オーディオドラマ「五の線3」

202 第191話「死者の眼」


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――銃声が、響いた。
その一発で、すべてが終わったと、誰もが思った。
だが、それは、始まりに過ぎなかった。
---
瓦礫の隙間。崩れた鉄骨の陰から、黒く濡れたコンクリの地面に赤い滴が広がっていく。
勇二は膝をついていた。視界がゆらぎ、息がうまく吸えない。

「……あ……?」

指先が、胸に添えられていた。だがそこには、鋼板の感触ではなく、熱と柔らかな液体――血があった。
撃たれたのは自分だ。理解に数秒かかった。
正面には、ヤドルチェンコ。その身体は低く、銃は腰だめのまま。眉間に深い皺を寄せ、口元にはまだ煙が立ちのぼる。
迷いも、ためらいもなかった。
ただ、静かに、殺しに来ていた。
---
勇二は、何度か立ち上がろうとした。
だが、脚が言うことをきかない。片膝で支えようとしたが、折れた膝が音を立てて崩れた。
砂埃が舞う。

(こんなものか……)

思ったよりも、死は静かに近づいていた。
これまで何人も殺してきた。それでも、一度たりとも悔いたことはなかった。
椎名に命じられれば、どんな命でも奪った。
そこに思想はなかった。あるのは任務と、命令への従属だけだった。
だが、ヤドルチェンコは違う。
目の奥に燃えていたのは、生存への執念。この地に来る前に、幾つもの戦場を生き抜いてきた証だ。獣の眼光。
勇二は思った。

(この男を甘く見ていた……)

襲いかかったのは自分の方だったはずだ。それでも、先に弾を通したのはヤドルチェンコの方だった。

「……やるな……」

そう呟いた声は、自分のものとは思えないほど乾いていた。
肩に背負っていたサブマシンガンが滑り落ちる。指が引き金を探していたが、もう何も掴めない。

(少佐……)

脳裏に浮かんだのは、ただひとり。
殺しの意味を問わなかった主。必要なときにだけ現れ、命じ、そして消える。
冷たい男だった。だが、勇二はそれを信じていた。

(あんたの駒として……悪くなかった)

倒れた身体は、もう動かない。だが、眼だけは開いていた。
ヤドルチェンコの姿を、最後まで見ていた。
自分を殺した男の、その目を。

---
そのわずか数秒後。
Scopeの先で、何かが崩れているのが見えた。卯辰一郎はスナイパーライフルのレンズ越しに、その影を追った。
人影だ。肩に走る血が見える。

「……なん、だ……と……」

無線が入った。

「一郎、聞こえるか。」
「はい、一郎。」
「――相馬、落命。公安特課から連絡が入った。」

一瞬、音が消えたように感じた。今まさに、自分がScopeで見ていたものと、報告が重なる。
死が、現実になった。

「……Scopeの中に、倒れた男……相馬です……」
「やはりか……。」

神谷の声が重く沈んだ。

「撃ったのは――椎名だ。」
「椎名……?」

聞き慣れない名だった。

「公安特課に所属していた。だが、その正体は仁川征爾。オフラーナの元工作員だ。」
「仁川……?」

名前すら初耳だった。

「奴は警察と取引し、協力者として作戦に加わっていた。だが……その裏ではテロを止めるどころか、首謀者そのものだったらしい。」
「……」

一郎は言葉を返せなかった。理解しようとしても、情報が多すぎた。

「椎名はもう現場から姿を消した。今は吉川が追っている。」
---
Scopeの中に映る相馬の死体。肩口の傷から流れる血は、もはや動きを止めていた。蒼白な顔。開かない目。冷たい雨にさらされながらも、表情だけが妙に静かだった。
一郎はゆっくりとスコープから目を離した。深く息を吸う。酸素が肺に入っても、心拍は乱れなかった。
きわめて事務的。
きわめて合理的。
戦場に感情は不要だ。無線の向こうにいる神谷も、自分と同じ“感情の殺し方”を知っている。死は悲しみではなく、“情報”でしかない。重要なのは、次に撃たれないこと。それだけだ。
一郎は雨に濡れたレンズを親指で拭い、曇った息を吹きかける。何も考えず、何も感じないようにして、次の動きを探ろうとした――その時だった。
感覚が爆ぜた。
背中に粘つくような視線。空気が変わった。“誰かが、こちらを狙っている”。

(……この感じ……)

かつてのアフガン。夜間の斜面。味方部隊の背後から、ひとつ、またひとつと消えていく影。
撃たれた音は聞こえなかった。誰も、何も見ていないはずだった。だが、気づけば隣にいた兵士がいない。一郎はその時、初めて知った。

「戦争には“音”がないことがある」と。

ムジャヒディーン。忍びのように潜み、音もなく殺す戦士たち。視線を感じたときには、すでに狙われている。引き金が引かれるのを察知した時には、もう脳漿が地に広がっている。
そこにあるのは、兵士の強さではない。**人間の本能を突き詰めた“獣の知性”**だった。

(……いる。ここに“あの手”の奴が……)

背筋が凍りつく。皮膚の下で、血管が細く収縮する感覚。
その一方で、胸の奥に微かな熱が灯る。

(――来る!)

即座に伏せ、転がる。身体を地面に押しつけるようにして回避。
その瞬間――
ヒュッと、何かが風を裂いた。

(――狙撃……!)

わずかでも反応が遅れていれば、即死だった。
冷汗が流れる。
地面に這いつくばりながら、手探りで鏡を取り出す。スコープの代わりに、それで2時方向のビルの隙間を確認。
そこに、いた。
迷彩服の肩が揺れる。覗いている。こちらを。

「……スナイパー……!」

すぐさま反対側の瓦礫に身を潜める。

(単独か? )

その瞬間、さらに銃声。
「パーン!」
続けて、乾いた連射音。
「パパパパン!」
もう一人いた。

――違う、部隊がいる。

組織的な火力。しかも、精密な照準。狙撃手だけではない。

「……アルミヤプラボスディア……!」

一郎は呟いた。脳裏をよぎるのは、あの特有の戦術――「制圧と奇襲の同時進行」。
ベネシュ率いる“トゥマン”が動いている。
彼らが狙うのは――
ヤドルチェンコ。

---

【191話後半挿入:ベネシュとヤドルチェンコ】

勇二の死体を前に、ヤドルチェンコは肩で息をしていた。

「"Глава!"(頭領!)」グラーバ

側に居た付き人がヤドルチェンコに駆け寄る。

「問題ない。これしきの傷。」

胸の内側で何かが切れたのか、呼吸するたびに痛みが走る。それでも銃は離さなかった。
血まみれの手で銃を握り直し、倒れた勇二の足元を睨む。

「この俺が深手を負うとは……なんて奴だ……」

だが次の瞬間、背後に違和感を感じた。
“音”ではなかった。“空気”だ。
兵士の本能。戦場の獣だけが察知できる“何かの気配”。
ヤドルチェンコは即座に体を反転させた。
――遅かった。

瓦礫の上を這うようにして現れた、迷彩の一団。無音の動き。訓練された連携。風景に紛れるようにして接近していた影。
ベネシュ率いる**アルミヤプラボスディアの特殊部隊「トゥマン」**が、包囲を完成させていた。

「Открыть огонь. 撃て」
「Так точно了解]

銃声。

ヤドルチェンコはとっさに身を翻し、着弾を避けた。右脇腹にかすめる一発。だが致命傷ではない。
即座に反撃――脇差しのように隠していたMP9を抜き、数発を連続で撃ち込む。
チョールト

トゥマンの兵士が一人、喉元を押さえて崩れた。だが、それすら計算のうち。

「動きは鈍い。怪我人だ。やれ。」

ベネシュが再度指示を出す。周囲の兵士が一斉に移動。あらゆる角度から包囲し、手榴弾を放り込もうとする。

「まだ終わってねぇぞ……!」

ヤドルチェンコは背後にいる自らの部下、ウ・ダバ残党に叫ぶ。

「За кровь и пепел!!」血と灰のために!

ウ・ダバの男たちは、それを合図に飛び出した。

「За кровь и пепел!!」血と灰のために!

血と灰のために。それが彼らの“唯一の言葉”だった。
信仰ではない。理念でもない。死と破壊だけを、命じられていた。
その顔には、笑いも怒りもなかった。ただ、無。
だが――愚かだった。
ベネシュは冷たくつぶやいた。

「思想で銃弾は止まらん。」

トゥマンが一斉に掃射。
ウ・ダバの男たちは、信念とともに崩れ落ちた。誰ひとり、接近すら叶わなかった。

「……見たか、ヤドルチェンコ。」

ベネシュが歩み寄る。

「これはもはや戦争ではない。“清掃”だ。」

ヤドルチェンコは、体を支える力を失いながらも、目だけは逸らさなかった。血まみれの唇が、ゆっくりと動いた。

「お前……本当に……民間か?」

ベネシュは答えなかった。

「違うな……。その動き、支援体制、火器。……背後にツヴァイスタンがいる。いや……ロシアだろう?」

ベネシュの目が一瞬だけ揺れた。だが口元には、何も浮かばない。
ヤドルチェンコは、かすれた声で続けた。

「俺は……国家から抜けた。……腐った中枢と距離を置いた。だが……お前らは違う……。自分を民間と呼びながら、国家の飼い犬だ……」

乾いた咳。
それでも、言葉は止まらない。

「命令を受け、実行し、報酬を得る。それで満足してるんだろうが……」
「……その眼の奥、お前はもう気づいてる。 この先、“国家の狂気”が、お前の足を離さない。 “プロ”でありたいなら、もう降りろ。 さもなくば――いつか、お前も、誰かに見抜かれて殺される。」

沈黙。

ベネシュは、銃を構えたまま、ただその言葉を聞いていた。

「……忠告は……要らんか……。なら、撃て。」

ヤドルチェンコの目は、死の直前にも怯えなかった。
ベネシュは、引き金を引いた。
銃声。
そして、すべてが終わった。

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