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時刻は18時半をまわっていた。金沢駅構内で銃撃が始まってから、わずか一時間余りしか経っていない。それにもかかわらず、公安特課の指揮所はすでに機能不全に陥っていた。
屋内照明は最低限の明るさを保っていたが、それが逆に空間をくすませ、陰影を濃くしていた。室内は静まり返っており、誰一人として声を上げない。キーボードの打鍵音も止まっていた。
室内中央――長机の前で、片倉がぼんやりと立ち尽くしている。かつての県警警備課長であり、今は特高班長でこの部屋の司令塔だったはずの男。だが今の彼は、魂だけがどこかへ抜け落ちたかのように、空気すら裂かぬ存在と化していた。
──相馬。古田。富樫。
部屋にいた者たちは誰もその名を口にしなかったが、全員が理解していた。この短時間で、公安特課の中核が三人まとめて“喪われた”のだ。誰が、どうやってという追及はなされなかった。それどころではなかった。問題は“人の死”ではなく、“組織の首”が抜かれたという事実だった。その衝撃が、現場全体を麻痺させていた。
「……なんだ、このザマは」
静寂を最初に破ったのは、百目鬼だった。彼は長机の端に両手をつき、わざと音を立てて指を鳴らした。
「おい、聞いてんのか。片倉」
返事はない。
「見ろ。誰も指示を待っていない。誰も命令を出そうとしない。……貴様が黙っていると、組織ごと沈むぞ」
それでも片倉は動かない。眉ひとつ動かさず、まるでそこに“自分の不在”だけを置いているかのようだった。
だが、その目が一瞬だけ動いた。 百目鬼の声に反応するように、わずかに視線を落とし、机の上に置かれた無線端末に視線を留めた。 意識の奥底で、何かが再び呼び起こされようとしているのかもしれない。 それは、指揮官としての責任か。それとも、仲間たちを喪った後に残された、最後の矜持か。
数秒の沈黙。
そして、百目鬼の舌打ちが乾いた音を立てて響く。
「チッ……!」
その音が、この場における唯一の命令だった。室内の空気が一瞬だけ震える。しかし、行動に移る者はいない。
百目鬼は内心で理解していた。
(……終わっている。ここは、もう指揮機能を失ったも同然だ)
いくら吠えても、骨が抜けては動かせない。
そのとき、通信卓の端から短く電子音が鳴った。
「自衛隊です。第14普通科連隊より、公安特課指揮官宛に緊急回線が入っています」
百目鬼が振り返るより早く、通信士が続けた。
「通信内容は“作戦行動の同期と確認”。至急、現況を確認したいとのことです」
片倉は、その言葉にも反応を示さなかった。百目鬼は舌打ちを飲み込み、指揮机の端に手をかける。
(……結局、俺が答えるしかないのか)
県警本部の中は、あまりに静かだった。窓の外に見える空は夕焼けに染まり、数キロ先で起きている銃撃戦の気配すら、ここには届かない。まるでここだけが、戦場から切り離された異界のようだった。
百目鬼はゆっくりと通信機を手に取った。握りしめた手のひらに、汗がじっとりとにじんでいる。まるで、それが爆弾ででもあるかのように、慎重に。一呼吸置いてから、彼は通信機を耳に当てた。
沈黙。
次の瞬間、低く抑制された声が耳元に届いた。
「こちら第14普通科連隊副連隊長、川島一佐。百目鬼理事官に通話を求める」
「……こちら百目鬼。応答せよ、川島一佐」
「貴官が金沢駅周辺の公安作戦を統括していると認識している。直ちに機動隊全隊を金沢駅構内から撤収させよ。再度命じる。即時撤収を要請する」
「……既に当方は、撤収命令を下し、現場には誰もいない」
「貴官の判断は、結果として正しかった。以後の行動にも反映されるはずだ」
わずかにトーンを緩めた川島の声に、百目鬼は疑念を返す。
「なぜ今、撤収なんだ……」
「……質問に答える義務はない」
きっぱりとした口調だった。
川島は続けた。
「現在、政府より防衛出動が下令され、公安特課を含む現地治安部隊は自衛隊の指揮支援下に組み込まれている。従って、本命令は法的・実務的に正当なものだ」
その言葉の裏に、百目鬼は何かを感じ取った。 規律と論理で塗り固められた声の奥に、ほんの僅かな躊躇と、そして焦りのようなものが混じっている。 それは、軍人としての建前では覆いきれない“何か”を隠している気配だった。 まるで、川島自身が語れない作戦の全貌を知っており、あえて目を逸らしているようにも聞こえた。 彼の言葉には、どこか“段階を踏んだ手順”のような含みがあった。 あらかじめ定められた進行をなぞるかのように、撤収、指揮移譲、そして次なる段階へと静かに物事を運んでいる。 百目鬼は直感的に思った。
(……これは、すでに用意されていた“計画”なのか?)
いや、川島自身がそのような全貌を知っている立場とは思えない。
だが、彼に下された命令そのものが、まるで“本命”を覆い隠しながら進めるよう設計されているかのようだった。
まるで、何者かがこの混乱の中に意図的な秩序を紛れ込ませているように。
「……了解」
百目鬼は短く答え、顔をわずかにしかめた。
そのとき、視界の端でわずかに動いたものがあった。 片倉だった。
彼の視線が、再び無線端末に向けられている。 眉間には微かに皺が寄り、かすかに顎が引かれていた。
それは命令の内容を咀嚼し、何かを再構築しようとする者の表情。 百目鬼はそれを見逃さなかった。
刹那、片倉のポケットに入っていた私用端末が震えた。 自動転送されたメールの着信だった。
彼は反射的に手を伸ばし、画面を見つめた。
送信者は――京子。
テキストは短かった。
《周が死んだ……もう、分かってる。
だけど、あの人が命を懸けていた意味を、無駄にしたくない。
父さん、あなたが何を知ってるかは聞かない。でも、逃げないで。
私も逃げない。だから、今度は一緒に立ってほしい。》
その一文が奇妙な重みをもって空気を揺らした。
文字を追う彼の目元に、沈黙の内側から射すような光が差す。
わずかに身じろぎした。
まぶたが動き、呼吸が深くなる。
椅子の肘掛けに添えられた手が、確かに力を帯びていく。
百目鬼は、横目で片倉を見た。 全身の輪郭に、再び意志の線が描かれ始める。
まるで、全身がゆっくりと再起動していくように。
片倉の喉がわずかに動いた。 低く、掠れた声が漏れ出す。
「……各班、即時再配置。通信網の再起動を確認。指揮系統、片倉に集約する」
室内の空気が揺れた。 沈黙していた隊員たちが、一斉に顔を上げる。
百目鬼は小さく目を見開いた。