よっしーの「今週のエッセイ」

よっしーの「今週のエッセイ」

By 森田義夫LeisureHobbies
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よっしーの「今週のエッセイ」 episodes

  • 今週のエッセイ/いろいろと恋なんです

    いろいろと、恋なんです

     

     嘘が赤いのはなぜなんだろう。声が黄色いのは若さの証拠?恋は水色とはどんな恋?いつも美室団地に来るクリーニング屋さんのテーマソングからは恋のかけらも感じられない。暦が一回りしても、まだ恋のエッセイを書くのは無理してるのかなぁ。それとも心残りの恋がどこかに埋もれていたりして。思えば、自ら告白した人からは振られ、思わぬ人から言い寄られ、まだ相思相愛の経験はない。

     もう三十六年前になる。その当時、労音サークルに入っていて、チェリッシュやダ・カーポ、あのねのねや河島英五、それに大好きだったセルジオ・メンデスとブラジル65のコンサートを楽しんでいたものだ。そのサークル仲間の一人に、ちょっと変わった戸栗美貴という娘がいた。どこが変わっていたかというと、何の外連見もなく私に話しかけてくる所だった。恋の感情のキャッチボールはなかったが、よく二人で喫茶店や寿司屋さん(彼女の実家は山梨県の忍野だが、その当時は長崎のおばさんの家に居候していて、そのおばさんが「いろは寿司」に勤めていた)へ行っては何時間も話し込んでいた。電話もよくかかってきて、二時間はざらに話し込んでいたものである。

     私がいろいろな事情で長崎を発つ時期と彼女が山梨へ帰る時期が同じだったので、名古屋まで一緒に行くことになった。彼女はなぜか小倉から乗り込んできたのだが、どんな事情だったかは忘れてしまった。私は九ヶ月の研修で鈴鹿の寮に、彼女は忍野に帰っていった。その後、電話のやりとり、手紙の往復、伊勢神宮の観光等があり、短い夏休みに彼女の実家へ行くこととなった。結婚を意識して両親に会うというのではなく、彼女の実家が民宿をしていたので気軽に遊びに行っただけのことである。それからのお付き合いはぷっつりと切れてしまった。

     ところが、十数年経ったある日、私は五島列島の福江市に転勤で移り住んでいたのだが、彼女から電話があった。もう既に結婚しており、子供も二人いたので、懐かしさよりも戸惑いと狼狽が先にいき、話の内容は覚えていない。

     彼女が今どうしているかは知らない。ただ、もう民宿は閉じているようである。なぜ、今このような思い出を紡いでいるのか私にも分からない。ただ、彼女の前では何の衒いもなく気楽に話せたよなという思いが湧き上がるのである。これは、単なる懐かしさかそれとも現実の裏返しか、彼女が喫茶店で私に渡したシクラメンの淡いピンクの色が今でも忘れられない。

    6 min
  • 今週のエッセイ/ライフワーク

    ライフワーク

     

     何のインパクトもない我が人生なんだが、ライフワークと呼べるものがひとつある。それは、聖書の創世記から黙示録までの一章一章をメッセージ化することである。一九九九年から始めたので十二年になる。今はエステル記に入っている。黙示録の最終章にたどり着くまで後二十年はかかるであろう。

     何でこのようなことを始めたのか。それは、一九九○年まで遡らねばならない。その年に会社を辞し、未知の世界へと旅立った。自分の夢を実現させるというよりも、妻の夢を実現させるために自分を捨てる旅でもあったのである。しかし、そのことに気づくのは随分後のことではあるのだが。取りあえず、母教会へ戻ったものの受け入れてもらえず、霊的指導者を求めてさまよい歩き、最後に拾われたのが、韓国の教会だった。そこで六年程霊的指導を仰いだもののカルト集団だったので、心も体も家庭もぼろぼろとなり、**団地へと引っ越してきた。自分の無力さとキリスト教会の不条理さに二度と戻るまいと決意して。イエス・キリストは好きだが、イエス・キリストを信じる人たちは大嫌いとなってしまった。

     かくしてすべてを失ってしまった私は途方に暮れてしまった。明日からの生活に窮したのである。恥も外聞も無くお金を借り、昼も夜も休み無く働いた。そんな生活が七年程続いた。明日が見えない日雇い労働者のようだった。そんな生活を支えたのは聖書だった。聖書の言葉を人に伝える気持ちはさらさらないが、自分自身に対するメッセージとしてまとめようとする気持ちが芽生えてきた。時を同じくして義父がパソコンを買ってくれたので、このライフワークに突き進むことができたのである。

     始めた時がもっと遅ければ間に合わなかったかもしれないが、八十五歳まで生きれば十分に間に合うはず。神の許しがあれば、ライフワークの成就と共に天国へ行ける、それが夢なのです。

    5 min
  • 今週のエッセイ/六十はいいなぁ

    六十はいいなぁ

     

     一九五一年生まれの私は、今年の四月七日で満六十歳となってしまった。一回り違う長兄が三十四という若さで亡くなってしまったので、私も若くして死ぬのではという思いがつきまとっていたのだが、もうそれも遠い感慨となってしまった。

     還暦のイメージは赤いちゃんちゃんこに赤い帽子ではあるが、最近はそれもあまり見かけない。六十定年も六十五へ移行しつつある。孔子の頃とは時代が違う。六十にして耳従う。そんな心の余裕などは無い。いつもあくせくと動いている。動いていないと何だか落ち着かない。これは私特有の病気なのか、現代病なのか。ここらでゆっくりとしたいものではあるが、何だか罪悪感さえ覚える。年金も平成六年の改正で半分以下に減額されている。国の運用の失敗を何で私が肩代わりしなければならないのだ、ますますゆっくりとはいかない。

     とは言っても、やはり六十は何だか楽しい。何だろう。自分でも分らないが肩の荷が下りたような、自由になったような、解放感に満たされたような、そんな感覚である。映画もシルバー料金、理容店「ボンズ」もシルバー料金。特に映画は嬉しい。久しぶりにインターネットで映画情報を集めると、見たくなるようなタイトルがない、知った俳優はいない、興味をそそる内容の映画はない。洋画は字幕を追うのが辛くなってきている。邦画で時代劇なら安心して見られそうだ。これって、やはり年なのかなぁ。

     「六十の手習い」という言葉もあるが、そんなチャレンジ精神はない。今まで積み上げてきたものをもう少し積み上げてゆくだけだ。少なくとも六十五まではがんばらないと。仕事に趣味に恋愛にますます磨きをかけて。えっ、何で恋愛?いいではないか、これも楽しみの一つに加えて。兎に角、楽しみと言う色をつけながら、六十を過ごしたいものである。

    5 min
  • 今週のエッセイ/取材ノート①②

    取材ノート①

     

     金屑川と室見川に挟まれた地域は昔から稲作に適した地である。そこの一画に有田地区がある。早良郡誌によれば、有田地区はその地勢や諸条件から天恵の地であったと記されている。東は油山、西は飯盛、南には背振、九千部の連峰があり、北には船頭原という所があり海に面している。原始時代からこの地には原住民が住みついていたらしい。山近く、燃料や木材に事欠かず、鳥獣も捕獲しやすい。海近く、魚介類も多く、衣食住に心配なく、人が住むには最適の地であったことだろう。また、生活上の必要条件として交通関係がある。樋井川を渡り、六本松から原四つ角を抜けて今宿への道。早良口から有田、金武を経て、佐賀への道。また、有田、広石、女原への道。海は今よりも有田の近くまできていたので、荷物の輸送も有田を通過したものと考えられる。

     名庄屋松尾孫三郎が生まれたのは、この有田地区であり、そして、命をかけて直訴したのは享保の大飢饉の時であった。いかに豊かな地であったとしても天変地異には勝てなかった。

    しかし、松尾孫三郎の勇気ある行動によってこの地区の村民の多くが助けられたのである。

     ミニコミ誌「リビング福岡」に掲載されていた「やすかば食堂」に寄ってみた。チャンポンを注文してミニコミ誌を見せながら、いろいろと話を振ってみたが、土地の者ではないようだ。ミニコミ誌に紹介されていた坂口英治さんの家を教えてもらった。電話も教えましょうと言うので、待っていたがなかなか出てこない。何やら探しているようだが見つからないようだ。「もう、いいですよ」と奥に声をかけて「やすかば食堂」を後にした。本場「長崎ちゃんぽん」の味を知っている私には、ちょっとコクがないチャンポンだった。

     

    取材ノート②

     

     名庄屋松尾孫三郎の碑は有田天満宮の一角に立っている。碑の表には「義民 松尾孫三郎の碑」とあり、裏には、その功績を称える文言が彫られている。やすかば食堂で聞いた坂口栄治さんの自宅は、松口病院から北へ五十メートル入った所にある。突然の訪問は失礼だと思い、松尾孫三郎のお墓がある西応寺へと足を向ける。

     西応寺は浄土真宗西本願寺派で開基は恵正(えしょう)という人物、現在の当主は十四代目にあたる。松尾孫三郎の事件が二八○年程前、小田部氏が守っていた荒平城が落城したのが四三○年程前。そして、小田部氏の家臣であった小林氏の某が恵正らしい。年代的にはほぼ符号する。

     西応寺のチャイムを押すと坊守らしき人物が出てきた。坊守とは本来、寺の番人のことだが、浄土真宗では妻帯が認められていたので、住職の配偶者をそう呼んでいる。松尾孫三郎の墓は寺の西側に祀られていた。高さ五十センチ程でラグビーボールを縦にして上から圧力をかけたような形である。左側に孫三郎、右側に妻きよの墓が並んでいる。

     詳しい人がいないかと尋ねたが、もうほとんど死んでしまったということであった。詳しい話が本になっていると、持ってきたのが「有田郷土史」、もう既に図書館で読んだ本だった。寺の額には「荒平山」、表札は「小林」となっていた。なるほど、荒平城の主であった小田部氏の家臣だという話には頷けるものがあった。

     寺の中から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。寺を辞するきっかけとなり、失礼したが、お孫さんだろうか。荒平城の出城だった月城(げっしょう)は今の講倫館、その前にある有田天満宮には孫三郎を徹夜で待った「お日待ち」の行事があり、講倫館から北への道は馬場通り、その途中に西応寺がある。果たして孫三郎の時代にはどんな状況だったのだろうか。

    8 min
  • 今週のエッセイ/恋の初風

    恋の初風

     

     季節の初めに吹く風を初風、特に秋の風をいうそうだが、私の心にその風が吹いたのはいつ頃だったのだろうか。

     

     中学校へ通ういつもの道で、彼女は友達と待ち合わせをしていた。その日は、まだ友達が来ていなかったので、手持ち無沙汰な後ろ姿がそこにはあった。同じクラスなので、「おはよう。」と、少し風が吹いた。返す「おはよう」は心なしか震えていた。

     「友達は、まだ?」

     「今日は、ちょっと遅いみたい」

     「そう、じゃぁ~」

     「じゃぁね~」

     短いやりとりなのだが、風の中に甘い香りが漂いだしていた。一瞬にして、私の心を捉えたその笑顔を落とさないように、学校までゆっくりゆっくりと歩いていった。

     その後、同じ高校にも通ったが、彼女の笑顔を落とさないまま、無為な風が流れただけだった。

     

     さて、齢六十にして、風は吹くのだろうか。吹いたとしても、それは初風ではなく、末風となることだろう。いや、何年も前から、風は静かに吹き続けているのかもしれない。

    4 min
  • 今週のエッセイ/ハブ農場

    ハブ農場

     

     大韓航空やアシアナ航空のハブ空港として仁川空港は発展してきました。世界の航空路がこの空港を経由して発着しているのです。自転車の車輪に喩えるならば、その中心が仁川空港であり、スポークの一本一本が航空路にあたります。

     さて、島根県吉賀町のぼやぼや農場もこのハブ的な農場として発展しないのだろうか。これは、最終的な大きな目標なのですが、足元を見ると、まだオープン準備期間なのです。ハブ農場として機能するには、もっとぼやぼや農場の整備を進めなければいけないし、スポーク数も多くしなければなりません。でも、慌てる必要もないし、悲観することもない。整備途上ながらもぼやぼや農場は存在するし、福岡←→吉賀というスポークも厳然としてあるからです。

     今から必要なのは、スポーク数を増やすことです。そこには、思いやりの人達がいて、得がたい情報を共有しつつ、それぞれの思いをお互いで実現していく、そんな小羊の里が現出するのです。ただの観光もよし、ボランティアもよし、田舎暮らしもよし、農業へ従事するのもよし、逃れの町として利用するのもよし、人へ教えるのも教えられるのもよし、自然探索も郷土芸能も習得もよし、それぞれの夢が叶えられるところがぼやぼや農場なのです。

     その歴史の一ページが今開かれようとしているのです。

    4 min
  • 今週のエッセイ/元気なの?病気なの?

    病気なの?元気なの?

     

     正月に久しぶりに義父の所にお邪魔した。その時の義父の話である。

     

     この前、病気の発作が出てね。それも真夜中の二時頃。この時間だから、誰かを呼ぶのも迷惑がかかるし、救急車もいやだし、やっとの思いで、タクシーを呼んで、何とかタクシーに乗ることができてね。百道の救急病院へと行ったけど、保健証を忘れてしまって。仕方なく保健証なしで受診してしまったのだが、発作の方は、もうそのときには少しは和らいでいて、お医者さんに診てもらったらすっかりよくなってしまってね。待たしていたタクシーで帰ったんだが、家に戻ったら、保険証を忘れたのが何だか悔しくて、一万五千円ぐらい余計に払ったのが急に惜しくなって、それから、保険証を持って、自分の車を運転して救急病院に行って、一万五千円を戻してもらい、家に戻ってきたんだが、駐車場で車を入れるのに、暗いし、意識も朦朧としていたので、前のバンパーを石にぶつけてしまって、その修理代が二万円かかってしまって、タクシーで行けばよかったかなぁと思ったんだが、その時は、何だかお金を取り戻そうと必死だったんだよ。良く考えたら、タクシーで往復しても良かったかなと思ってね。

     

     この義父、御歳は、八十三歳。三年ほど前には、もう自分は長くはないからと、千葉の親戚の家まで、自分の車を運転して、今生の別れに行っている。福岡から千葉まで高速道路を乗り継いでである。そう言えば、十数年前には、葬式の事を頼まれたこともあった。

     

     病気なのか、元気なのか、分からないが、〝昭和一桁世代、一筋縄ではいかんなぁ〟と天国の片隅で誰かのつぶやきが聞こえてきそうである。

    6 min
  • 今週のエッセイ/数字遊び

    数字遊び

     

     漢字四文字で成る漢数字が入った熟語を考えてみた。一石二鳥、二束三文、三寒四温、四分五裂、五臓六腑、六穀七珍、七転八倒、八策九丘、九牛一毛等々。この中で存在しないのは、六穀七珍。どうしても六と七の並んだ四字熟語が六泊七日しか思い浮かばなかった。これは四字熟語ではない。その結果、造語として六穀七珍という四字熟語を作ってみた。六穀とは、稲、粱(あわ)、菽(まめ)、麦、黍(もちきび)、 稷(うるちきび)。王の食事として六穀、六牲は、馬・牛・羊・鶏・犬・豚。六清は水、漿(果実の搾汁)、醴(甘酒)、涼(醴が酢酸発酵した物)、医(梅酒)、障。この穀物、酒、肉をバランスよく食し、たまに七つの珍味を食するのが王の食事である。まったくのこじつけで四字熟語にはなっていない。

     

    ちなみに、

    一石二鳥

     石を一つ投げて二羽の鳥を得ること。一つの行為から二つの利益を得ること。

    二束三文

     数が多くても値段が非常にやすいこと。

    三寒四温

     冬季に寒い日が3日ほど続くと、そのあと4日ほど温暖な日が続き、

     また寒くなるというように7日周期で寒暖が繰り返される現象。

    四分五裂

     まとまっていたものが、調和が崩れて、乱れてしまうこと。

    五臓六腑

     「五臓六腑に沁みわたる」といわれていますが、五臓六腑というのは東洋医学の

     考え方で、五臓(心臓・肺臓・肝臓・腎臓・脾臓)と

     六腑(胃・小腸・大腸・膀胱・胆嚢・三焦)を意味しています。

    七転八倒

     苦痛のため、のた打ち回ること。

    八策九丘

     古書の名。「八索」、「九丘」は、ともに中国古代の書物の名。

    九牛一毛

      取るに足りないことのたとえ。無数にあるもののごくわずかな部分のたとえ。

    5 min
  • 今週のエッセイ/どっちが痛い?

     どっちが痛い?

     

     先日、T先生が小雑誌をプレゼントしてくださった。NHKで放送している〝こだわり人物伝〟のテキスト本だった。その中に、遠藤周作の〝沈黙〟に関する話が掲載されていた。遠藤周作が好んで色紙に書いたのは「踏まれる顔よりも踏む足も痛い」というものであった。

     

     数日後、或る会合での出来事である。

     「じゃ、わたしがその素案をまとめましょう」と私。

     「苦しい時は、言ってきてください」とS女史。

     「(言ったら)何をするんです?」と訝しそうに私。

     「楽にしてあげます。首締めて」と明るくS女史。

     冗談だから、笑ってその場は離れました。

     

     その帰り際、T先生が

     「森田さん」と呼び止め、

     「首しめられるよりも、しめる手が痛いのよ。お耐えなさい」

     これには、沈黙せざるを得なかった。

     

     こんなシュールな笑いがそのまま受け入れられるのも、十年近い付き合いのためか。余暇草の文章サークルは特殊な関係だ。普通のサークルでは、私生活まではほとんど立ち入らない。が、このサークルでは、立ち入らないけれどもおおよそ知っている。恐い気もするが、やはり楽しい。

     

     今年の秋で丸十年である。確実にレベルの階段を上がりながら、絆という帯でしっかりと結ばれているようである。 

    4 min
  • 今週のエッセイ/ダマンキとアブラムシ

    ダマンキとアブラムシ

     

     別に怪獣戦争が勃発したわけではない。〝ダマンキ〟というのは長崎で幼年時代に使っていた言葉である。本気ではないことをいう。たとえば、じゃんけんで負けた時に、「いまんとは、ダマンキさ」と言って、勝負を反故にする。だから、この言葉を使う人は同い年か年下である。可愛いから許されるのである。でも、この言葉を年上が口にすると、どうにもいただけない。人間性さえも疑いたくなる。 

    〝アブラムシ〟という言葉は、妻が福岡で子供時代に使っていたものらしい。「この子は、まだ小さいけん、アブラムシにしとこ」というような使い方をする。遊びのルールは適用させずに自由に遊ばせてやる、いわばおにいちゃんやおねえちゃんの年下に対する面倒見の良さを遊びで肩代わりしているようなものだ。これはこれで納得のいく良きシステムである。

     この〝ダマンキ〟にしても〝アブラムシ〟にしても、幼いから許される話で、これが大人になっても、続いていたらおかしいし、続けていきたいという思いを持つとしたら、これまたおかしな話である。ところが、七人兄姉の末っ子であるこの私は、時々〝ダマンキ〟扱いや〝アブラムシ〟待遇を受けているような気がする。兄姉の中で大事な話に付き合ったこともないし、相談を受けたこともない。幼い頃から今日までもそうである。普通ならば自ら飛び込んで関わろうとするのだが、それがない。

     私の人生は、いつも〝ダマンキ〟であり、本気にはなりえない。本気になると自分の実力を知ることとなり、愕然となるのである。また、〝アブラムシ〟魂(?)から一向に抜け出そうともしない。ぬるま湯の世界がとっても好きなのである。これから始まる残された時間を〝ダマンキ〟という怠惰な心と〝アブラムシ〟感覚で過ごすには何ともやるせない。あとは、自分のすべてを知りつつも笑い飛ばすしかないのである。笑ってさえいれば何とかなることを信じよう。

    5 min

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