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2026年9月9日の名古屋市鶴舞公園内、名古屋市公会堂での八蓮の会の講座(茶の古典を読む/仏典読み解き講座)は、午前も午後も中止とさせていただきます。
9月8日午後より観測史上最大の降雨により名古屋市および周辺地域で交通インフラ等に甚大な影響、被害が発生している状況を踏まえての判断です。
皆様のご無事を心より祈念申し上げております。
阿弥陀経の後半、六方段が後から挿入されたのでは、という視点で古い層の阿弥陀経について考えました。
『阿弥陀経』の後半には、六方の諸仏がこの教えを証明する「六方段」があります。ところが、この部分をいったん外して読んでみると、お経の流れが驚くほどわかりやすくなります。阿弥陀仏を念じ、極楽に生まれたいと願えば、臨終には阿弥陀仏が迎えに来てくださる。だから極楽への往生を願いなさい。そして過去・現在・未来に願った人は往生できるのだから、もう一度「願いなさい」と勧めて終わる。もしかすると、ここに『阿弥陀経』のシンプルな原型が見えてくるのかもしれません。
「少しくらい善業をしただけでは不退転菩薩や阿羅漢たちと一緒の世界に行けるはずがない」という前提で一心不乱の念仏こそ唯一の救いの修行と説く阿弥陀経。
これに対して、凡夫を三段階にわける無量寿経、さらには菩薩の往生、比丘の往生も含めて善人、悪人の往生まで九段階に分けて説く観無量寿経は「少しくらいの善業による格差」を説明してしまっていて、阿弥陀仏の救済の平等性を常識的な因果応報へとトーンダウンさせてしまっています。
自説ですが、阿弥陀経は浄土三部経のなかで最古層の成立と思われます。その根拠のひとつが今読んでいる箇所で、「善根功徳を積んでいない善男子善女人が往生できること」、また「臨終の時に阿弥陀仏がわざわざ来てくださる、しかも聖衆たちをともなって」。このあまりにも強烈な救いの平等性は「順当な修行の結果、それ相応のところに行ける」というような常識的な感覚を逸脱しており、そのアンバランスを補うために、阿弥陀経後半の六方段が配置されたと考えます。
この極端さは、実は無量寿経、さらに成立の遅い観無量寿経になるとだんだん追加説明され、ある意味常識的な段階説になっていきます。最初がいちばんとんがっている、ということです。
念仏すると、極楽の池に蓮の花が咲くそうです。それは自分が往生した時に乗る台座になるとのこと。また念仏すると胸の内にも蓮が咲き、その清らかな蓮が自分の内に満ちてくると、ようやく亡き方に手渡せる蓮が生まれる。これが回し向けるということであり、手向けるということです。十遍のお念仏のうち、七つが自分のための蓮、三つが亡き方のための蓮。そんなイメージでお念仏をしてみてください。
SNS投稿に、「死んだらすぐ成仏するからお経は意味がない」というものがありました。そこにコメントする人たちの意見も、お金の問題や僧侶への不信感が多く感じられたので、思うところを述べました。お経の構成は「仏様をお迎えし、故人様を救っていただくようにお願いし、仏様にお帰りいただく」形になっています。故人様を救うために僧侶が読経して修行し功徳を積み、その功徳を故人様に回し向けるのです。これを回向(えこう)と言います。
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