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岡山県出身の詩人・永瀬清子さんの詩をRSKアナウンサー 小林章子の朗読でお届けします。どんな景色が心に浮かぶでしょう?人生のステージや生活に合わせて読むことができる永瀬さんの詩の世界。多感な時期の悩み、結婚、両親、夫や子供など家族のこと、生活の中での驚きや発見、山や川、植物や天体など自然について、世の中について、老いについて。永瀬さんの詩は、過去の自分を振り返ったり、これから行く道の道しる... more
FAQs about 永瀬清子の世界:How many episodes does 永瀬清子の世界 have?The podcast currently has 108 episodes available.
April 13, 2026#108「いつまでもあるものそれはない?」「いつまでもあるものそれはない?」という題名に、はっとさせられます。「いつまでもあるもの」とは何でしょうか。形あるものは壊れていき、思い出は忘れ去られてしまうならば、自分が残さなければ消えてしまうものかもしれません。年老いてしまった「私」の心に聞こえてくる「やさしい声」。それは、他の人には聞くことのできない「私」だけに聞こえてくる声です。そうした声を自分の中に持っていることは、幸せなことだと思います。その声が、これまでの「私」の歩みの中で「私」を励まし守り続けていたのかもしれません。<文・白根直子>...more5minPlay
April 06, 2026#107「私は」「世間みず」で「井の中の蛙」のような「私」。かつては、自分の「狭さ」や「ある部分しかピントが合はない」ことを「欠点」と思っていました。しかしこの「欠点」は、隠すものではなく肯定すべきものだと考えているところにこの詩の魅力があります。たとえば、昼間のいつもの明るさの中では感じにくい光でも、闇の中では、「少しのすき間から一直線にさしてくる光」は鮮烈な光として届きます。そのように「私」は、自分の「欠点」を生かして、「私」でなければ見えないものを捉えようとしているのではないでしょうか。闇が深ければ深いほど、差し込む光の強さは際立ちます。そしてその光のように「私」の見方を深めていくことは、いつか自分自身を支える「私」の味方になっていくのです。「欠点」というマイナスを「私」しか捉えられない光というプラスにしていく。この詩を貫く眼差しに永瀬清子さんの生き方を感じないではいられません。<文・白根直子>注)永瀬清子の詩「私は」(『諸国の天女』河出書房 1940年)の引用は『永瀬清子詩集』(思潮社 1979年)によります。同題の他作品と区別するため、便宜上()内に冒頭の一行目の一部を題名に付記しました。...more5minPlay
March 30, 2026#106「いつかいつか三章 c木瓜(ぼけ)」「いつか」という願いは、永瀬さんの詩を貫くもののひとつだと思います。春に花を咲かせ、秋に実を結ぶ。それは、誰に知られることもなく繰り返される自然の営みかもしれません。ところが「私」は、木瓜と心を通わせ、「いつか」という願いを託しているのです。人知れず実った木瓜の実は、「私」ならば価値を認めてくれるのだと信じているかのように、「私」の足許に落ちていました。そのものの持つ価値を見抜くことができるのは、その人が平素から何を見つめどのように考えているかにも拠ります。「私」は、「口が曲がるほどしぶく」思われた木瓜の「無用の種子」を蒔き、「その渋さを又もや我がものにと――」と願います。これから花を咲かせたいと願う人が、さらにどのような実をつけるのか。他の人にとっては価値のない木瓜の実の「渋さを」自分のものにしたいという願い。ここには、永瀬さんが自分にしか書けない詩を書き続けていきたいという願いにも重ね合わせたくなります。<文・白根直子>...more4minPlay
March 23, 2026#105「心の底では」「ホントの心」で通じ合うことを心の底で願っていても叶うことはない。「義理と思惑」で動く世の中では、心は届かないという嘆きばかりです。では、「ホントの心」とは何なのか。嘆くしかないのでしょうか。仮に「ホントの心」が届けば、全ては解決するのでしょうか。この詩は、これらの問いに答えを与えてはくれません。なぜならば、これらは人生の不条理ともいえる、誰にも答えられない問いだからです。ここで漢字の「本当」ではなく「ホント」とカタカナで表記することで、重い主題に独特の軽みを与え、読者の心に入りやすくなっています。詩人の井坂洋子さんは、「現代詩は、習熟した答えよりも問いの深さに軍配をあげ、自分サイズの完成よりも永遠の未完を評価する傾向がある」ことにふれ、その上で永瀬清子の詩を「伝統的な技法の延長線上にありながら、技法の隅々を実らす豊かさがある」と評価し、その理由として永瀬清子が「答え(認識)の側の詩人であったからではないか」と指摘しています(『永瀬清子』五柳書院 2000年11月)。安易な答えに満足することなく、答えが出ない問いに答え続け、本質を求め続ける永瀬清子。こうしたところにも永瀬清子の詩の特徴があるといえるでしょう。<文・白根直子>...more4minPlay
March 16, 2026#104「見えても見えない三章 aミモザ」ロウバイ、レンギョウ、タンポポ……そして、ミモザ。春に咲く黄色い花は、景色を一度に明るく暖かくしてくれます。春の訪れを待ち焦がれる「私」は、「十三週間以上も待たせた」と花咲く日を楽しみにしていました。けれどもやっと咲いた時には、その花を見に行くことができず遠くから小さく見えるだけ。それでも、人知れず咲くミモザが、「私にだけは見え」ていたのです。「東山」は、岡山駅前から岡山市中心部を走る路面電車の終点の駅です。永瀬さんは、車窓から見える景色を詩に書いており、この詩もそうしたひとつです。「見えても見えない」ほどかすかな、けれども確かな春の訪れを見つめる「私」。春は、約束を破ることはない友達のように、必ず「私」のところに来てくれます。<文・白根直子>...more4minPlay
March 09, 2026#103「短章「サンドペーパー」」サンドペーパーが木材や金属をなめらかにするかのように、みつめられて美しくなり光りだす。みつめることは、その人への温かな関心の表れであり、みつめられることは、その関心を自らのものにすることなのでしょう。たった一人でも理解してくれる人がいるだけで、励まされて前に進めるような気持ちになったり、新しく生まれ変わったかのような気持ちになれたりすることがあります。人知れず咲こうとするその姿を知っているのは自分だけかもしれないけれども、それをどこかで見てくれる人がいること、自分では気づかない成長を誰かが見守ってくれていることを知ればその喜びは格別でしょう。そして、自分のことを見つめてくれる人がいてほしいと願うとき、その願いは同時に自分が誰かを見つめる人になることの意味を教えてくれます。<文・白根直子>...more4minPlay
March 02, 2026#102「短章「もしも私が」」私たちは、生きている限り、強くもなれば弱くもなります。その強さや弱さの表れとして「人は裏切ろうと思わずに人を裏切る」うえに「自分は自分をも裏切る」ことになるのかもしれません。そしてこれは昔からの「人間のかたち」とあるように、人間が人間である以上避けられない「悲しみ」なのかもしれません。つまり、「もしも私が死んだら」という仮定は、生き物としての「死」ではなく、「裏切る」ことによる心の「死」といえるでしょう。たとえ「私自身は人を裏切るまい。」と心に誓ったところで、そのことにより誰かを傷つけ、結果として悲しみをもたらすことさえあるかもしれません。そんな逃れられない人間の矛盾が描かれています。<文・白根直子>...more4minPlay
February 23, 2026#101「短章「あわれみが」」すべてを解決するのは、「愛」ではなく「あわれみ」なのかもしれません。ならば、「愛」と「あわれみ」の違いは、どこにあるのでしょうか。そしてなぜ今、「あわれみ」だと思うようになったのでしょうか。「まっすぐに流れる河はない」とあるように、人生も物事も順調に進むばかりではありません。「抵抗なしに進む考えはない」とあるように、悩みや迷いが生じ、思いがけない流れに巻き込まれてしまうこともあります。そのように人生も物事も、いつも私たちに問いかけてきます。この問いを受けた、「悲しめるもの」が「骨を曲げて」眠る姿は、まるで河底の石のようです。上流から流れに任せて転がり、角が削られ丸くなっていく石。濁った水が清らかになり光が射すのを待つかのように解決方法を探し続けるその姿。長い時間をかけて丸くなっていった石は、流れていくうちに変化し受け入れていくことを覚えていきます。だからこそ時に誰かを傷つけることもある「愛」ではなく、互いの弱さも立場も理解し思いやる「あわれみ」の力に気づかされたのかもしれません。<文・白根直子>...more4minPlay
February 16, 2026#100「短章「悲しめる友よ」」配偶者との別れは避けがたい現実です。永瀬さんは、そうした現実を見据え「男性より一日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、又それを被わなければならない」と述べ、このことを「女性の本当の仕事」だというのです。これは、どういうことでしょうか。年を重ねた永瀬さんは、男性と女性について「本当はどちらが居なくてもうまくやれぬことは同じである」と考えるようになりました。そして、「相手が自分に何もしてくれない、と云う事はすぐ考えつくが、自分が相手にどれ位の事をしてやれたかが判るのは一生かかっても判らない」(「女性・この被うもの――婦人論についての素朴な考え」『伝統と現代』1977年9月)と考えていたのです。こうした言葉には、男女平等や男女同権について考え続けてきた永瀬さんが、よりよく生きるためにたどり着いたひとつの境地が表れているのではないでしょうか。ここにも自分の心と相手の心を見つめながら詩を書き行動しようとした永瀬さんの姿が浮かび上がります。<文・白根直子>...more4minPlay
February 09, 2026#99「短章「腕なき鬼」」短章「腕なき鬼」では、歌舞伎の「綱館」を観て、「老いた女性の枯れて美しい魅力」とともに、戦いに負けた人にも「正当な理由がある」と思いを寄せています。そしてこの思いは、女学生の頃に読んだ古代英語で書かれた英雄叙事詩「ベオウルフ」の梗概をもとに書いた詩「グレンデルの母親は」に通じるものでした。この授業を行ったのは、夏目漱石の一番弟子・中川芳太郎です。こうしたエピソードから愛知県第一高等女学校高等科英語部での学びが、詩人・永瀬清子の礎となったことがうかがえます。「鬼の方に却って最後の勝利を与えている」ところを好ましく思った永瀬さん。「自分の詩の源流」に気づき「最後の勝利」を願うとしたならば、永瀬さんにとっては自分でなければ書けない詩を書くことだったのではないかと思えてなりません。<文・白根直子>...more4minPlay
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