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岡山県出身の詩人・永瀬清子さんの詩をRSKアナウンサー 小林章子の朗読でお届けします。どんな景色が心に浮かぶでしょう?人生のステージや生活に合わせて読むことができる永瀬さんの詩の世界。多感な時期の悩み、結婚、両親、夫や子供など家族のこと、生活の中での驚きや発見、山や川、植物や天体など自然について、世の中について、老いについて。永瀬さんの詩は、過去の自分を振り返ったり、これから行く道の道しる... more
FAQs about 永瀬清子の世界:How many episodes does 永瀬清子の世界 have?The podcast currently has 130 episodes available.
September 14, 2026#130「不完全な曲」友達が「私」にくれた琴は、昔弾いていた琴よりもずいぶん小さな琴です。「私」が、その琴を「飢えかわく人のように」弾く姿は、これまで心の中に溜まっていたものが堰を切って流れ出すかのようです。そして心はどこか遠くの世界へ向かって、はばたいていく力を得たかのようです。戦いの続く「修羅世界」に生きる「私」。琴を弾いている時だけは、戦いを忘れられるのでしょう。自分が弾くには小さすぎる琴で、いろいろな鳥の曲を時に間違いながら、琴柱(ことじ)を直しつつ「不完全な曲を窮屈にひく」ことは、不完全なままで生きる「私」の姿そのものです。完全な曲を弾きたいと願う心と、「現実世界」で戦う「修羅世界」。「不完全な曲」は、生きることそのものを象徴しているように思えます。<文・白根直子>...more5minPlay
September 07, 2026#129「短章『幼かりし日 e 瓦斯燈』」永瀬清子さんは、2歳から16歳の間金沢で暮らしました。明治の終わりから大正時代にかけてのことです。金沢では、この世の神秘や不思議を感じさせる出来事に触れることがあり、それを一種の皮膚感覚として受け取っていたようです。昔話、グリム童話、ペロー童話、神話などを読み、古くから伝わる子守唄やわらべ唄を聞いていたこの頃の永瀬さん。「自分たちもそんな話をひとりでに空想し云いつたえた」ほど、そこに暮らす人々にとっては、現実の世界と神秘的な世界が自然に重なり合っていたのでしょう。これらは、「戦慄すべきことが多く」とあることからもわかるように、めでたしめでたしで終わるような話ではなく、現実の悲しみや厳しさを伝えていたことがうかがえます。今なお「とても説明はできない」と書かずにいられない金沢の街の神秘。この目に見えないものが、金沢の街や文化を育み、永瀬清子さんの感性をも育んだのでしょう。<文・白根直子>...more5minPlay
August 31, 2026#128「出ていった三章 a 出ていった」道ばたからふと見えた「門から座敷まですっかり見えている」家の中。家から出ていったのは、そこに暮らしていた誰かで、この世を去ってしまい帰ってくることはありません。空っぽになった家は、これから誰が住むのかもわかりません。門のそばの紫苑がうつむいているのは、枯れてしまったからなのでしょう、まるで帰らぬ人の姿のようです。その家を見た「私」は、「赤坊を生んだばかりの女のようだ」と思うのです。出産によって「女」の体から子どもが出ていき胎内が空っぽになるように、大切な存在が「出ていった」空間の喪失感を重ね合わせているのでしょう。人が生まれるのは、この世へ出ていくことであり、亡くなるのは、この世から出ていくことなのだと気づかされます。どこかさびしさがぬぐえないのは、「私」が出ていく側になる日を思わせるからかもしれません。空っぽの家とうつむいた紫苑を見つめる「私」。どこかから来た「私」は、いつか「どこかへ」いく日が来る。そんなことを、ふと思うような詩だと思います。<文・白根直子>...more5minPlay
August 24, 2026#127「一九八八年夏 ⅱ あじさい」永瀬清子は、植物を愛しており詩には百種類を超える植物が登場します。アジサイもそのひとつです。この詩では、友達から貰ったアジサイを「長いつきあい」と表現しており、アジサイを贈ってくれた友達への親しみとともに、アジサイそのものにも友達のような温かさを感じている「私」のまなざしがあります。だからこそ、八重に咲くアジサイを水切りして生け直し、大切に世話をするのでしょう。「藍の色の濃淡で もう十日も彩っている」アジサイは、美しさにより「私の部屋」の暑さをやわらげ、「私の老いた脳髄」をなごませています。アジサイは、色だけではなく、生けなおせば十日も咲き続ける生命力で、老いた「私」に力を与えているかのようです。植物と心を通い合わせるように詩を書いていた永瀬清子。もしかしたら植物の一つ一つが、一篇の詩のように見えていたのかもしれません。<文・白根直子>...more5minPlay
August 17, 2026#126「短章『平和の詩について』」平和について詩を書くことの難しさを語る短章です。戦争の時代を知る人が、知らない人たちに対して「なぜ戦争が恐ろしいのか、雪崩か渦に巻きこまれるようにすべて傾いたのか」を伝えるためには、「説得力」や「必死」の思いが必要だと述べます。さらに「悩みも、うめきもなく合言葉を入れる」ことで、大義名分が立ったと考えることにも疑問を呈しているのです。このことは、私たちが、今なお世界で起きている戦争について知り、平和について考えるときにも当てはまるのではないでしょうか。その時代を生きた人でなければ判らないことを理解しようとする難しさ。戦争を知る永瀬さんだからこその切実な思いが、短章で疑問を呈する「私」に託され、戦争を知らない私たちにも問いかけられているようです。<文・白根直子>...more5minPlay
August 10, 2026#125「夏草が」夏は、草が勢いよく繁っていき地面が見えません。抜いても刈り取ってもすぐに新しい草が伸びてくる様子は、まるで何かに追いかけられているようです。この状態は、何をどう書こうかと迷う「私たち」の混乱した頭の中の絡まり合った草むらのようです。「私たち」は、その草むらの中をかき分けるように、まず書いてみることで、初めて自分が書こうとしていたことが判り「新しい道にやっと出会う」というのです。つまり「判らないから書く」とは、まずは行動に移すことが大切だということです。最初から頭の中で構成を組み立てるのではなく、書いていくことで自ずと書きたいことが草むらの中から姿を現し、なぜこのことを書きたいと思うのか、このことをどう伝えるかの「意味がみえてくる」のでしょう。永瀬さんが詩の一行目に大切なことを書いていたのは、夏草をかきわけて道を作る第一歩だったのではないでしょうか。<文・白根直子>...more5minPlay
August 03, 2026#124「夏日の蛇」ある夏の日に見つけた〈蛇〉をめぐる「私」と「子供」との日常の一コマです。「藍と青の絣模様」ならば、アオダイショウなのでしょうか。同じ〈蛇〉でも「子供」の感じ方は、昨日と今日では正反対になっているのです。単に観察するだけならば「興味ふかく」思うだけでも、テリトリーに入ってこられると落ち着いてはいられません。一方で〈蛇〉は、気にも留めず「きわめて悠然と」叢の中に消えていきます。それは、世間との距離の取り方を知っている成熟した生き物のふるまいであり、「子供」と〈蛇〉の成熟度の違いを感じさせられます。「子供」はいつか〈蛇〉のように成長していくのだろうと、「私」はふと思ったのかもしれません。だからこそ「ふと二人で思いだすことはないだろうか」という思いに駆られたのではないでしょうか。冒頭で「『十便十宜帖』にあるような小さな石の橋」と池大雅の文人画を出して、場所を想像させ、最後に「むかしの夏」を「忘れがたい一枚の絵として思い出す」ところに、この短章そのものが一枚の絵のように感じられます。思い出は、このように積み重ねられていくのかもしれません。<文・白根直子>...more5minPlay
July 27, 2026#123「短章『痛覚』」自分の痛みを伝えることは難しいことです。感じた痛みを言葉にしても「他人にはただ言葉であり、目盛が見えぬ」ために、相手は想像するほかありません。もしかしたら、想像さえしてもらえないこともあります。さらには、痛みを訴えた途端、それをきっかけに相手の自分語りへと話がすり替わり、うんざりしてしまうこともあるでしょう。こうした痛みも相手に深く届くことはなく、ただの話題として消費されていきます。だからこそ「(死の壁をいや応なしに越える時に)あたってやっと驚く」のかもしれません。「もう少し早く知っていたら」という取り返しのつかない思いをしても、誰かの痛みを自分の痛みのように捉えることは、なかなか難しいものです。わかる、ということは、つくづく大変な能力なのだと思わずにいられません。<文・白根直子>...more5minPlay
July 20, 2026#122「短章『塩・砂糖』」塩と砂糖を間違えるような、うっかりミスは誰にでもあることです。そうした間違いは、そのまま単なる失敗として片付けられ、「私」が不注意な人間だという評価だけで終わってしまいがちです。どうして「私」がうっかりミスを起こしたのか、他の誰かがその理由を日常生活の中で考えることがあったとしても、それは表面的なものにとどまるでしょう。ところが「私」自身は、起きた出来事の背後にあるものや、自分が背負っているものといった、出来事の向こう側に思いをいたしているのではないでしょうか。ここでは具体的にふれられていませんが、「私」には、あえて言わなかったミスの理由があるのです。そこには、どうせ言っても理解されないだろうという諦めとともに、安易な言い訳を許さない自分への厳しさも感じられます。「私」のまなざしは、日常の何気ない出来事から人の心の複雑さを捉えています。<文・白根直子>...more5minPlay
July 13, 2026#121「無色ノ人」永瀬清子は、随筆「私の詩」(『農民芸術』第6集 1948年3月)に、「賢治さんにむかつての詩を私は時々書きました」と3篇の詩を挙げており、詩「無色ノ人」は、そのうちの1篇です。「無色ノ人」は、「我」にとって「絶壁ノゴトクソバダチテ」と表現されるほど大きな存在です。そのうえ「我」が、深いかなしみにくれたときには、「無色ノ人ノ懐ニナクナリ」とあるように、大いなる拠り所ともなっています。この詩は、カタカナと漢字で書かれた文語詩であり、現代の私たちには、やや難解に感じられるかもしれません。まずは、声に出して読んでみてください。詩が持つリズムの心地よさが自然と伝わってくるはずです。2026年は、宮沢賢治生誕130年・永瀬清子生誕120年にあたる記念の年です。「無色ノ人」に託された永瀬清子の宮沢賢治への思いを、この詩を通して感じ取っていただければ幸いです。<文・白根直子>...more5minPlay
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