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バックヤードの暗がりに身を潜めていた椎名の耳に、かすかな破裂音が届いた。
──パンッ。
静寂を切り裂く、たった一発の乾いた銃声だった。
(……今のは)
椎名は天井に打ちつける雨音と混じる微細な音を聞き逃さなかった。通常の撃ち合いなら連続した発砲音があるはず。しかし、これは単発。それも**明らかに“遅れた一発”**だった。
(……接近戦……?)
一瞬、脳裏に浮かんだのは二人の男の影。勇二とヤドルチェンコ。どちらも死線を渡ってきた戦士。どちらも容易には死なぬ男たち。
椎名の表情がわずかに動く。
(……ナイフか)
経験上、直感がそう告げていた。あの一発は刃の間合いに入り、もみ合いの末、ナイフの切り込みを受けながら撃ち返した者の銃声だった。ヤドルチェンコ。あの男なら、胸を裂かれてなお最後の一弾を敵に向けて放つこともあり得る。勇二の狙いもヤドルチェンコの心臓。ヤドルチェンコの狙いも勇二の急所。互いに譲る気も生き残る気もなく、互いを道連れにする。その凄絶な一瞬が、音となって椎名の耳に届いた。
「……相打ちか」
椎名は静かに呟いた。口元にわずかに浮かびかけた冷笑は、すぐに消えた。ビルの中は機動隊の影すら消え、ひたすらに雨水が崩れた天井からぽたり、ぽたりと床に落ちる音だけが支配していた。まるで死の余韻に包まれたような、静寂。
その中で、遠くから新たな銃撃音が響いてきた。
──ダダダダッ
一線の乱射。重火器の反響。次の戦いが始まった。 椎名は立ち上がり、そっと呟く。
「ベネシュか……」
濡れたコンクリ片の上に雨が跳ねる。崩れかけた天井から水滴がぽたり、ぽたりと落ちる音を背に、椎名は立ち上がった。
床に転がる破片を踏まぬよう、慎重に足を進めていたときだった。
不意に、廊下の奥の暗がりから動く影。
椎名も反射的に腰のホルスターに手を伸ばした。
銃口を向けた先、現れたのは吉川。そしてその背後から、やや遅れて黒田。
瞬間、吉川も銃を構え、椎名と互いに照準を重ね合う。
黒田はワンテンポ遅れて銃を抜いた。その構えは、どこかぎこちない。
(……自衛隊か?)
迷彩服に身を包んだ二人の姿を目にした椎名はそう思った。
だが、次の瞬間には判断を終えていた。──まず奥の男を撃つ。それが最適解だ。
銃口を黒田に向けかけた刹那、その黒田がぽつりと呟いた。
「仁川征爾。」
その名を聞いた瞬間、椎名の表情に微かな揺らぎが走る。引き金にかけていた指が、わずかに止まる。
「仁川征爾。俺はあんたを待つ人の言葉を伝えに来た。」
吉川は横目で黒田を見た。何を言い出すのかという一瞬の躊躇の後、銃口を保ったまま、判断を委ねるように動かずにいた。
「……何のことだ。」
椎名が言った。
「瀬嶺村の朽木さんだ。」
椎名の眉が僅かに跳ねた。
「瀬嶺……? くち……き……」
目の奥に、明らかな動揺が浮かぶ。
「俺は朽木さんに言われたんだ。あんたが生きてたら、親父さんのカメラであんたを撮って送ってくれって。もし死んでたら、そのカメラを墓前に供えてくれって。」
椎名の脳裏に、記憶の断片が甦る。
──金沢で生活を始めた頃。県警本部の一室。定例の聴取に、椎名と富樫が対面していた。富樫は黙って、手元の段ボールをゆっくり開け、中から革巻きの古びたカメラを丁寧に取り出した。
「このカメラ、見覚えあるか。」
革張りのグリップ。真鍮とクロムの質感。椎名は息を呑んだ。
「ニッカ……III。」
「お前の親父の形見や。」
「……どうしてこれを?」
「瀬嶺村の朽木さん、知っとるか?」
椎名は頷いた。
「廃村になったはずだ……」
「ほうや。ほやけどあのじいさん、今でも仁川家を手入れしとる。あんたの帰りを信じてな。」
「俺は……26年前に行方不明になったんですよ。」
「それでも信じとる。信じてとるんや、あんたが生きとるっちゅうことを。」
富樫は静かにカメラを見つめた。
「このカメラは、朽木さんがある男に託したもんや。仁川征爾が生きとったら、このカメラでそいつの写真を撮って送ってくれって。死んどったら、墓に供えてくれってな。」
「……なんでそんな……」
「あの災害を経て、生き残って家に戻らんのは理由があるんやろ。ほんなら無理に征爾には会わん方が良い。ほやけど、姿だけでも見たい…。だから写真だけでいいってな。」
富樫はカメラを差し出した。
「ワシの前におるのは椎名賢明。仁川征爾は死んだ。このカメラは、お前に渡す。」
──記憶、途切れる。
雨の音が、現実へ引き戻す。椎名は銃口をゆっくりと下ろした。
「まさか……こんな形で……生きているなんて……」
黒田が呟いた。椎名は言葉を発しない。
「……なんで生きてたんだ……」
問いは投げかけられるが、返答はない。
「……こんなだったら、死んでりゃ良かったんだ。」
沈黙。
「死んでたら、相馬は……死ななかった……」
言葉の重さに、黒田の声が細くなる。
「お前が死んでたら……誰も死ななかった……」
消え入りそうな声。
「こんなんじゃ、朽木さんに“征爾、生きてたよ”って……言えるわけねぇだろ……」
吉川は横目で椎名を見た。最初に感じた、尋常でない空気。感情という概念を棄てたかのような男。撃つべきだと、身体の芯が命じていた。
だが今、目の前にいるのは違う。
感情を持ち、過去に囚われている――人間だった。
吉川はゆっくりと、わずかに指先の力を緩めた。しかし、照準はまだ、外していなかった。
爆発音とともに、吹き飛んだ瓦礫の山が火花を散らし、空気を裂いた。金沢駅構内。
──ヤドルチェンコの亡骸が、血の海の中に沈んでいた。黒い手袋をしたベネシュが、その傍らに立ち、彼の瞳を一瞥すると無言で踵を返す。
周囲には、まるで赤子の手をひねるように蹴散らされたウ・ダバの死体が転がっていた。彼らが正規戦を知らぬ烏合の衆であったとはいえ、瞬く間の制圧だった。トゥマンの機動力と火力が、局所戦でいかに猛威を振るうかが如実に示された現場だった。
その瞬間だった。
「……隊長、見てください。」
部下のひとりが、低く告げる。ベネシュが顔を上げた。
暗がりの向こう、四方八方から忍び寄る気配。
──防弾装備に身を包み、サイレンサー付きの短機関銃を携えた黒影。
「特殊作戦群……一個小隊か。」
「そのようです。」
ベネシュは眉をわずかに吊り上げた。
配置は完璧だった。出口、通路、コンコース、柱の死角。すべてが塞がれている。
敵ながら、あっぱれ。
「数では五分……。」
ベネシュは一度、仁川に撤退を進言した際、このような状況に置かれることを予期していた。だがそれを承知で残った──敗戦濃厚な戦場に留まり続ける理由は、ビジネスとしての信頼醸成と共に、戦士としての矜持だった。
「前へ出る。」
ベネシュは拳を固め、包囲陣の一点を見定める。
「突破する。援護は──要らん。」
一瞬の沈黙。
部下たちは目を見開いたが、次の瞬間には理解し、位置を変え、彼の進路に視界を与えた。
ベネシュが疾走する。
──動きはまさに歴戦の獣。
包囲の一点に火線が集まる。その中央に、わずかに生じた“動揺の一瞬”。
特殊作戦群のひとりが、反応の遅れを見せた。
「……抜かれた!」
その一瞬がすべてだった。
ベネシュは滑り込み、低い姿勢のまま制圧射撃を浴びせ、二名を倒し、一瞬の突破に成功した。
──だが。
その先に現れたのは、林立する銃口だった。
第14普通科連隊。
「構えッ……!」
ベネシュは一瞬、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「……やれやれ、これで終幕ってわけか。。」
両脇に銃を構えた兵士たちが包囲を完成させる。
爆ぜる雷鳴が一閃、闇を切り裂いた。
それと同時に、重装甲車両がエンジンを唸らせて通過していった。
第14普通科連隊がベネシュを包囲してから、わずか三分後。
駅北側の旧市街方面から、国籍不明の兵員が突如出現した。
制式化されたカモフラージュパターン。だがどこの軍属とも判別し難い。
──展開の速さ、遮蔽を意識した進軍ルート、統一された装備。それは紛れもなく、正規軍の動きだった。
「偽装してるが……あれはツヴァイスタン人民軍、正規の山岳猟兵か……」
第14普通科連隊の情報将校が、双眼鏡を下ろして呟いた。
構成人数、およそ一個中隊。ベネシュを包囲していた自衛隊部隊に向け、広場を横断するように弧を描いて進行してくる。
「旗章なし。だが発砲なし……交戦意思の確認も取れていない。」
黒木特殊作戦群群長の横で、無線手が周波数スキャンを続けていた。
そのときだった。広場の中央部で、放置されたSUV車両の上に一人の男が立った。
カーキ色のレインパーカー姿。帽章も階級章もない。背は高く、肩幅は広く、双眼鏡越しにもその目が冷たいのが分かった。
「……あれがプリマコフ中佐。」
黒木の声は低く、張り詰めていた。
すでに情報は櫻井官房長官の指示で共有されていた。
金沢駅構内で民間人を殺害されたツヴァイスタン国籍者(※正確にはアルミヤプラボスディア)を名目に、彼ら“保護”のための部隊が侵入してくる可能性――その主導者が、ツヴァイスタン軍政派の中核であるプリマコフだという事実も。
「発砲の有無に関わらず、これは明確な主権侵害だ」
通信手の背後で、特殊作戦群の群長・黒木為朝が呟いた。
戦場には、既に自衛隊・警察双方の戦力が展開している。にも関わらず、ツヴァイスタン人民軍が部隊単位で介入してきたという事実は、法的にも外交的にも「宣戦布告に近い」。
黒木が部隊無線を握る。
「特殊作戦群、対ゲリラ接触警戒配置。実弾装填済み、第一接敵目標は北東側ビル群」
「了解。群長、許可は?」
「……すでに出ている。櫻井官房長官より“武力制圧を前提とした交渉開始”の大臣承認が下りている」
「……!」
その報告に、空気が一段緊張を増す。
櫻井官房長官はこの時点で、すべてを見通していた。
エレナ・ペトロワが差し出す経済協力と拉致被害者返還カードは、確かに外交上の得点だった。だがその陰で、ツヴァイスタン軍政派がこの好機を潰す動きを見せることも、すでに織り込み済み。ならば――あえてそれを“受け止め”、日本国の正規軍と法執行機関が「排除」することに意味がある。
米国も、中国も、そしてロシアすら見ている。この小さな都市で行われる“即応対応”が、国家の信用を測る天秤となる。
「火線制圧準備……射線交錯区域、すべてマーキング完了」
「奴らの狙いは、駅内部のトゥマンか、あるいはウ・ダバの残党……あるいは、椎名か」
黒木の頭に浮かんだのは、内調の上杉だった。
「敵勢の突入兆候が見られた時点で、完全制圧に移行する。判断は現場指揮官に委任されている」
官邸の意思はすでに固まっていた。そのための役目が、彼らに託されている。
──金沢駅構内、臨界点に達しようとしていた。