難病の人たちの患者会である和歌山県難病団体連絡協議会をこの年の5月に結成した私は、常に弱い立場の人たちに手をさしのべられたマザー・テレサに会いたかった。ベナレス(バナラシ)の「死を待つ人の家」に行けば、ひょっとしたら会えるかも知れない、いや、顔が見れるかも知れないという期待をもっていたのだ。
そこは「カルカッタ」という地名の語源となった、カーリーガート寺院の一部に、マザー・テレサが市に依頼して提供されている施設で、正式には「カルカッタ公社ニルマル・ヒルダイ」と呼ばれていた。
ユーゴスラビアから理科の先生としてカルカッタにやってきた18歳の少女アグネスは、まるで動物やそれ以下のような状態で道ばたで死んでいく人を見たとき、
「同じ人間として生まれているのに、せめて死ぬときは屋根のあるとこ ろで、人間として死なせてやりたい。」
と、ひん死の老女を連れ帰ったのが「死を待つ人の家」の始まりだった。やがてその少女はマザー・テレサと呼ばれるようになるのだ。
以来、45000人がここに収容され、そのほとんどが数時間から数日で死んでいくという。
積極的な治療を施すわけではないが、静かに手をにぎり、背をさすり、少しの水をふくませて一人の人間として死を迎える。それがこの場所なのだ。
通りのちょうど角にあるこの建物は、二階正面に聖母マリア像が掲げられている。三段くらいの階段を上がり、戸を開けると左手に約30台ほどの粗末なパイプベッドが並んでいる。紺色の毛布だけが敷かれた上に、手足は細り、おなかを異常に腫らした老人や、口を開け、今にも息を止めてしまいそうな人たちが、甲斐甲斐しく動きまわるシスターたちとは対照的に、静かに横たわっていた。
ここを訪れた私が、今できることは、何がしかの布施をすることだけだと思い、お金を出そうと自分のウェストバッグに目をやったとき、入り口のすぐ横に小さな花の山に気がついた。
イギリスから奉仕に来ているシスターに、「これは?」
と聞くと、小さな子どもが、ついさきほど息を引きとってこれからガンジス河で火葬にするというのだ。
その時、私は四年前、難病で亡くなった娘の死と重なり胸が熱くなった。
ここに収容されるのは、老人だけではないのだ。家もなく身寄りもない小さな子どもが道ばたからひん死の状態で運ばれてくるのだ。
そういえばカーシー駅近くにかかる橋の下で、一見して栄養不良と思える子どもたちに出会ったが、これがインドの現実なのだ。
結局、私はマザー・テレサに会うことも顔を見ることもできなかったが、「死を待つ人の家」で、ある種の安らぎを感じながら、彼女が日本に来たときの言葉を思い出していた。
「貧困であること、障害をもっていること、病気であることは決して不幸なことではない。人間にとって一番不幸で悲しいことは、誰からも必要とされず、孤独であることなんだよ」
弱い立場の人を孤独にさせる「社会」というものと闘っていたマザー・テレサの偉大な人生に、只ただ頭が下がるばかりである。
そしてこの混沌とした中の「安らぎ」こそ、歩み出した難病患者会活動の中で何よりも大切なものだと心から思った。
私の初版本で、2002年に出版した「田舎坊主のぶつぶつ説法」です。
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