で“死んだことになっていた”はずの人間が、何食わぬ顔で戻ってきたというのに、誰も疑問を抱かなかった。
あえて言えば、抱かなかったのではなく、抱かないようにしていた。

「そうやって、全部を忘れるのか。」

だから思った。
忘れられない出来事を、もう一度この国に突きつけてやる。
記録に残らない事件を、記録せざるを得ない規模に変えてやる。
それが、椎名にとっての「帰還」の意味だった。
彼にとって復讐とは、誰かへの罰ではない。
国家の構造そのものに対する、報復であり、再定義だった。

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