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女性が日常会話で用いる「かわいい」という言葉や省略表現の背後にある意図と、男性が陥りやすい誤解について解説します。
具体的な会話の例を挙げ、言葉の表面的な意味だけでなく、女性特有のコミュニケーションスタイルや心理を理解することの重要性を指摘します。
特に、主語の省略は親密さの表れである一方、男性には理解が難しいため、適切な相槌や視線によるコミュニケーションが円滑な関係を築く重要な鍵となるわけです。
TOMOKO
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「かわいい」という言葉のもつ多岐にわたる意味と、その背景にある心理について解説しています。過去に作成したオンライン講座の一部を公開し、その講座が某プラットフォームで公開されなかった理由にも触れています。
特に、男性が理解しにくい「かわいい」の様々な用法を理解することで、女性とのコミュニケーションが円滑になるだろうと考えています。
男性と女性の脳の働きの違いや、言語に隠された意図についても触れながら、より深い理解を促します。
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視野を広げるとは、物事の全体を見渡すこと。時間的・空間的に広く見ること。未知の関連する物事を柔軟に受け入れること、などの意味があります。
高い視座(立場・姿勢)から、公平かつ柔軟な視点(視線の向け方)で、広い視野(判断の範囲)で物事を捉えるのが「良い!」とされています。
視野を広げるのは、正しく良いことだ、というのは大人の常識です。…って、そうかしら?
私たちが抱える悩みや心配ごとの多くは、生存本能と関係があります。なんで私は、こんなことに悩むんだろう?その理由は、生命を脅かすものを排除するためです。
恐怖を回避するために、悩んだり苦しんだりしているわけです。
こうなったら、どうしよう?こうならなかったら、どうしよう?あっちこっちに悩みのタネが落ちています。視野を広くすればするほど、心配のタネが増えていきます。視野を狭くすると、心配の範囲も狭くなります。
視野を広げなければ、不安・恐怖・絶望のほとんどが消滅するのでは?…と思ったりします。
心配ごとは消えないが、心配ごとに関する恐怖や絶望が消える、というのが私の実感です。
視野が狭い、というのは、ある意味で赤ちゃんの視点です。目の前にあるものを見る。目の前にあるものに触れる。眠いなら寝る。飲みたいなら飲み、食べたいなら食べる。吐き出したいなら吐き、排泄したいならする。笑いたければ笑い、怒りたいなら怒る。そして、不愉快なら泣く。
もう私たちは赤ちゃんではないので、狭い視野で生活すると、トラブルが生じるかもしれません。けれど、そんなトラブルは、無視すればいい。そんなトラブルを、あらかじめ引き受けると覚悟すればいい。
赤ちゃん的に生きることを、退化と捉えるか。精神的な洗練と捉えるか。自分の感性を信頼できるか否か。究極の選択ですね。
体験の少ないまま、情報を集め過ぎた人の苦しみは、「広い視野」への無用の憧れではないか…と思うのです。
TOMOKO
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嘘の語源には諸説あり、定かではありません。私のお気に入りは「うそぶく(口笛を吹くこと)」から「うそ」が生まれたという説です。
数霊は、「太陽の光を浴びに出かけよう!」と伝えてきます。
龍体文字からは「血の巡り」や「思い込みから離れる力」を感じます。
もしかして「うそ」って、いい言葉なのでは?いつも通り個人的な意見ですが、嘘つきな人は、ある意味で正直者だと思うのです。
自分を守るため、自分の大切な人を守るための最善策として、嘘を使うこともある。生存本能による反射として、嘘をつくこともある。嘘の事情はいろいろなのです。
熱したフライパンに触れたら「アチッ!」と手を引っ込めるように、嘘つきは嘘をつく。口笛のように、人と自分を力づけるためにも、嘘つきは嘘をつく。
では、みなさん!これから、どんどん嘘をつきましょう!…とは言いませんが。
嘘つきには、嘘をつく理由と事情があるので、嘘をついたからというだけで、その人を嫌いにならないでほしいなぁ…と思ったりしています。
TOMOKO
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「諦める(あきらめる)」の誤解を解きます!
諦める、という言葉から、どんな印象を受けるでしょうか?
もうダメ。どうせムダだし。やっぱり無理だった。諦めるしかないよね。…という、ネガティブな感じに使われることが多いですよね。これ、勘違いです。誤解です。
語源的には「明るくする」「目で見てはっきりさせる」という意味があります。
言霊的には「感情を優先する心の状態が、外にも内側にも広がる様子」が見えます。
数霊的には「感じる力」「前進するエネルギー」「心満たされる」などが示唆されます。
仏教的には「偏りのない視点から、物事や心の状態を、はっきりと把握すること」と言って差し支えないでしょう。
古代龍体文字は「意識を高め、痛みや過剰な反応を和らげ、回復に向かう」エネルギーを感じます。
※以上、全て個人的な理解です。
というわけで、諦めるのは、とても大切なことです。冷静に、客観的に、公平に、今の自分の気持ちや状況を見ること。これが「あきらめ」です。視点が極端に偏っていたり、自分の思い通りにならないことを思い通りにしようとしたり。
「あきらめ」がつかないから、悩みを、悩み過ぎるんですね。ちゃんと「あきらめ」ると、悩みは、悩む必要のない当たり前のことだったりします。
はい、では、みなさ〜ん!どんどん、あきらめましょう!
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出典は、唐代(900年頃)中国の禅僧・雲門文偃(うんもんぶんえん) の教えを集めた「雲門広録(うんもんこうろく)」。
真理を体験する瞬間とは、どんな時か?という弟子の問いに対する、 雲門の答えは「日々是好日」でした。
「毎日が良い日だ」ということで、意味そのものは分かりやすいですね。
さて、良い日とは、どんな日でしょうか?
お天気の良い日?美味しく食べた日?たくさん笑った日?よく眠れた日?体調の良い日?それとも、良い行いをした日でしょうか?
ここで有名なアメリカ・インディアンの言葉を参照します。
Today is a good day to die.
死は恐れるものではなく、生まれることと同様に尊いものである。死を自然に受け入れ、いつでも死ぬ準備ができていれば、今日という日は常に、死ぬのに最高の日になるわけです。
毎日が良い日だ、というのは、自分にとって都合の良いことばかりが起きるという意味ではありません。
起きることには全て理由があり、今の自分には都合の悪いと感じることも生じます。しかし、どんな事象も究極的には、自分の魂を磨くために起きているわけです。
あらゆる執着や先入観から離れ、「今、ここ」にいること、「今、ここ」を丁寧に体験すること。これが究極の禅だと言えます。
毎日は、自分の魂を高めるために更新されていきます。雨嵐の日も、熱があって気だるい日も、家族と口論した日も、大失敗をしでかした日も、誰かに意地悪された日も、良い日なのです。
どのようであれ、今の自分の感情を味わうことが、人生の質を高めていきます。
どのようであれ、今の自分の体験に浸ることが、魂との対話になります。
苦しいときには苦しみを、悲しいときには悲しみを、存分に味わい浸ることは、最高の生き方とも言えるのです。
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出典は、中国最古の詩集「詩経(しきょう)」。中でも、小雅(しょうが)つまり日常生活や身近なひとへの思いなどを集めた部分にある。
唐代(800年代)の禅僧・玄沙(げんさ)は、使いの者に禅僧・雪峯(せっぽう)への手紙を託した。雪峯が開封すると、何も書かれていない紙一枚が入っていた。使いの者が「え?なんで?」と戸惑っていると、雪峯が「遠く離れていても、同じ風が吹いているのだよ」と
教えた。…という話が残されています。
遠く離れていても、同じ風が吹いている。この空はどこまでも続き、大地はつながり、人々の心もつながっている。何も言わなくても、何も書かなくても、同じ心で生きている。
…ということでしょうか。
この言葉は一般に、「広大な土地に同じ良い風が吹くように、国中が平和で安定している」と解釈されます。
「同風」を、いきなり「同じ良い風」と訳し、離れていても心はひとつ。みんな繋がっている。素晴らしい!となるわけです。
おそらく正解なのでしょうが、へそ曲がりな私は、こんなことを思うのです。
仮にあなたが、辛く苦しい日々を過ごしていたり、誰かへの嫉妬や怨みを抱えているとします。心は鬱々として、ネガティブな思いにとらわれていることでしょう。
あなたは、そんな自分をダメだと感じるかもしれません。自分が弱いから、心が狭いから、優しくないから、勇気がないから、元気がないから、お金がないから、友達がいないから…。と、ダメダメ要因を数え上げているかもしれません。
ところで、雪峯の教えは「遠く離れていても、同じ風が吹いている」でした。
あなたが悲しいなら、この悲しみは遠く離れた地の、見ず知らずの人とも繋がっています。縁もゆかりもない遠方の人の悲しみが、風にのってあなたのところに届いているのかもしれません。
あるいは、多くの人の悲しみが、あなたに影響を与えているのかもしれません。
お伝えしたいのは、あなたに起きていることは、あなただけのことではない、ということです。
あなたに、自分をダメだと思わせるような何かが、世界のどこかで起きているのかもしれません。
というわけで、自分を責めるのをやめましょう。
どこかの、誰かの、何かの影響を受けて、今のあなたがあります。遠くの風が、あなたを苦しめているだけかもしれません。
ただ、「あぁ、今、しんどいなぁ」と、「きっと、たくさんの人が、同じ気持ちでいるんだろうなぁ」と感じていてください。
良いことも、良くないことも、あなただけに起きているのではありません。誰もが良いことと良くないことを体験しながら、繋がって生きているのです。
出典は、江戸時代の禅僧・白隠禅師が残した「白隠禅師の無関門」とされる。宋代(1200年頃)臨済宗の僧、無門慧開(むもんえかい)の著作「無門関(むもんかん)」をベースにしたもの。
両掌(りょうしょう)を打つと音声(おんじょう)あり、隻手(せきしゅ)に何の音声(おんじょう)かある。隻手(せきしゅ)の声を拈提(ねんてい)せよ。
(私的訳)両手を打つと音がするけれども、片手だと、どのような音がするか、分かりやすく簡潔に答えなさい。
片方の手では、打ち合わせることができません。どのような音がするか?と言えば、音はしない、ということになるでしょうか。
認識や表現の限界、絶対的な真実、あるいは人間存在そのものを表しているとも言われています。
真実とは、本当のこととは、一体何でしょうか?
言葉では表現できない、あらゆる体験、あらゆる心情。見えないもの、聞こえないもの、触れないもの、味わえないもの、触れられないもの。つまり五感以外の感覚の中に、真実は隠れているようです。
片手の、音なき音を聴こうとすることが、何らかの真実に近づくことなのかもしれません。
素晴らしい楽曲に心が癒されることもあります。親しい人の優しい声に励まされることもあります。風や波の音に、安心することもあれば、恐怖を抱くこともあります。
あなたは、あなた自身の魂の声に、耳を傾けているでしょうか?ときには静かな心で、音なき音と一体になる時間をもつことをお勧めします。
TOMOKO
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出典は、宋代(1100年頃)の詩人、蘇軾(そしょく)の著作「謝民師推官与書(しゃみんしすいかんにあたうるのしょ)」。
大略如行雲流水、初無定質。但常行於所当行、常止於所不可不止。文理自然、姿態横生。
大略(たいりゃく)、行雲流水(こううんりゅうすい)の如く、初め、定質無く。但た常に当に(まさに)行ゆくべき所へ行き、常に止どまらざる可からざる所ところに止どまり、文理、自然して、姿態(したい)横生(おうせい)す。
(私的訳)
ザックリ言うと(文章とは)、雲が流れるように、決まった形にこだわらなくていい。でも、行くべき場所にはちゃんと行くし、止まるべきところではしっかりと止まる。このような文章は自然で面白い。
雲や水のように、自然に動くこと。物事に執着せず、自由自在に動くことのたとえ…と言われています。
良い文章を書くための心得を伝授しながら、人生の教訓を語っているわけです。
自然な流れで文章を書くように、の教訓を伝えたということでしょうか。
私は学校の作文や感想文が大嫌いでした。先生や親に褒められるために、クラスメイトからバカにされないように、賢そうな感じで書くのは、本当に苦痛でした。
そんな私も、今では楽しく文章を書いています。自分なりのスタイルで、自分の書きたいテーマで、自分が伝えたい人に向けて書いているからです。
周囲の目ばかり気にして、自分が何をしたいのか分からないまま、ずっと被害妄想の中で生きてきました。自分に自信があるふりをして、弱みを隠し、かっこつけていたわけです。
年齢を重ね、肉体的、精神的な老化・劣化を感じると共に、かっこつけていられなくなった、というのが現実です。しかし、かっこつけない、というのは本当に楽です。若い頃には、とても受け入れられなかった事々にも、すんなりと対応している自分がいます。
空にフワフワ浮かぶ雲は、地球の水です。太陽の恵みを受けて小さな粒となり、上昇していきます。上昇して冷やされた水の粒が集まると、雲になるわけです。水の粒が大きく重くなると、雲ではいられなくなり、雨や雪になって地上に戻る。
いかに正しいと説明されても、やはり雲は、綿飴のようにフワフワと柔らかい姿を見せてくれます。色や姿を刻々と変えながら、現れたり消えたり、流れたりしているようです。
雲は、水の、一瞬の姿。だとすると、水とは何でしょうか。
水とは、地球上のあらゆる存在の本質、生命の源とも言えます。顕著な特徴は、形をもたないこと。あらゆる形態と質量に変化し続けるもの。
清らかで、透明で、無限の可能性を秘め、同時にあらゆる汚濁を飲み込む寛大さがあります。人間の感情や思考を映し出す鏡となり、流れは心を洗い、その深い静寂が魂を目覚めさせてくれます。
水のように、雲のように、サラサラと、フワフワと生きていきましょう。
TOMOKO
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出典は、宋代(1200年頃)臨済宗の僧、無門慧開(むもんえかい)の著作「無門関(むもんかん)」。
趙州、因僧問、某甲乍入叢林。乞師指示。州云、喫粥了也未。僧云、喫粥了也。州云、洗鉢盂去。其僧有省。
趙州(じょうしゅう)、因(ちな)みに僧問う、「某甲(それがし)、乍入叢林(さにゅうそうりん)。乞(こ)う、指示したまえ」。州云く、「喫粥(きっしゅく)し了(おわ)るや」。僧云く、「喫粥し了れり」。州云く、「鉢孟(はつう)を洗い去れ」。其の僧、省あり。
(私的訳)
僧は趙州に「私は初めてこの叢林にきました。どうぞご指示ください」と言った。趙州
「粥は食べたのか」と言った。僧は「はい、食べました」と言った。趙州は「食器を洗っておきなさい」と言った。僧はハッ!と気づいた。
まず、日常の当たり前のことを、ちゃんとやりなさい…という教訓になるでしょうか。
気になるのは「どうぞご指示ください」のところですね。
修行にやってきた僧・新米の弟子が、師匠である僧侶に「なんでもやります、何をすればいいですか?分からないので教えてください」と聞いている状況です。
私たちは、あらゆることについて事前に情報を得ようとします。知らないことは恐怖につながりますから、行動の前に情報量を増やして安心したいわけです。
禅の修行とは、体験そのものですから、事前情報は少ないほど望ましいとも言えます。
私たちは修行僧ではありませんが、人生の後半にあって、情報収集にエネルギーを注ぐ時期は卒業したいものです。もっと行き当たりばったり、体験的に生きるのが、これからの人生の質を高めるように思います。
単なる情報が、いかに役立たないか、もう気づいていますよね。今できること、目の前にあることを、ひとつずつ、やっていくしかありません。
これからも苦難や試練に出会うことでしょうが、それは決して情報不足によるものではありません。この人生が終わるまでに、まだ学ぶべきことがあるから苦難がギフトとして与えられるのです。
また、知ることは、いかに自分が知らないかを認識することでもあります。事前情報を集めて、知ったような気分になることは、「知る」とは言えません。
この問答には、もうひとつ面白い点があります。
師匠は「ご飯、もう食べたの?」と聞いています。つまり「何をすればいいですか?」と指示を仰ぐ前に、食べるものはちゃんと食べているわけです。本当に必要なことは、自然にやってしまいます。
「食器は洗ったの?」と聞かれて「ハッ!」としていますので、洗わなかったのだろうと予測します。もし洗ったとしたら、「ハッ!」とした理由は、何か禅の奥深い教えに気づいたという可能性もありますね。
言われないと、できないこと。
言われても、できないこと。
言われると、やる気が失せること。
言われなくても、やってしまうこと。
やりたくて、たまらないこと。
これらの違いは何でしょうか?
ひとつには、生存本能に関わることか否か、という違い。
もうひとつの違いは、魂の願望に従っているか、否かです。
やらなくてもいいのに、やらなくてはならないと思い込み、やりたくないのにやり続けている。
あなたにも、そんなことが、あるかもしれません。
魂が望むことを、最優先にするのは、今です。
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