天理教の時間「家族円満」

天理教の時間「家族円満」

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天理教の時間「家族円満」 episodes

  • あなたはどんなジュースが好きですか?
    あなたはどんなジュースが好きですか?
    埼玉県在住  関根 健一
    先日友人と、ある映画の話題になりました。その映画は、無肥料無農薬の自然栽培で野菜を作っている隣町の農園を題材にしたドキュメンタリー映画でした。
    その農園では従業員やパートスタッフに混じって、「研修生」と呼ばれる人たちが作業を手伝っています。近頃、自然栽培という言葉を耳にすることも増えてきましたが、まだ日本の野菜の流通量の0.1%にも満たないそうで、この新しい農法を学びに、全国各地からたくさんの人が研修生としてやってくるのです。
    その中には、農家になるのが目的ではなく、仕事漬けの人生に疲れてしまい、「土に触れながら自分の人生を見つめ直したい」との理由で研修を受けに来る人もいて、そこで働く人の姿は実に多様です。その参加者たちに寄り添いながら、自らも一緒に成長していく農園経営者の姿に心を打たれた映画監督から、ドキュメンタリー映画を撮りたいと声があがったのです。
    実は、この映画には私と長女も出演しています。というのも、映画の題材となった農園の経営者Aさんは、私の長女が通う特別支援学校の「現場実習」の受け入れをお願いした方で、その時にちょうど映画の撮影が入っていたのです。特別支援学校の現場実習とは、障害のある生徒たちが、職場や福祉作業所での体験を通じて、本人の適性や相性などを見極めることを目的にした制度です。障害の種類や程度にもよりますが、長女が通う学校では、高等部に上がると一つの現場に一週間ほど通って実習を行います。
    一般企業への就労を目指す生徒は、受け入れてくれそうな企業に実習を受けに行くのですが、長女のように生活のほとんどの場面で介助が必要になる生徒は就労が難しいため、卒業後には生活介護事業所と呼ばれる福祉サービスに通うことが多いのです。そうしたサービスを提供する場所は地域でも限られているので、現場実習は多くの場合、卒業後に通う福祉施設の「お試し」のようになってしまいます。
    しかし、在学中、5回に分けて延べ10カ所で行う現場実習のすべてを「卒業後に通えそうな施設」だけで考えるのは、可能性を狭めているようで、とてももったいないことではないかと感じていました。
    そう感じるようになったきっかけは、まだ長女が小学校低学年の頃にさかのぼります。情報通信技術を使った障害児支援について研究されている、ある大学教授の講演を聴いた時のことでした。
    その先生は、聴講に来ていた我々、障害のある子の保護者に向かってこう問いかけました。
    「お子さんに、オレンジジュースとリンゴジュースどっちがいい?と聞いて、リンゴジュースと答えたら、この子はリンゴジュースが好きな子なんだ、と思っていませんか?」と。
    多くの保護者がうなずく中で、先生はこう続けました。
    「その子は、ぶどうジュースを飲んだ経験がありますか? グレープフルーツジュースを飲んだ経験がありますか? 障害のある子の選択肢は、支援する人が提示した物の中に限られてしまうことがほとんどです。失敗も含めて、自ら選び経験する場を与えてあげること。その子が本当に好きなものに出会えるかどうかは、支援者によるところが大きいのです」と。
    これを聞いて、ハッとしました。それ以来、私たち夫婦は、長女の現在の「できる、できない」を基準にするのではなく、長女の「やりたい」ことを基準に考え、「できた、できなかった」という体験に触れさせることで、自ら選択し、決定する力をつけてあげられるように心がけてきました。
    話は戻って、長女が高等部に上がり、現場実習のあり方に私が疑問を感じ始めていた時のことです。
    Aさんの農園で障害のある子供たちの農業体験の企画があり、そこでアドバイスをして欲しいと依頼され、参加しました。その時、障害児の親御さんたちの細かな要望に対して、まずは「できること」を前提に前向きに話すAさんの姿を見ていて、「この農園なら現場実習をお願いできるんじゃないか」と直感しました。そこで、「娘の現場実習を受け入れてくれませんか?」とお願いしてみたところ、Aさんはその場で快諾してくださいました。
    その後は、Aさんの農園で受け入れの承諾をいただいたことを学校に相談し、進路担当の先生や担任の先生を交えて、現場を見ながら打ち合わせという流れになります。
    校長先生から「保護者が実習先を見つけてくるなんて、珍しいことなんですよ」とビックリされましたが、進路担当の先生は常に実習の受け入れ先の企業探しに奔走しているので、学校としてはとてもたすかると喜んでくださいました。
    長女は車椅子に乗っているので、もちろん一人で畑作業などはできませんし、介助をするに当たっても、農場や作業場にはバリアフリーの環境などほとんどありません。話し合ってみると課題はたくさんありましたが、Aさんはじめ農園のスタッフ全員が、「どうやったらできるのか?」を徹底的に考え、準備を整えてくださいました。
    さらに、Aさんは実習が始まってからも「悠里ちゃんはどうしたい?」「次は何をやってみたい?」と常に長女の希望に寄り添い、それが実現できるように最大限の工夫をしてくださいました。
    実習に入って数日経ったある日のこと。農園に着くなり長女が突然、「お芋掘りしたい」と言い出しました。するとAさんはすぐにスタッフと相談して、サツマイモ畑の状況を確認し、「じゃあ、これからお芋掘りに行こう!」と言って、ゴザを数枚持って畑に向かいました。
    畑に着くと、もちろん車椅子では畑に入れないので、スタッフが途中まで掘って頭が見えてきたサツマイモの横にゴザを敷き、付き添いの先生が長女を抱きかかえるようにして座り、後ろから手を添えて長女に蔓を握らせ、一緒に引っ張りました。
    するとサツマイモが芋づる式に…と、絵に描いたようにはいきませんでしたが、大きなサツマイモが〝ごろん〟と土の中から出てきました。その時の長女の嬉しそうな笑顔は、今でも忘れられません。
    その日の実習が終わり、帰りの挨拶をした時、Aさんが「悠里ちゃん、自分で収穫した野菜をおうちの人に食べてもらうまでが実習だよ」と言って、その日収穫したサツマイモを長女に持たせてくださいました。
     うちに帰ると、さっそく神様にお供えして、夕飯に家族みんなで食べました。家族が「おいしい」と言うたびに、「悠里がとったんだよ」と誇らしげに答える姿がとても微笑ましかったのを覚えています。
    私の何気ない思いつきから始まり、ドキュメンタリー映画に記録されるというおまけもついた、農園での現場実習。今でもふと、私がAさんの名前を出すと、長女は「メガネのAさん?また会いたいなあ…」と言って嬉しそうな顔をします。彼女にとって、忘れることのできない貴重な体験だったのだと思います。
    近年、AIの発達や社会状況の変化によって、「将来必要とされなくなる仕事とは」などと、メディアに取り上げられることがよくあります。しかし、仕事には生産性以外にも、「生きがい」という大事な役割があります。
    生産性ばかりに目を向けていると、障害のある人の持つ秘めた力になかなか気づくことができません。彼らの可能性を発見するためにも、様々な選択肢を用意し、「できた」「できなかった」という体験を重ねることが必要です。
    障害のある人たちの体験の場は、まだまだ少なく、受け入れてくださる企業も足りていないのが現状です。もしかすると、あなたの職場がその一端を担える場所になるかもしれません。これをきっかけに、そんな風に考えてくださる方が増えることを願っています。
    心のあり方を整える
    信仰生活とは、ただ眼に見える世界に生きるのではなく、眼に見えない世界とのつながりを意識しながら生きることだと言えます。たとえば、木を育てる場合でも、幹や枝の伸び具合、花の色合いを見ているだけでは、立派な木に育てることはできません。地中に深く張っている、かくれた根の部分に十分心を配る必要があります。
    私たちの生活についても同じことが言えます。ともすれば私たちは、形あるものの様々な変化の中だけで物ごとを判断し、行動することに終始してしまいがちです。
    天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」で、次のように記されています。
      月日にハどのよな心いるものも  このたびしかとわけてみせるで (十一 6)
      どのよふな心もしかとみているで  月日このたびみなわけるでな (十一 7)
      口さきのついしよばかりハいらんもの  心のまこと月日みている (十一 8)
    見抜き見通しの月日親神は、たとえ人間がどのような心遣いをしようとも、すべてを余すところなく見分け、その是非善悪を明らかにする。ゆえに、ただ口先だけで追従を言ったりするようなことは断じていらない。親神はすべての者の心の誠を、しっかりと見ているのである。
    隠れている世界に眼を凝らし、弛むことなく親神様の思召しを求めていく。そのような生き方を、私たち人間にきっぱりと求められているお歌です。
    私たちが成すべきは、目に見える形を整えるよりも、まずは心のあり方を整えることです。その意味では、口でお世辞を言いながら、心の中で舌を出すような「口先の追従」などは、最も慎むべきことと言えるでしょう。
    (終)
    14 min
  • こども食堂×補導委託
    こども食堂×補導委託
                  千葉県在住  中臺 眞治
    3年ほど前、妻から「こども食堂をやってみたい」と相談がありました。「近所に親しい人がいない」という地域の方々の不安の声を耳にすることが増え、安心できる顔なじみの関係づくりが必要ではないか、というのがその理由でした。
    ちょうどその頃、教会では働きに出ることが困難な方が数人一緒に暮らしていて、そうした方々の活躍の場にもなるのではという期待もあり、始めることにしました。色々と不安な点もありましたが、同じ地域に以前からこども食堂を実施している教会があり、そちらのご夫婦に諸々のアドバイスを頂きながら、令和4年3月に第一回を開催することができました。
    こども食堂を始めて3カ月が経った頃、地域の自治会から質問状が届きました。「なぜこども食堂を始めたのか?」「宗教の勧誘は行うのか?」などなど、そこには地域の方々の不安がつづられていました。
    「地域に親しい人がいるという安心をみんなでつくる」をコンセプトに始めたこども食堂でしたが、地域に溶け込めていないのは私ども教会の側だったのだと、あらためて気づかされた出来事でした。
    しかし、それらの質問にお答えしたところ、自治会長さんがいたく感激され、自ら宣伝役を買って出て下さったばかりでなく、宗教施設でこども食堂をすることに反対の声が上がると、自ら説得に赴いて下さいました。そうした協力のおかげもあり、現在では毎回50世帯ほどの親子連れや一人暮らしの高齢者などが利用されるようになりました。
    こども食堂は、お手伝いをして下さる方やお米や野菜を寄付して下さる方など、様々な方の協力なくしては開催することができません。しかし、そういう活動であるからこそ、多くの皆さんとたすけ合いの輪が広がっていることを実感できるのです。
    そのこども食堂に、時々、補導委託の少年たちがボランティアスタッフとして参加してくれることがあります。補導委託とは、非行のあった少年を家庭裁判所からの委託で預かり、更生のお手伝いをする活動です。
    ある日、家庭裁判所から一本の電話が掛かってきました。ある少年を3日間教会で預かり、こども食堂のお手伝いをさせてあげてほしいとの依頼でした。ただ、職員さんが付け加えて言うには、「少年は非行を繰り返しており、いつも不貞腐れていて、裁判官にも盾突くような子です。それでも預かっていただけるでしょうか?」とのこと。
    私は「もちろん大丈夫ですよ」と伝えてその日を待ちました。
    約束の日になり、A君はやってきました。A君は最初こそ緊張した面持ちでしたが、聞いていた話とは違って、とても素直な少年でした。掃除や買い出し、お弁当の詰め込みなども一生懸命手伝ってくれて、教会で暮らしている方々とも、他愛のない会話をしながら楽しそうに過ごしていました。
    こども食堂当日を迎え、私が「今日のテーマは、とにかく来た人を喜ばすということだよ」と伝えると、その意を汲んで懸命に努めてくれました。そして予定の3日間が過ぎ、みんなから「ありがとう。お疲れさま。また来てね」と見送られながら、自宅へと帰っていきました。
    その翌日、家庭裁判所から電話がありました。「実は昨晩、A君から『この度は、大変貴重な経験をさせて頂きありがとうございました』と、裁判所にお礼の電話が掛かってきたのです。そんなことを言う子だとは思いませんでしたし、言葉遣いまですっかり変わっていました。中臺さん、一体何をしたのですか?」
    そう聞かれても、私は特別何かをした覚えがないので、返事に困ってしまいました。
    その後、半年ほど経った頃に、その職員さんにお会いする機会がありました。私がA君のことを尋ねると、職員さんはA君が書いた補導委託についての感想文のことを話して下さいました。そこには、こうつづられていたそうです。
    「自分は友達と比べながら、なんて恵まれない家庭なのだろうかと思い、不貞腐れて生きてきた。でも教会に行ったら、自分よりもっと恵まれない家庭の人たちがいた。では、その人たちは不貞腐れていたのかと言えばそんなことはなく、みんなでたすけ合って笑って生きていた。その姿を見たら、不貞腐れている場合ではないなと思った」
    職員さんはA君の近況について、「あれから真面目に学校に行くようになり、部活動も頑張ってますよ」と教えて下さり、こちらも嬉しく満たされた気持ちになりました。
    天理教の原典「おふでさき」では、
      このさきハせかいぢううハ一れつに  よろづたがいにたすけするなら (十二93)
      月日にもその心をばうけとりて  どんなたすけもするとをもゑよ (十二94)
    と記され、人と人がたすけ合うなら、その心を神様が受け取り、天のたすけを与えて下さるのだと教えられています。
    人の心の向きを変えたり、運命を変えるということは私にはできませんが、A君自身の人とたすけ合おうとする心を神様が受け取られ、心の向きが変わる、運命が変わるという天のたすけが与えられたのではないかと感じています。
    こども食堂には、A君のように補導委託の少年が度々やってきますが、みんな一生懸命お手伝いをしてくれます。そして終わった後は、「こんなに人から『ありがとう』と言われたのは初めてです」という子や、「楽しかったのでまた来たいです」という子など、こちらが嬉しくなる言葉をかけてくれます。
    また、迎えに来た親御さんからも「うちの子の、こんな明るい表情初めて見ました。うちの子に必要だったのは、こういう経験だったんですね」など、家では見せない我が子のたくましい姿を喜ぶ声が聞かれます。
    これからも、たくさんの人が出会い、たすけ合いを実践できる場として、教会が地域の拠り所となれるよう、こうした活動を続けていきたいと考えているところです。
    ぢば一つに
    親にとって、我が子が自分より先に命を落とすことほど、辛く悲しいことはありません。特に「子供は三才までに親孝行のすべてをなす」と言われるほど、幼い子供はその存在自体が愛おしくてたまらないものです。
    天理教教祖・中山みき様「おやさま」をめぐって、こんな逸話が残されています。
    明治十九年六月、諸井国三郎さんの、四女の秀さんがわずか三才で出直しました。
    余りに悲しかった国三郎さんは、おぢばへ帰って「何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい」とお願いしたところ、教祖は、「さあ/\小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れてもニ方残る。太い芽が出るで」と、お言葉を下さいました。(『教祖伝逸話篇』187「ぢば一つに」)
    国三郎さんは、数え年三才のお子さんを亡くしました。元気に歩き回り、片言でしゃべり始める頃です。まさに可愛い盛りのお子さんでした。
    この時、国三郎さんは養蚕業の事業をやめ、人だすけ一本で通っており、生活は困窮を極めていました。懸命に神一条の道を通りながらも、なぜこんな目に遭わなければならないのか。そうして悲嘆にくれる中で「何か違いの点があるならば、どうかお諭し頂きたい」と、教祖にお願いしたのですから、厳しいお仕込みを覚悟していたでしょう。
    ところが、教祖のお言葉は想像だにしないものでした。
    「三才も一生、一生三才の心」
    何という大らかなお言葉でしょうか。親神様によって与えられ、そして親神様によって引きとられた尊い命。わずか三才でこの世を去った短い命であっても、三才も一生。その人生にも立派な意味がある。そのようにお諭しくだされのです。
    なぜこうなったのか、心得違い、通り方の間違いを振り返ったり、因果を考えるよりも大切なことがある。それは、ぢば一つに心を寄せる、すなわち「をや」一筋に思いを寄せること。そして、ふしにこもるをやの思いをどう悟るかによって、それが将来、太い芽を出すご守護につながると教えてくださいます。
    国三郎さん夫妻は、このお言葉を頂いた十カ月後、無事に元気な女の子を授かりました。ろくと名付けられたこの女の子は、将来、この道の上に大いに力を尽くしました。
    (終)
    13 min
  • ゲームは宿題が終わってから!
    ゲームは宿題が終わってから!
     岡山県在住  山﨑 石根
    私には子どもが5人いるのですが、この春、小6になった4番目の三男はいわゆる天然キャラで、「おとぼけちゃん」なんです。うっかりした失敗が日常茶飯事なので、しょっちゅう私たち家族に笑いを届けてくれます。また、その反対に怒られてしまうこともしばしばです。
    今年の夏休みのことです。我が家には、「夏休みの宿題を全部終わらせたら、ゲームをしてよい」というルールがあります。少し厳しいようですが、2年前の8月末に、大量に残っている宿題に深夜まで付き合わされた妻が下した鬼のミッションなのです。
    今年も皆、7月中に宿題を終わらせようと一生懸命頑張りました。特に小6の三男と小4の妹は、7月末に4日間、母方の祖父母の家に泊まりに行き、「この期間に全部終わらせる」と意気込んでいました。
    ところが、祖父母の家から戻った時に事件は起こったのです。仕事から帰った私が、ゲームをしている三男を見て、「宿題終わったんか?」と尋ねると、「全部終わった」と言います。「じゃあ、見せてごらん」と言うと、「妹に確認してもらった」と言い、なかなか見せようとしません。ゲームに夢中だからです。
    しかし、ここは退いてはダメな場面だと思い、きちんとチェックしようとすると、一つの宿題が見当たりません。それは「サマー32」という冊子で、国語・算数・理科・社会・英語のすべての教科を網羅したメインの宿題です。
    「サマー32が無いやんか」
    「だから、それも妹に確認してもらったってば」
    押し問答は続きます。
    祖父母の家に忘れていないか尋ねたり、あちこちの部屋を探したりしたのですが見つかりません。そこで私が彼の旅行かばんをのぞくと、ついに「サマー32」が現れました。ところがその冊子の中身は、何と7割ぐらいが白紙の状態だったのです。
    「ほら、やってへんやないか!」
    私も驚きましたが、あろうことか三男も目が点になっているのです。
    「いいや、僕は絶対全部やった」
    「でも、ここに出来てない宿題があるやんか」
    「だから、全部やって、妹にも確認してもらったんだって」
    「確認、確認言うても、目の前に終わってない宿題があるやないか」
    「だから、おじいちゃんのうちで全部やったんだってば!」
    再びの押し問答、もはや『世にも奇妙な物語』のようです。実際に目の前に出来ていない宿題があるのに、なぜそれを認めず、「やった」と言い張るのか…。
    もやもやの晴れないまま迎えた夕食の席で、衝撃の事実が判明します。妹が、「お兄ちゃんがやってた宿題は、私の分で!」と打ち明けたのです。何と三男が仕上げた宿題は、小4の妹の「サマー32」だったのです。
    椅子から転げ落ちそうなくらい皆でズッコケましたが、三男にしてみたら笑い事ではありません。うっかりもここまでくると、不注意以外の何ものでもないのです。
    さらに、妻からとどめの一言が続きました。
    「ほら~、やっぱり!」
    実はこの「やっぱり」には、ものすごい重みがあるのです。
    これは私たち夫婦のさんげ話にもなりますが、彼が小4の時の担任の先生から、三学期の終わりに次のようなことを言われました。
    「息子さんは、一年間、宿題のドリルをほとんどしませんでしたよ」
    本人の「宿題はもう終わった」というセリフを真に受け、忙しさを理由に確認を怠っていたのは私たちです。妻は彼が小5になってからも、「ドリルは一生ものだから、いつやっても遅いことはない。小4のドリル、今からでもやりねえ」と再三にわたって促していたのですが、彼は全くやらなかったのです。
    その上での、妻からの一言。
    「ほらね。やっぱり、小4の宿題を、こういう形ででもやらなあかんようになってたんやで。神様は見抜き見通しなんやから!」
    この妻の的を射た一言に、三男は泣きっ面に蜂で、ぐうの音も出ませんでした。
    『天理教教典』では、「善き事をすれば善き理が添うて現れ、悪しき事をすれば悪しき理が添うて現れる」と、厳然たる因果律の存在が述べられており、これを「いんねん」と教えて頂きます。
    もちろん、天理教でいう「いんねん」は、世にいう因果応報とは違い、その奥に、神様が人間を陽気ぐらしへ導こうとされる親心があることを忘れてはなりません。このことを、亡き私の恩師は「神様からの宿題」という言葉で分かりやすく教えて下さいました。
    自分や自分の周りに辛いことや苦しいこと、都合の悪いことが起こってくると、私たちはどうしても「何でこんな目に…」と後ろ向きな考えに陥ってしまいます。しかし、そこを「これは神様からの宿題なんだ」と考え直すことが出来れば、「宿題なら後回しにしてはならないし、必ずやり遂げられるからこそ与えてくださったのだ」と、立ち向かう勇気が湧いてきそうです。
    神様は人間をお創り下された親ですから、親ならばこそ、この宿題を通して成長させたいという期待が込められているのかも知れません。私はこの「神様からの宿題」という言葉が好きで、常々よく用いていたので、今回の三男の宿題事件を「絶妙の親心だなあ」と感じました。
    さて、三男は翌日、本来やるべき「サマー32」を、何と一日で完成させました。やったら出来る子なんです。
    反対に、「私の宿題、お兄ちゃんが勝手にやってくれた。しめしめ」と思っている妹にも、いつか「神様からの宿題」が出されるでしょう。いつになるのかは分かりませんが、彼女もきっと乗り越えてくれると信じています。
    まだあるならバわしもゆこ
    この教えが広まり始めた江戸時代、建物の普請が行われる時は、その規模に応じて人足、いわゆる労働者が募集され、人々はすきやモッコを各自で持参し、土を掘り起こして運搬するその労働の対価として報酬を得ていました。
    そのような時代、教祖・中山みき様「おやさま」は、「みかぐらうた」の中で、信仰実践としての「ひのきしん」の形を、お言葉と手振りによって分かりやすく教えられています。
      みれバせかいがだん/\と  もつこになうてひのきしん(十一下り目 三ッ)
      よくをわすれてひのきしん  これがだいゝちこえとなる(十一下り目 四ッ)
      いついつまでもつちもちや  まだあるならバわしもゆこ(十一下り目 五ッ)
    おそらく、当時の人々は、「もつこになうてひのきしん」と聞いて、すぐに普請現場で土持ちをする様子を思い浮かべたはずです。そしてその行為が、対価を得るためではなく、神様の報恩感謝の行いなのだと心が切り替わった時、それがすなわち「ひのきしん」なのだと教えられたわけです。
    ひのきしんとは、欲を忘れて行うものであり、互いにたすけ合う生活につながる行いです。それは形にとらわれることのない、いわば「心のふしん」であり、はた目には地味な作業で、すぐには成果の見えにくいものです。しかし、土持ちが普請における大切な土台作りであるように、ひのきしんは、私たち一人ひとりの人生にとっても、かけがえのない土台作りとなるのです。
    ゆえに、ひのきしんとは、お言葉通り「いついつまでも」心掛けるべきものです。「私は若い時に十分やったから、もういいだろう」などと思うことなく、「まだあるならバわしもゆこ」と、自ら率先して勇み立ち、幾つになってもさせてもらうのだという、その気持ちこそが大切なのです。
    教祖は、それを自らの行いによって示されました。こんな逸話が残されています。
    お屋敷で、春や秋に農作物の収穫で忙しくしていると、「私も手伝いましょう」と教祖自らお出ましになることがよくありました。
    ある年の初夏のこと。カンカンと照りつけるお日様の下で、数人が汗ばみながら麦かちをしていると、教祖がやって来られ、手ぬぐいを姉さん冠りにして、皆と一緒に麦かちをなさいました。
    それは、どう見ても八十を超えられたとは思えぬお元気さで、若い者と少しも変わらぬお仕事ぶりに、皆は感嘆の思いをこめて拝見したのでした。(教祖伝逸話篇70「麦かち」)
    (終)
    12 min
  • 知ることからはじめてみませんか?
    知ることからはじめてみませんか?
    埼玉県在住  関根 健一
    先日、行きつけの酒屋さんで買い物をした時のこと。会計をしようとレジに行くと、店主から「Hさんから関根さんに渡してくださいと預かったよ」と、小さな包みを渡されました。開けてみると、酒の肴になりそうな、ちょっとしたおつまみでした。
    こちらの店主は、私より一回り以上年上の方ですが、20年近くのお付き合いになります。客として通ううちに意気投合し、お酒のことを教えてもらったり、イベントのお手伝いをしたり、仕事の悩みの相談にも乗ってもらう兄貴分のような存在です。
    先日、酒蔵での仕込み体験イベントが開催され、私も店主のサポート役としてお手伝いをしたのですが、その時に夫婦で参加していたのがHさんでした。
    Hさんは足に障害があって、「補装具」と呼ばれる足の機能を補完する特殊な靴を履いています。あまり馴染みのない方は気づかないかもしれませんが、私は障害のある娘と共に生活する中で、様々な補装具を見てきた経験があるので、Hさんに初めてお会いした時から、不便なことはないか、さりげなく気にかけるようになっていました。
     酒蔵での仕込み体験イベントでは、蒸したお米を「放冷機」という機械に通して冷まし、出てきたものをタンクに入れたり、お酒の元となる「もろみ」を袋詰めして絞りにかけるなどの作業を、蔵人と呼ばれる職人さんの指導を受けながら行います。
    周囲の配慮もあって、ある程度のことは一緒に体験できたHさんでしたが、タンクの中で発酵しているお酒を見るには階段を上がらなければならず、その時は下で待つことになりました。
    ご本人にとっては、足に障害があるので、階段を上がれないのは当たり前なのかも知れませんが、障害があることで諦めてしまうことを、出来るだけ増やしたくないという私なりの思いがあります。そこで、皆が階段の上で見ている資料などを出来る限りHさんの所に運んで、少しでも同じ体験に近づくようにお手伝いをしました。
    そのことをHさん夫妻はとても喜んでくれたようで、そのお礼に酒屋さんを通じて、おつまみを届けてくれたとのことでした。
    私にしてみれば、極々当たり前のことをしたまでです。「お礼なんてして頂くほどのことではないのに…」とも思うのですが、当日も別れる間際まで「ありがとうございました」と、ご夫婦で繰り返しお礼をして下さったことなどを思い返すと、日頃周囲で同じように対応してくれる人はあまりいないのかもしれません。
    私は時々、障害者の暮らしについて話して欲しいと、講演依頼を受けることがあります。その場合、比較的障害者と接することが少ない方が対象の時は、「世の中には、意識的に障害者を差別する人よりも、ただ単に実態を知らない人の方が圧倒的に多い」ということを強調して話すようにしています。
    街中には、障害者にとって障壁となるものや、不便なものが数多く見受けられます。しかし、私も娘が生まれるまでは、それらを何気なく通り過ぎていたのであって、娘を連れて歩いて初めて、その障壁の多さにびっくりしたものです。
    今でこそ障害者の家族として、SNSを使って情報発信などもしている私ですが、娘が生まれるまでは無関心だったことを思うと、まだ気づくチャンスが訪れていない人に対して、「差別的だ」などと一方的に断じることは憚られます。大切なのは、気づくチャンスが一人でも多くの人に訪れるような社会を作ることだと思います。
    そうした視点で見ると、生まれた時からお姉ちゃんが障害者という環境にある次女の行動には、多くのことを教えられます。
    例えば幼稚園の頃、娘たちの大好きなお菓子を買ってきて、姉妹でどっちを選ぶかを聞きました。すると次女が、「ジャンケンで決めよう!」と提案します。手でグー・チョキ・パーを出せない長女と、どうやってジャンケンをするのか…?と観察していると、「ジャンケン、ポン!」の掛け声で長女が「グー!」と口で言うのと同時に、次女は背中の後ろで「チョキ」を出し、長女の掛け声を確認してから手を前に出します。妻と私はビックリ! いつの間にか、とても理に適ったやり方を編み出していたのです。
    幼稚園でジャンケンを覚えたのに、お姉ちゃんとは友達と同じようにジャンケンができない。でも、好きなお菓子を選ぶ時は平等に決めたい。そのような状況を次女なりに考えた結果、私や妻には思いもつかない方法に行き着いたのです。それ以来、長女を交えてジャンケンをする時には、この方法で仲良く競っています。
    他にも、幼い頃から次女の発想には、驚かされることがたくさんありました。やはり、まずは障害者のことを「知る」ことが大切なのだと思います。
    では、家族に障害のある人がいない人には知る機会がないのか?と言うと、そうではありません。
    皆さんのお近くにある特別支援学校や障害福祉作業所は、「地域とのつながり」を求めています。いつしか「都会では、隣に住んでいる人の顔も分からなくなっている」などと言われるようになりましたが、自分一人で気軽に外
    に出かけることが難しい障害者にとっては、都会に限らずこうした状況にあることも少なくありません。障害者がその人らしく自立して生きていくためには、地域との関わりは必要不可欠です。
    まずは、「知ること」「関わること」からはじめてみませんか?
    自分一人で
    この教えでは、この世界と人間を創造された親神様と私たちの関係を、親子の関係であると示されています。私たち一人ひとりは、親神様と直接に親子の関係でつながっているのであり、ゆえに、私たち人間は、皆がお互いに等しく親神様を「をや」と仰ぐ「一れつきょうだい」なのです。
    しかし現実には、私たちは日常、夫婦、親子、兄弟姉妹というつながりの中で家族として暮らしています。教祖・中山みき様「おやさま」は、その家族の日常における心のあり方について、次のように仰せられています。
      一やしきをなじくらしているうちに  神もほとけもあるとをもへよ (五 5)
      このはなしみな一れつハしやんせよ  をなじ心わさらにあるまい (五 7)
      をやこでもふう/\のなかもきよたいも  みなめへ/\に心ちがうで (五 8)
    たとえ一つ屋根の下で暮らす夫婦、親子であれ、また血を分けた兄弟姉妹といえども、心は一人ひとり皆違うということです。
    これについては、別のお言葉でも、
    「さあ/\人間というは神の子供という。親子兄弟同んなじ中といえども、皆一名一人の心の理を以て生れて居る。何ぼどうしようこうしようと言うた処が、心の理がある。何ぼ親子兄弟でも」(M23・8・9)
    と諭されています。
    教祖をめぐって、こんな逸話が残されています。
    教祖のお話を聞かせてもらうのに、「一つ、お話を聞かしてもらいに行こうやないか」などと、居合わせた人々がニ、三人連れを誘って行くと、教祖は、決して快くお話し下さらないのが常でした。
    「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで」と仰せられ、一人で伺うと、諄々とお話をお聞かせ下され、なおその上に「何んでも、分からんところがあれば、お尋ね」と仰せられ、いとも懇ろにお仕込み下されたのです。(教祖伝逸話篇116「自分一人で」)
    この教祖の逸話がお示しくださるのは、心が皆違うのであれば、信仰も一名一人限りである、ということです。この信仰は、決して義理やお付き合いでするものではなく、お話の取り次ぎは一対一が基本であり、一人ひとりが自主的に道を求める姿勢こそ大切であるとお諭しくだされているのです。
    何より有難いのは、真実に聞かせて頂こうとする者には、「何んでも、分からんことがあれば、お尋ね」と、こちらが得心するまでお話しくださる教祖の親心。こちらが真実の心で運べば、教祖は必ず応えてくださるのです。
    (終)
    12 min
  • 同居の恩恵
    同居の恩恵
    兵庫県在住  旭 和世
    「ばあばちゃ~ん!これ直して~」
    おもちゃを壊してしまった時、うちの子たちは私の前をスルーして、すぐ母の所に持っていきます。宿題で分からない所があると、「じいじ~宿題おしえて~」と、父の所に飛んでいきます。
    食べたい夕食のメニューがある時も、うちの子は迷いなく「ばあばちゃ~ん、今日ハンバーグ食べた~い」と母におねだりに行きます。娘に「どんな人が好みのタイプなの?」と聞くと、すかさず「じいじみたいな優しい人がいい~!」と言います。
    子供たちは本当に正直です。この子たちの親はいったい何しとるねん!と、つっこまれそうですが、そうやってじいじ、ばあばに甘えられる子供たちを見て、心からありがたいと思うのです。
    私は教会の後継者である主人と恋愛結婚し、主人の両親やきょうだい達と教会で同居することになりました。深く考えることもなく、そんなものだと思って嫁いできました。
    でも良く考えてみると、主人は自分が選んだ相手ですが、両親までは選べません。きょうだいもしかり。どんな人と家族になるかは、ある種くじ引きみたいなものです。よく、そんな賭け事みたいな人生におそれることなく、のん気にやってきたものだと、今となっては笑えてきます。
    ただ、自分も教会で育ち、幼い頃から神様のお話を通じて心の使い方などを教えられてきたので、きっと、同じ教会なら価値観や考え方も似ているだろうと信じていました。
    嫁いですぐに馴染めたかと言われたら、もちろんそんなことはありません。最初は緊張したり、気もつかったり、多少のカルチャーショックも受けつつ、じわじわと慣れてきたように思います。その一方で、両親や周りの方はそれ以上に、私に気をつかってくれていただろうと思うのです。
    ママ友からよく言われます。「え~、旦那さんの両親と同居してるの? うわ~、大変だね~。私は無理だわ~」
    主人の家族と同居するのは、私の住む地域ではとても珍しいことなのだと、周りのママ友を見て気がつきました。私は実家でも祖父母が一緒に住んでいたこともあり、特に抵抗がなかったので、こんなにもびっくりされるということに、まず驚きました。でも実際一緒に住んでみると、良い面がたくさんあるということに年々気がついてきました。
    現代では出産を機に、環境の変化や子育ての不安などにより、「産後うつ」を発症するママさんがたくさんおられると聞きます。きっと、理想とかけ離れた育児の現実に戸惑い、その悩みを誰にも相談することができず、一人で抱えている方が多いのではないかと察しています。
    その点で言うと、もし両親と同居していれば、育児の先輩がすぐそこにいてくれて、アドバイスをもらったり、長年の知恵を授けてもらうこともできます。
    今はネット上に情報があふれ、育児書も充実しているので、ひと昔前の情報が古臭いと感じることがあるかもしれません。でも、経験者がそばにいる心強さと、まったく目が離せない時期にちょっと見てくれる人がいる安心感、それだけでも産後の不安はかなり解消されると思います。
    私自身は、子供が大きくなるにつれて、益々親のありがたさに気がつきました。若い頃、甥っ子や姪っ子の面倒を見ていた時は、可愛いばかりで怒る必要はなかったのですが、我が子となると責任を感じてしまい、ちゃんと育てないと!とか、人の迷惑にならないように躾けないと!などなど、妙に力が入ってしまいます。そして、気がつけば必要以上にガミガミ言っている自分がいて、「こんな怖いママになるつもりはなかったのに…」と、我が子の可愛い寝顔を見て後悔することもしばしば。
    でも、子供たちにとれば、私がガミガミ言っていても、隣りでじいじやばあばが笑ってフォローしてくれたり慰めたりしてくれるので、それが救いになっているようでありがたく思っています。
    ややもすると、我が子を自分の分身のように考え、こちらの思う通りに育てたいと思いがちだけど、親がそばにいてくれるおかげで、子供は一人の人間として「個」を持つ存在であり、その個を大切にしなければならないと思えるようになりました。
    同居したら気苦労が増える。そう思う人もいるでしょう。たしかにそうかも知れませんが、ある先輩の先生がこう言われました。「その気苦労がとても良いんです」と。
    気苦労=悪いこと、ストレスになること。私もそんな負のイメージしか持っていませんでした。しかし、その先生の言葉を聞いて、周囲の人に気を配ってお互いに気持ちよく過ごせるように工夫したり、言葉をかけ合う姿を映すことが、子供たちの将来にとって、とてもいいことなのではないかと考えるようになりました。彼らが社会に出て家庭を持った時、自然にその気づかいができるようになっていたら、これほど嬉しいことはありません。それは、私たち親が子供たちに手渡すことの出来る心の財産だと思います。
    思い返せば、私自身も教会で生まれ育ち、祖父母や住み込みさんと一緒に暮らし、教会に出入りしているたくさんの方々の中で育ててもらいました。その中で両親が皆さんに心を配っている姿や、自分たちの時間を惜しまず、祖父母の世話をしたり、信者さんの悩みを聞いたり、おたすけに出向く姿を間近に見られたことが、今では心の財産になっているとつくづく感じています。
    「おふでさき」に、
      せかいぢういちれつわみなきよたいや  たにんとゆうわさらにないぞや (十三 43)
    とあります。
    世界中のみんながきょうだいならば、一緒に暮らす家族や身近な人はきょうだいの中のきょうだい。本当に、何十億分の一の確率の、奇跡ともいえる巡り合わせです。
    両親と同居できたおかげで、親がそばにいる安心感と恩恵を頂いているのだから、今度はその恩恵にご恩返しをさせてもらえる自分になりたい!と思いつつ、まだまだ両親に甘えっぱなしの毎日です。
    だけど有難い「食べる順番」
    食事をするとき、好きなものを先に食べるでしょうか。それとも、あとで味わって食べるでしょうか。特に極端な好き嫌いがなくても、人によって、なんとなく箸の出し方の違いというものがあるように思います。
    数日前、家族そろって食事をすることがありましたので、皆に聞いてみたところ、娘二人は「好きなものは、あとで味わって食べる」と答えました。妻は「一番美味しいと思うものをまず食べて、残っているなかで一番好きなものを次に食べる。そうしていったら全部好きなものだから楽しい」ということでした。
    では、教祖はどうかといいますと、『稿本天理教教祖伝逸話篇』のなかに「柿選び」というお話があります。柿がたくさん載ったお盆を教祖の御前にお出ししたところ、教祖はその柿を、あちらから、こちらからと、いろいろと眺めておられました。やはり、教祖もお選びになるのだなと思っていますと、そのなかから、一番悪いと思われる柿をお選びになった。人に美味しい柿を食べさせてやろうとの親心なのです。教祖もお選びになるが、私たちとは選び方が違うのです。
    私たちはそのようには、なかなかできないと思うかもしれませんが、わが子にはどうでしょう。私の妻も、子供が小さいときは、子供が残したものを綺麗に食べていました。美味しいものを自分が先に食べてしまうのではなく、子供に先に食べさせ、残ったものを食べていたのです。誰でもそうではないでしょうか。子供に対してはできるのです。では、子供だけかというと、そうではありません。夫や妻にしている方もあると思います。恋人、親友、またお世話になった人にもそうではないでしょうか。つまり、大好きな人にはできるのです。
    こうしてみると、私たちも意外と教祖のように心を働かせているのです。ひょっとすると、原始時代、人間が一番初めにした親切は、人に食べ物を分け与えたことではないでしょうか。食べ物を人に譲ろうという気持ちから、私たちの人を喜ばせたいという感情が始まったのかもしれません。
    人間の値打ちは、そうして「人に喜んでもらいたい」と考えられるところにあると思います。
    喜んでもらいたい対象には、もちろん親も入っています。自分を産み育ててくれた親に、ご馳走したいなどと考えます。誕生日のプレゼントを贈るのに、親に毎月仕送りをしているからといって、そこからプレゼントの代金を差し引く人はいないでしょう。
    私は、教祖の年祭活動のつとめ方というのも、この心だと思うのです。をやに対する日ごろの感謝に加えて、さらに喜んでいただく行動を取るのです。をやは子供を喜ばせたい思いで、お土産をたくさん用意してお待ちくださるに違いないのです。その親元へ、一番お喜びくださる「人をたすける」心と態度をもって帰るのです。
    教祖年祭の元一日は、実は誕生日ではありません。教祖が現身をかくされた日です。ということは、親に喜んでもらいたいという心でつとめるのではありますが、それは誕生日に使う心ではなく、むしろ、親が危ういときに使う心だと思います。なんとしても親に喜んでいただきたいという、仕切った心でやりきらせていただくことが大切です。
    共々に、できるだけ多くの人に声を掛け、病気や事情に苦しむ人にご守護の喜びを味わっていただけるよう、仕切ってつとめさせていただきましょう。
    (終)
    15 min
  • 神様の大作戦(後編)
    神様の大作戦(後編)
    助産師  目黒 和加子
    臍帯剪刀を手にしたこの日は、奇しくもおさづけの理を戴いたあの日と同じ7月17日だったのです。
    「これって偶然? 教祖に助産師になってみせるって言うたけど、もしかしてなるように仕向けられてるの?」
    神様が練った作戦に気づき始めたのです。
    私が目指したのは、新潟大学医療短大助産専攻科です。入試の2ヵ月前、腰の激痛で椅子に座れなくなり、近所の整形外科を受診、腰椎椎間板ヘルニアと診断されました。
    新潟大学を受験することを、院長の南先生に伝えると、「僕は30歳の時に造船会社をリストラされて、一念発起して医学部を受験して36歳で医者になったんや。34歳で受験か。新潟に行けるよう全力で応援するで」と、嬉しいお言葉。
    痛みを抑えるため、飲み薬だけでなく神経ブロック注射も受けましたが、効果は今ひとつ。これでは飛行機に乗れません。すると南先生は、私が搭乗予定の日本エアシステムに、「人生をかけた34歳での受験なんです。3人席の肘掛けを上げて、横にしてフライトしてもらえないでしょうか」と、手紙を書いてくださったのです。
    日本エアシステムからの返事は、「離陸と着陸の時は座ってもらい、それ以外は希望通りになるよう配慮します」とのこと。なんとまあ、こんなことがあるのでしょうか。私はこうして、ひどい腰痛を抱えたまま新潟大学を受験することができたのです。
    入試が終わり、帰りの飛行機での出来事。満席のため、行きと違いどうしても座らなければならず、痛み止めの座薬を入れて飛行機に乗り込みました。客室乗務員さんがひざ掛けを丸めて腰に当ててくれるのですが、効果がなく冷や汗が出てきます。
    すると、隣りに座っていたおじさんが、「どうしたの? 腰が痛いの?」と心配そうに声を掛けてきました。「はい、腰椎にヘルニアがありまして…」と答えると、「ワシも30年前からヘルニア持ちなんや。おっちゃんに任しとき!」と言って、客室乗務員さんにひざ掛けを何枚か持って来させ、それを私の背中と椅子の間にぎゅうぎゅうに詰め込み、がっちり固定。すると、痛みが引いたのです。
    驚いた顔の私に、おじさんは「腰のヘルニアは治ることはないけど、上手に付き合えるで。大丈夫やで」と、笑顔で励ましてくれました。
    石田病院に勤めて数カ月後、看護師のなっちゃんから電話がありました。なっちゃんは看護師として勤務しながら、助産師学校の合格を目指して予備校に通っていたのですが、突然、「私、結婚するから助産師目指すのやめるわ」と言うのです。
    「せやから、和加ちゃんに予備校の教材全部あげるわ。高かってんで、がんばりや!」なんと、教材をタダで手に入れてしまいました。
    「よし、これで学科試験は何とかなる。問題は小論文や」
    今でこそ、こうして原稿を執筆していますが、その当時は小学生の作文のような文章しか書けなかったのです。早速、予備校の通信教育小論文コースで指導を受けることにしました。
    予備校の先生から課題をもらい、小論文を書いて提出するのですが、毎回戻ってくる原稿用紙は、赤ペンの修正だらけ。
    9月に送られてきた課題は、「現在の日本における老人看護の現状とこれから」。9月半ばに小論文を提出し、添削指導が戻ってきたのは10月初旬でした。
    封筒を開けてビックリ! 新しい原稿用紙に万年筆で書かれた模範解答が入っていたのです。おそらく、修正箇所が多すぎて真っ赤っかになったので、一から書いてくださったのでしょう。
    「すごい! さすが赤ペン先生、めちゃめちゃ上手いわ。なんて素晴らしいお手本なんや」
    次の日からその模範解答をかばんに入れ、通勤電車の中で黙読を続け、1カ月後には暗記できるようになりました。この模範解答の暗記が、入試で効いてくるのです。
    推薦入試の受験日は11月末。定員は20名ですが、そのうち推薦入試の枠は、たったの5名。私の受験番号は2番なので、何人受験するのか検討がつきません。
    いよいよ受験当日。新潟大学の試験会場に行ってびっくり! なんと80名を超える受験生がいるではありませんか。競争倍率16倍の超狭き門です。
    「これは絶対に無理やで…」がっくりモードで学科試験が終了。次は小論文の試験ですが、ここで信じられないことが起こります。
    出された小論文のテーマは、「我が国における高齢者への看護の課題と将来」 あれ? これって? まさか……。
    リスナーの皆さん、お気づきでしょうか。赤ペン先生が模範解答を送ってくださった小論文の課題は、「現在の日本における老人看護の現状とこれから」でしたよね。そうなんです。表現が違うだけで、同じことを求めている問題だったのです。体中に鳥肌が立ちました。
    夢中で暗記していた赤ペン先生の模範解答を書き終えましたが、体の震えが止まりません。
    〝自分の力や意志と違う。助産師になるように仕組まれてる。きっと合格させられる!〟
    結果は、予想通り、合格。入学してすぐ、担当教授から「あなたの小論文、素晴らしかったわ」とお褒めの言葉をいただきました。そうでしょうとも…。
    会ったことのない赤ペン先生に、心から感謝申し上げました。
    助産専攻科の卒業間近、風邪から副鼻腔炎を再発。急性増悪して新潟大学病院で診察を受けた時のことです。蝶形骨洞のCTを撮ると、それを観た耳鼻科医の顔色が変わりました。
    「あなたの蝶形骨洞の骨は本当にペラペラです。また手術しないといけなくなっても、僕には無理です。恐くて触れません。すぐに点滴で炎症を抑えましょう」
    さらにドクターは、もう一度CTフィルムをジーッと観て、「骨まで溶かす炎症だったのに、どうして蝶形骨洞内を走る視神経がやられなかったんでしょう。人間の身体の中で一番硬いのは骨ですから、視神経がダメージを受けずに失明しなかったのは奇跡ですね」と目を丸くして言いました。
    点滴を受けながら、この十数年間に起こった出来事を振り返りました。
    〝17歳でおさづけの理を戴いて、23歳で結婚して修養科に行って、離婚して、看護師になったのに病気になって、治療を失敗されて、クビになって、自殺を目撃して、教祖に「助産師になってみせる」なんて生意気に言い放って。
    助産師になると決めてからは、あちこちでたすけてくれる人に出会った。耳鼻科の内田先生、整形外科の南先生、日本エアシステムさんのご配慮、帰りの飛行機で隣り合ったヘルニアのおじさん、赤ペン先生…。
    そうか、すべては私を助産師にするためやったんか。だから、視神経が守られて、失明せえへんかったんや〟。
    こういう経緯で助産師になったのですが、「なった」というより「ならされた」という方がピッタリですよね。あれから28年。何度か副鼻腔炎を再発しつつも、脳炎にはならず現在に至っています。
    神様の大作戦は、「私を助産師にすること」でした。では、助産師にして何をさせたいのでしょう。それこそが、神様の真の目的ですよね。
    私は今年で還暦となりますが、今も助産師にさせられた真の目的を考え続けている道中です。いつか、「なるほど、こういうことなのね」と、神様の思いが分かる日が来ると信じています。
    神にもたれる
    天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、「なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする」とあります。
    「神にもたれる」という表現は、その他のお言葉にもしばしば出てきますが、どのような意味を表しているのでしょう。
    「もたれる」とは、何かに依存したり、頼ったりと、受動的な態度のようにも思えますが、ここでは決してそのようなことを意味しません。神様にもたれるには、目に見えないものに対する心の中の不安や疑念を払拭しなければならないのですから、相当の勇気が必要になります。
    教祖は、直筆による「おふでさき」で、
      これからハどんな事でも月日にハ  もたれつかねばならん事やで (十一 37)
      これからハ月日ゆう事なに事も  そむかんよふに神にもたれよ (十三 68)
    と記され、狭い人間思案を捨て、目先のことにとらわれず、神様に決して背くことなくもたれ切って通るようにとお諭しくださいます。
    そして、「天の理に凭れてするなら、怖わき危なきは無い」(M23・6・29)と私たちを励ましてくださいます。
    しかし、そのような思いに沿えない私たちに、神様は時として身体にしるしをお見せ下さいます。
      めへ/\のみのうちよりもしやんして  心さだめて神にもたれよ (四 43)
      みのうちのなやむ事をばしやんして  神にもたれる心しやんせ (五 10)
    「かみにもたれてゆきまする」とは、人間の知恵や力で捉えられる範囲を超えて、一切を神様にお任せします、との決意表明と言えます。自己中心的な欲の心を離れ、神様にもたれ切る時、そこに真実のご守護の姿が表れるのです。
    (終)
    15 min
  • 神様の大作戦(中編)
    神様の大作戦(中編)
    助産師  目黒 和加子
    気温30℃を超える7月の真夏日、神様に文句を言おうと自宅を出ました。京阪電車の萱島駅に着き、4番線に止まっている準急に乗り込むと、「3番線を特急が通過します。しばらくお待ちください」と、車内アナウンスが聞こえてきました。
    〝もし脳炎になったら、特急に飛び込んで死のう〟そんなことを考えながら3番線を眺めていると、目に入ったのは青いジャンパーを着た男性。すると、その男性は突然走り出し、特急に飛び込んだのです。特急電車は金属音を立てて急停車。
    人の死を間近で目撃し、頭を金槌で殴られたような衝撃が走りました。
    〝神様に見せられた! 私がしようとしたことは、どういうことなのか見なければいけない〟
    急いで準急から降り、3番線側に向かうと何かにつまずきました。それは、男性の腕の一部でした。ちぎれた青いジャンパーに親指だけがついていました。周囲を見回すと足首、頭の一部、肉片が飛び散り、見るも無残な状態。
    〝あかん! こんなことしたら絶対あかん。こんな姿、親に見せられへん…。じゃあ、どうしたらええの? どう生きればいいのよ!〟
    頭の中が混乱したまま、おぢばに到着。神殿に駆け上がり、賽銭箱にお供えを思いっきり投げつけて、「神様、看護師になってこれからという時に何でですか! 全然喜べません! でも、なにか意味があるんですよね? 人間の親やったら、その意味を教えてください!」
    かんろだいを睨みつけ、怒りをぶつけました。それでも怒りは収まらず、阿修羅のような形相で回廊を歩いていると、鼻からドッと出血し、マスクは血だらけ。すれ違う人はギョッとした顔で固まっています。
    教祖の御前に座ると、涙がこぼれてきました。当たり前のことですが〝人間は必ず死ぬ。人生には限りがある〟と痛感したのです。
    そして、今、この病気で出直すとしたら何を後悔するか思案を巡らせると、真っ先に心に浮かんだのは、看護学校の実習で見学したお産の現場でした。
    「お産ってスゴイ! 助産師さんってスゴイ! 素晴らしい仕事や!」と心が震えました。担任の先生に「助産師を目指したら?」と勧められましたが、これほど責任の重い仕事は無理だと諦めていたのです。
    しかし、死がちらつく重い病気になり、考えが変わりました。今世で後悔を残さないためにどうすればいいのか。私は教祖に、「このままでは終われません。助産師になってからでないと死ねない。何としてでも助産師になってみせます!」と言い放ったのです。
    神様に向かってなんとまあ、高慢ちきなことですよね。でもこれは、真っ直ぐで気の強い、私の性格を見抜いていた親神様と教祖の巧妙な作戦だったのです。もちろん、この時はまったく気づいていません。
    鼻から血を流しながらおぢばに帰った翌日、西宮市にある所属教会に行きました。死を意識し、「今世最後の参拝になるかも…」と覚悟を決め、貯金を全部お供えしました。若い頃からお世話になっている親奥さんに病気のことを話すと、おさづけを取り次いでくださいました。
    そして、「明日は上級の中央大教会の月次祭よ。このお供えを今すぐ速達で送ると祭典に間に合うから」と、郵便局に連れて行かれました。
    暗い気持ちで座っていると、親奥さんが「和加ちゃん、神様がたすけてくださるから大丈夫よ」と笑顔で言うのです。〝なんで大丈夫と言い切れるんやろう?〟疑問に思いながら郵便局を後にしたのですが、ここから運命の歯車が動き出すのです。
    教会からの帰り、クビになった病院に置いてある私物を取りに行きました。ナースステーションの入り口で、「この度はご迷惑をおかけして申し訳ありません」と頭を下げましたが、誰も仕事の手を止めてくれません。
    この病院では、中途退職者が出ても年度が変わる4月までは欠員補充がありません。〝あなたが辞めたせいで、来年の3月末まで大変な思いをしないといけないのよ〟という雰囲気が漂っていました。退職の理由が病気であってもです。看護部長室にも伺いましたが、会ってもいただけません。
    惨めな気持ちで通用口を出ると、「みかぐらうた」が聞こえてきました。病院の隣りは天理教の教会なのです。おうたが心に沁み、泣けてきました。涙が鼻腔へ流れ、手術の傷跡がジンジン痛みます。
    「崖っぷちやけど、まだ生かしてもらってる」と自分に言い聞かせ、駅への道をとぼとぼ歩きました。
    病院からの帰り、大学病院を紹介してくださった内田耳鼻科に退院したことを伝えに行きました。
    院長の内田先生に、大学病院でヤミックが失敗し、ひどい蝶形骨洞炎になったこと。骨も溶け、脳炎になる可能性があること。仕事を辞めたこと。人生は一度しかないと痛感し、助産師を目指そうと思っていることなどを伝えると、
    「あんた、うちに勤めなさい。ここは耳鼻科やから、いつでも診てあげられる。そうしなさい。来週からおいで。」
    なんと、私を雇ってくださるというのです。
     〝ありがたいけど、看護師の募集をしてないのに、ご迷惑になるんとちゃうかな〟と戸惑っていると、それを察した先生は、「ワシ、3年前に胃がんの手術した時に色々あってな。あんたの気持ち、ようわかるんや。来年の3月までということで、どや!」
    これまた、よく分からないまま内田耳鼻科に勤務することになったのです。
    これは一体何なんでしょう? 一方ではクビになり、もう一方では雇ってくださる。「捨てる神あれば拾う神あり」とでもいうのでしょうか。しかも職場が耳鼻科というのは、退院後も経過観察が必要な私にとって最高の環境です。
    急降下に急上昇、まるでジェットコースターに乗っているよう…。この日を境に、自分の考えや意志以外のところで、物事が動き始めたのです。
    内田耳鼻科で診てもらいながら、3月末まで働かせていただき、4月から助産師になるための第一歩として産科専門の石田病院に転職しました。
    石田病院はこの地域で最も分娩件数が多く、入職して3カ月が経っても、いっぱいいっぱいの毎日。忙しすぎて助産師学校へ進学する気力を失いかけていた頃、神様が練った作戦に気づきかけた出来事がありました。
    お産の終わった分娩室で片付けをしていると、ベテラン助産師の大石さんが分娩セットの中から一個のハサミを取り出しました。
    「このハサミは臍帯剪刀といって、へその緒を切る専用のハサミよ。へその緒は、ところてんみたいにツルツルしてるから、集中して切るためにわざと切れ味を鈍くしてあるの。先端だけを使って2、3回で切断するの。刃先が丸くて上に反っているのは、へその緒を切る時に赤ちゃんのお腹の皮膚を傷つけないようにするため。助産師だけが使う特別なハサミよ。ほら、よく見てごらん」
    手渡された臍帯剪刀を見て、ハッと思い出したことがあります。
    私がおさづけの理を拝戴したのは、昭和57年7月17日、17歳の時。拝戴直後、教祖殿で待っていた所属教会の間瀬弘行 前会長さんが、「和加ちゃんは、数字の〝7〟に縁があるなあ。7というのは『たいしょく天さん』のお働きで〝切る〟ということや。上手に切ることも神様の大切なお働きやで。だから、将来はハサミを使う仕事をしなさい」
    高校生だった私は、素直に「はい」とうなずきました。
    〝そうや、あの時、前会長さんの言わはったハサミって、この臍帯剪刀のことや!〟
    さらに、壁に掛けてあるカレンダーを見て息をのみました。
    「今日って、あの日と同じ7月17日やんか!」
    怒涛の展開はまだまだ続きます。来週の後編をお楽しみに!
    「ひのきしん」で胸の掃除を
     天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」で、
      せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ  神がほふけやしかとみでいよ (三 52)
    と記され、陽気ぐらしへ向けた各自の胸の掃除は、神様の教えを箒としてなされるのだとお諭しくださいます。その第一の方法として教えられるのが、生かされていることへの報恩感謝の行いである「ひのきしん」です。
    教祖は「みかぐらうた」の中の、特に十一下り目において、ひのきしんについて詳しく教えられています。
      ふうふそろうてひのきしん  これがだいゝちものだねや
      よくをわすれてひのきしん   これがだいゝちこえとなる
      いつ/\までもつちもちや  まだあるならバわしもゆこ
      むりにとめるやないほどに  こゝろあるならたれなりと
    ひのきしんは、夫婦の心を揃えて行うところに始まり、その姿が周囲の人々に映っていくということ。そして、ひのきしんは利益を目的にするものではなく、あくまで「欲を忘れて」行うものであり、それが陽気ぐらしへ近づく歩みになるということ。
    また、ひのきしんは、いついつまでも、どこまでも自ら追い求めて行うことが大切であり、その心意気があるならば、無理に止め立てはしないと仰せられています。
    夫婦を台として、人々が心を合わせ、いそいそと一手一つにひのきしんをする姿こそ、陽気ぐらしの縮図であり、各自が胸の掃除を成している姿と言えるでしょう。
    (終)
    15 min
  • 神様の大作戦(前編)
    神様の大作戦(前編)
    助産師  目黒 和加子
    私が助産師になったのは35歳の時です。看護大学を卒業すれば22歳で助産師になれるので、かなり遠回りをしました。今回は助産師になるまでの山あり谷あり、崖っぷちありの道中をご紹介します。
    高校を卒業後、医療系の専門学校を卒業し、医療秘書として内科病院に勤務していました。23歳で結婚しましたが上手くいかず、仕事を辞めて天理教の教えを学ぶ修養科を志願し、三カ月おぢばで過ごしたのちに離婚。実家に戻っていました。
    当時、歯科医院で勤務していましたが収入は少なく、将来を考え看護師免許を取ろうと28歳で一念発起し、まずは准看護師学校へ入学。病院で働きながら学校へ通う勤労学生を2年経験し、准看護師になりました。さらに正看護師の学校へ進学。2年後、32歳で晴れて看護師になったのですが、待っていたのはいばらの道でした。
    大阪市内の総合病院に就職し、内科病棟の配属となりました。新人には指導者がついて、マンツーマンで教育・指導を受けるのですが、私の指導者はとても厳しく、課題がどっさり出て休みの日も宿題に追われる日々。
    提出しても、「抜けているところがあります。やり直してください」と言われ、「どこが抜けているのですか?」と聞いても、「自分で考えてください」と冷たい返事。再提出、再々提出しても「やり直し!」と突き返されます。何度見直してもどこが抜けているか分からず、やり直しをせずに提出すると、その指導者はなんと「これでOKです」と言ったのです。
    このことで緊張の糸がプツンと切れ、胃潰瘍となり近所の病院に入院。就職して2か月で休職となってしまいました。
    入院中、「私の指導が行き過ぎていたと反省しています。やり方を変えますので戻ってきてください」と指導者から電話があり、職場復帰を考えていた矢先、風邪をひきました。
    その風邪をこじらせ近所の内田耳鼻科を受診し、急性副鼻腔炎と診断されました。薬を飲んでも頬の痛み、黄緑色のドロドロの鼻水、頭痛、身体のだるさは良くならず、大学病院耳鼻科のK先生を紹介されました。K先生は頬の上顎洞に溜まっていた膿を出そうと、鼻に圧をかけて副鼻腔内を洗浄するヤミックという新しい治療をしたのですが、膿は出ませんでした。
    後で分かったことですが、このヤミックの治療が失敗し、上顎洞の膿は排出されないどころか、鼻の一番奥、目の後ろにある「蝶形骨洞」へと押し上げられたのです。
    治療後、頭痛は一層ひどくなり、目も見えにくくなったので再び大学病院を受診。しかしK先生から、「もう上顎洞に膿はありません。念のため脳神経外科を受診してみますか」と言われ、そちらへ回されました。
    しかし、脳神経外科で問題なしと言われると、K先生は「症状は精神的なところから来ているのかもしれません」と言い、今度は精神科に紹介状を書き始めたのです。
    ちょうどその時、CTとMRIのキャンセルが出たと連絡があり、急きょ検査を受けました。
    検査後、フィルムを見たK先生の表情がこわばり、若いドクターに「すぐに蝶形骨洞開放術が必要だ!手術室の空きがあるか確認しろ!」と声を荒げ、慌てています。
    「蝶形骨洞の粘膜が腫れて、腫瘍らしきものも見えます。何が原因でそうなっているかは分かりませんが、早く手術しないと蝶形骨洞内を走る視神経がやられて、失明する可能性があります」と言うのです。
    しかし、その日は手術室の空きがなく、「今日はステロイドと抗生剤の点滴をして帰ってもらい、明日の朝一番で手術をします」との説明を受けました。
    診療が終わり静まり返った耳鼻科外来。診察室の一番奥で、カーテンで仕切られたベッドに横になり、点滴を受けていると、私がいることに気づかない数人の医師がカンファレンスを始めました。
    「このCT見てみ。こんなぐちゃぐちゃな蝶形骨洞、今まで見たことないわ」
    「どうせ悪性ちゃう?」
    「明日の朝一番でオペやって。どうせ開けてもたすからへんで」
    「N病院の看護師やで。結構べっぴんや。32歳か、かわいそうになあ」
    カーテン越しに聞こえてきたのは私のことでした。体が震え、頭の中は真っ白。この日、どうやってうちに帰ったのか思い出せません。一睡もできないまま朝になり、大学病院へ。耳鼻科外来から手術室へと運ばれました。
    鼻の穴からハサミを使って蝶形骨洞を開放する際、目の神経の近くを触るので、目が見えているかを確認しながら手術を進めます。なので、麻酔は局所麻酔。意識は普通にあり、ドクターの会話も聞こえます。
    蝶形骨洞の粘膜は、イチゴジャムのようにぐちゃぐちゃで無残な状態。腫れ上がった腫瘍組織の一部をとり、術中迅速細胞診で調べると、「炎症性病変です。悪性ではありません」と、K先生の言葉が聞こえました。
    〝やれやれ、悪性じゃなかった。命拾いした〟とホッとしたのですが、K先生が突然、「脳外科のドクターを呼んでくれ!」と、慌てた声でナースに指示を出したのです。
    手術室内に三人もの脳外科医が呼ばれ、私の枕元でヒソヒソと話し合っています。聞こえてきたのは、「さわるな、さわるな」という小さな声。手術は、その小声とともに終了。「何が〝さわるな〟なんかな?」と疑問に思いながら病室に運ばれました。
    退院の日、K先生が病室に来て、
    「あなたの蝶形骨洞の病変は炎症によるものでした。その炎症がひどい状態で粘膜は腫れ上がり、一部は溶けていました。実は溶けていたのは粘膜だけでなく、脳と蝶形骨洞を隔てている骨、要するに脳をのっけている分厚い骨までもが溶けていたんです。内視鏡で蝶形骨洞の一番奥を見たら、見えるはずのない脳が透けて見えました。
    脳外科の医師に手術室に来てもらって相談したところ、『さわらない方が良い』とのことだったので、溜まった膿が鼻へ流れ出る道を作っただけで手術を終わらせました。
    今後、風邪をひいて副鼻腔炎が再発した場合、感染が脳に及んで脳炎になる可能性があります。脳炎になれば命にかかわることもあり、後遺症で寝たきりになることもあります。お気の毒です」
    と一方的に言うと、さっさと病室から出て行ってしまいました。
    〝風邪をひいたら脳炎になるかもしれないって…。風邪をひかないで生きていくことなんかできない。どうしたらいいんやろう…。〟医師に見放されたと感じ、お先真っ暗のまま自宅に戻りました。
    翌日、勤務先の看護部長に電話をし、医師から言われたことを伝え、「復職はいつになるか分かりません」と言うと、「ここの病院にも耳鼻科があるのに、どうして自分の勤める病院で診てもらわなかったのよ! 復職がいつになるか分からないなら、辞めてもらって結構です。ロッカーの荷物を取りに来てください」
    看護部長の逆鱗に触れ、なんとクビになってしまったのです。
    鼻からの出血は止まらず、職も失い、体も心もどん底でした。どん底の時には涙も出ないんですね。泣ける余裕すらない。呆然としながらも、ふつふつと湧いてきた思いは、
    「看護師になってこれからっていう時に、なんで神様はこんなことしはるねん!納得できへん!」
    無性に腹が立ち、鼻に綿花を詰めマスクを三重にして、おぢばへ向かったのですが、京阪電車萱島駅で衝撃の場面を目撃させられるのです。
    来週は、神様の大作戦に翻弄される怒涛の展開。どうぞお楽しみに!
    たのしみ
    「たのしみ」という言葉は、一般には物事を見たり聞いたりして、喜びを感じるという意味で使われますが、神様のお言葉の中にも、再三「たのしみ」という表現が出てきます。
    教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」では、
      心さいすきやかすんだ事ならば  どんな事てもたのしみばかり (十四 50)
    と、心が澄んだ状態になれば、楽しみ尽くめの日々を送れると示されています。また、親神様が何を楽しみにされているかについては、
      にち/\にしらぬ事をやない事を  これをしへるが月日たのしみ (八 77)
    と、世界中の人々がいまだ知らないことを教え、陽気ぐらしへと導いていくことが楽しみであると示されています。すなわち、私たちは親神様の教えによって楽しみを与えられ、その人間の楽しむ姿を見て親神様も共に楽しまれる。これこそ神人和楽の陽気ぐらし世界です。
    しかし、楽しみと言っても良いことばかりではなく、親神様は、私たち人間の「今さえ良ければ」という刹那的な「楽しみ」については、厳しく戒められています。
    「その場の楽しみをして、人間というものはどうもならん。楽しみてどうもならん。その場は通る、なれども何にもこうのう無くしては、どうもならん事に成りてはどうもならん」(M22・3・22)
    そして、「たのしみ」のもう一つの意味、先のことに期待をかけて心待ちにする様を、この道の結構な通り方として示されています。
    「神がちゃんと見分けて、一つのあたゑを渡してある。今の楽しみ、先の細道。今の細道、先の楽しみ。先の道を見て居るがよい」(M22・10・26)
    たとえ今は楽しい道を通れなくとも、先の楽しみを見据えて真実を尽くすことの大切さをお諭しくだされています。
    (終)
    15 min
  • 神様にもたれて通る
    神様にもたれて通る
    岐阜県在住  伊藤 教江
    「あなた、このままだと死にますよ! すぐに入院、手術です!」
    そうお医者さんから言われたのは、今から遡ること35年前でした。
    私は人生の大きな岐路に立たされていました。子供の頃から大きな病気もせず元気に過ごしてきた私にとって、その言葉はあまりに衝撃的で、とても受け入れられるものではありませんでした。
    「嘘でしょ…何かの間違いに決まってる。だって、痛くも痒くもない。食欲もある。今だって元気に動き回ってるし…」
    確かに私のお腹には、いつからか小さな固いしこりが出来始めていました。それでも、「大したことはない」と少しも気に留めていませんでした。ただ、母が心配してくれていたので、母に安心してもらうために「まあ、一度病院で診てもらおうか」と、とても軽い気持ちで診察を受けました。
    その後、いくつかの検査によってデスモイド腫瘍が見つかり、冒頭のお医者さんからの一言で、私の心は一瞬にして奈落の底に落ちたのです。
     病院からの帰り道、今まで当たり前に見てきた街並みや、道端の小さな草花、流れる川さえもが愛おしく感じられ、「きっと、私がいなくなっても何事も変わらず、来年もまた花は綺麗に咲き、川も止めどなく流れ、時は過ぎていくんだろうなあ…」と、命のはかなさを感じ、ただただ涙を流したのでした。
    当時、私にはまだ幼い二歳と一歳の二人の娘がいました。
    「この子たちを置いて死ぬわけにはいかない! もし私がここで死んだら、この先この子たちはどうなるんだろう…。お願いです!何とか救けてください! 山ほど借金して、世界中から名医を探し出してでも、命を救けてもらいたい! たとえ動けなくなっても、どんな姿になっても命だけは救けてもらいたい!」
    何度も何度も、どれほど心の中で叫んだことでしょう。しかし、どんなに望んでも願っても、思い通り、願い通りにはならないのが現実です。
    そんな時、「人を救けたら我が身が救かるのや」という教祖のお声が、繰り返し繰り返し聞こえてくるような気がしました。
    「人救けたら我が身救かる」。その教えは今まで何度も聞かせて頂いていたけれど、実際は頭で理解しているだけで、本当の意味で心の底に治まっていなかった。
    親々の信仰を受け継いで今日まで生きてきたけれど、親神様を我が心でしっかりとつかめていなかった、もたれ切れていなかったということに気づいたのです。
    そして、「このお言葉が真実なら、親神様は絶対におられる! このお言葉通りに実行して命をたすけて頂いたら、この親神様は絶対に間違いのない真実の神様である」と思えたのです。この病は私にとって、目に見えない親神様のお姿を心で感じ取るための大きなチャンスでもありました。
    ある教会の先生からは、「固い鉄は、熱い火が溶かす。やわらかい身体に出来た固いしこりは、熱い心が溶かす。熱い心とは、人をたすける心である」と聞かせて頂きました。
    人をたすけるとは、病んで苦しんでおられる方におさづけを取り次がせて頂くこと。これしかありません。この時ほど、教祖から尊いおさづけの理を頂戴していたことを有難く思ったことはありませんでした。
    「人救けたら我が身救かる」との教祖のお言葉を胸に、病院中をおさづけの取り次ぎに回らせて頂きました。
    見ず知らずの人におさづけを取り次ぐのは、とても大変なことでしたが、当時の私はそんな悠長なことを言っている場合ではありませんでした。「もっとおさづけを取り次がせて頂けば良かった」と、悔いを残すことは出来ませんでしたから。必死に我が心と戦いながら、病室から病室へと回らせて頂きました。
    そんな私のたすかりを願い、主人は3月のまだ寒い中、水ごりをして十二て頂いている今、一分一秒、この瞬間生かされていることをしっかり喜ばせてもらいなさい」と聞かせてくれました。それは、いつでも教祖のひながたを心の頼りとして懸命に通ってきた親の言葉でした。
    そして、来たる手術の日。教祖のお言葉を心に置き、10時間にも及ぶと予定されていた手術に臨みました。お腹の筋肉に付着していた腫瘍が、今まさに内臓を食いつぶしにかかろうとしている状態でしたが、お腹を切り開いたと同時に、その腫瘍が「ポーン」とゴムまりのように出てきたそうです。
    そのため、10時間の予定が二時間半で手術を終えることが出来たのです。
    この経験を通して、辛い人生のふしに出会った時、先を案じることなく、ひたすら親神様を信じ、心穏やかに神名を唱え、もたれ切ることが何より大切なのだと実感することができました。また、教祖のお言葉を聞かせて頂き、一つずつ素直に実行していくことの大切さも、この病気を通して心から感じさせて頂きました。
    だけど有難い「忘れる力」
    先日、テレビを見ていたら、長年、認知症の方の世話取りをしている人が、こんな話をしていました。あるとき認知症の方が、ベッドの上に身の回りの物を並べて捜し物をしていたので、「お手伝いしましょうか。何を捜しているのですか」と声を掛けたら、「それが分かったら苦労するか!」と答えが返ってきたそうです。
    認知症とまでいかなくても、人は歳とともに物忘れをするようになります。私も、人の名前をよく忘れます。顔は分かっているのに名前が出てこないのです。大事なことをうっかり忘れることもあるので、メモを取るのを習慣にしています。寝るときも枕元に必ずメモ用紙を置いて、夜中に急に起きて書き込むこともあります。
    妻も物忘れが多いので、メモを取るように勧めたことがあります。その後、メモを取るようになったのですが、それでも大事なことを忘れることがありました。「なぜ、メモを取らなかった?」と尋ねると、妻は「メモは取ったが、見るのを忘れた」と答えました。習慣になっていないと、メモだけ取ってもだめなのですね。
    こんな話をすると、私が物忘れをすることに不足していると思われるかもしれません。実は、その反対に喜んでいるのです。もちろん、人に迷惑をかける場合は喜んでいられません。けれども私は、自分が実にくだらないことにとらわれたり、くよくよ悩んだりする人間だということをよく知っています。もし、忘れることがなかったら、失敗したことや、厳しく叱られたことをくよくよ悩んで、夜も眠れないでしょう。忘れるから、ゆっくりできるのです。こう考えると「忘れる」ということも、神様のご守護として喜ぶことができます。
    記憶力というのがあるように、「忘れる力」があってよいのです。「最近、記憶力がなくなってきた」と言うのは当たっていないのです。「最近、忘れる力がますます向上してきた」と言うべきではないかと思います。歳とともに記憶力が低下するのは、ある意味では大変結構なことなのです。体はだんだん衰えていくのに記憶力が低下しなければ、イライラすることばかり増えて、しょうがありません。神様が、ちょうど良いようにしてくださっているのです。
    これは勘違いということなのかもしれませんが、こんなことがありました。
    私の父がいよいよ衰弱してきたときに、お医者さんが「いかがですか」と容体を尋ねました。これに対して、父は「私はこの歳まで生かしてもらい、子供も七人与えていただいた。孫も次々生まれ、誰一人欠けることなく通らせてもらっている。こんな結構なことはない。なんにも言うことはありません」と言ったのです。
    お医者さんは容体を聞いたのです。しかし父は、信仰で答えたのです。そのおかげで、私たち家族は喜ばせてもらいました。人生の黄昏時を迎えたときに、何も言うことがない、結構だという父の気持ちを聞くことができました。もしあのとき、父が勘違いをしていなかったら、こんなうれしい話は聞けなかったと思います。ですから「勘違い」も「忘れること」も、ご守護だと思えるのです。
    私たちは、一人でも多くの方をおぢばへ連れ帰らせていただこうと、声掛けをさせていただいています。私たちの先人・先輩方もそうであったように、声を掛けても、すんなり聞いてくれる人ばかりではありません。むしろ、迷惑に思う人もいます。
    先人は厳しい迫害・弾圧のなかを通り抜けてこられました。いまでも、あまり褒められることはなく、暴言を吐かれることのほうが多いのです。そんなときに、この「忘れる力」を発揮したいと思います。私たちの先輩は、この力を大いに発揮しました。何事もなかったかのように、翌日また声を掛けに行ったのです。そして意外にも、行ってみれば、おぢばへ帰ってくださるということがあるのです。ですから、コロッと忘れて声掛けをすることが大事なのです。
    つまらないことにこだわったり、とらわれたりするのではなく、「忘れる力」も大いに発揮して神様の御用をさせていただきましょう。
    (終)
    15 min
  • 産後に起きた大激変
    産後に起きた大激変
    静岡県在住  末吉 喜恵
    私は双子を含む五人の子供を育てる母親です。教会で育ち、少年会の活動などで幼い頃から多年齢の子供とふれ合い、大きくなってからも小さな子と遊ぶのが常で、自分では子供好きを自覚していました。
    なので、赤ちゃんが生まれたら、子育ては自然にできると思っていたし、我が子を当たり前のように可愛がれるのだろうと思っていました。泣き始めたら、「今はお腹が空いてるんだな」とか、「おしっこが出たのかな」とか、そんなことも自然に分かるのだろうと。
    でも、実際はそうではなかったのです。初めての子育ては、本当に分からないことだらけ! 何で泣いているかなんて、最初は全然分かりませんでした。生後一カ月ほどして、赤ちゃんと一緒の生活にリズムが出来てきた頃にようやく、「お腹が空いているのかな?おむつなのかな?」と、感じられるようになったことを思い出します。
    産後の女性に起きること、それは四つの大激変です。
    一つ目は、身体的な変化。予想外のダメージが連続します。出産とは、大怪我を負うようなものだと言われています。分娩をスムーズにするために会陰切開をしたり、帝王切開でお腹を切った後も、それはそれは痛いです! 双子を産んだ時は帝王切開で、産後一カ月は痛みが消えませんでした。
    また、授乳は予想以上に重労働で、初めは時間もまちまちで赤ちゃんの姿勢も定まらないし、小さい赤ちゃんは大事に扱わなくてはいけないので、神経を使います。母乳で育てた方が丈夫な子に育つ、という周りからの助言がプレッシャーになったことも正直ありました。
    二つ目は、精神的な変化です。突然母親になり、不安を抱えながらも自分がやるしかない状態に放り込まれます。妊娠中に色々な本を読んだり、出産準備のための教室を受けたりしましたが、実際に命を預かるのとは大違いで、戸惑うことばかり。その重さに知らず知らずのうちに自分にプレッシャーをかけてしまいます。
    三つ目は、時間的環境の変化。徹底的に時間が細分化され、自分のための時間がゼロになります。赤ちゃんのお世話をするのに、夜昼の区別もなくなり、授乳、おむつ替え、抱っこ、寝かしつけなどなど、休む間もなく24時間稼働状態になります。いつ何が起きるのか分からないので、自分の時間はもちろんないし、トイレに行くことさえもままならない。こんな状態がいつまで続くのか、終わりが見えず不安になります。
    四つ目は、社会的環境の変化です。核家族化が進む中、私も夫と赤ちゃんと三人で暮らしていました。外出もできず、話し相手がまったくいないというのは本当にしんどくて、社会から取り残されたような感覚に追い込まれます。私は妊娠期に仕事もやめたので、収入面での不安もありました。
    仕事とは異なるスキルが必要で、ましてや相手は生身の人間ですから、思うようにいかないことが多く、毎日お世話をこなすだけで精一杯です。加えて、それまでは自分の名前で呼ばれていたのに、赤ちゃんと常にセットなので、急に「〇〇ちゃんのお母さん」と言われ始め、まるで自分の存在がなくなったようでした。
    赤ちゃんは、一人では生きていけない存在であり、常に誰かのお世話を必要としています。もともと母親一人で子育てをするのは難しいことなのですが、しかし現実はどうでしょう? 多くの母親が周りに頼る人がおらず、不安や孤独を感じている場合が多いと思います。
    ガルガル期というものを知っていますか? 産後にホルモンバランスが崩れて、情緒不安定になる時期のことで、私も経験しました。この時多量に分泌されるオキシトシンというホルモンは、子供や夫に対して愛情を深める働きを持っているのですが、産後は子供を守るために周囲に対して攻撃的になってしまうという作用もあるのです。大好きな夫にすら、「近くに来ないで!」と思った瞬間もありました。自分でもびっくりです。
    それに加え、双子を出産した直後は、夜泣きがひどく眠れない日が続きました。子供は可愛い!でも、虐待してしまうお母さんの気持ちも分かるような気がする…というところまで気持ちが落ち込んだ時期もありました。
    片方が寝たと思ったら、もう片方が起きるの繰り返し。二人が一度に泣くこともざらにあり、泣きの一時間コース、二時間コースはほぼ毎日。「今日はオールナイト」という日もあり、そんな状態が三年間続きました。
    産後はホルモンバランスが急激に変化するので、いつも以上に不安や孤独を感じやすく、その母親を周りのみんなで支え、子供を育てていくのが本来のあり方なのです。これは「共同養育」と呼ばれていますが、これも「子供はみんなで育てるもの」と私たちが自然に思うようにしてくださる、神様の不思議なご守護なのです。しかし現実には多くの家庭で、子育ての負担が母親に大きくのしかかっています。
    そうした時期に必要なのは、アドバイスでもなく、がんばれの言葉でもなく、この大変さを分かってくれる人、共感してくれる人が周囲に一人でもいること、そしてもう一つは、身体を休めること、「休息」だと思います。
    赤ちゃんを産んだお母さんに寄り添い、周りのみんなで支えていける社会になることを願っています。
    てびき
    『天理教教典』第六章は「てびき」と題され、親神様が何ゆえに私たちをこの道にお引き寄せくださるのか、その篤き親心のほどが記されています。
    親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。
      なにゝてもやまいいたみハさらになし  神のせきこみてびきなるそや (二 7)
      せかいぢうとこがあしきやいたみしよ  神のみちをせてびきしらすに (二 22)
    即ち、いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ。
    さて、教祖・中山みき様「おやさま」をめぐって、こんな逸話が残されています。
    山中忠七さんの妻・そのさんは、二年越しの痔の病が悪化して危篤の状態となり、何日もの間、流動物さえ喉を通らず、医者にも匙を投げられてしまいました。そんな時、近隣の者から話を聞いた忠七さんが、教祖のお屋敷を訪ねると、次のようなお言葉がありました。
    「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に。病気は案じる事は要らん。直ぐ救けてやる程に。その代わり、おまえは、神の御用を聞かんならんで」
    親神様による「てびき」の実際を伝えたお話です。私たち人間は、陽気ぐらしを見て共に楽しみたいと望まれる親神様によって創造されました。すべての人間は、陽気ぐらし実現のための種を持つ存在として生かされているのであって、それが皆が幸せを求めてやまない理由です。しかし、その望みは必ずしも直ちに成就するものではありません。誤って自ら方向を狂わせてしまうからです。
    親は、子供が可愛いからこそ、その思案や行動がもどかしく、時に腹を立てることもあります。意見や躾も厳しくなるでしょう。親神様はこのように仰せになります。
      にんけんもこ共かわいであろをがな  それをふもふてしやんしてくれ (十四 34)
      にち/\にをやのしやんとゆうものわ  たすけるもよふばかりをもてる  (十四 35)
    私たちを何とか陽気ぐらしへ導こうとされる親心が、実に率直に表れているおうたです。その親心に応えて心を正すところに、親神様はその心を受け取ってご守護をくださるのです。
    病気や事情の嘆きの中に身を落とし込んでしまうばかりでは、事態は改善しません。大切なのは、親神様の慈愛のてびきを受け止め、前を向いて立ち上がることではないでしょうか。
    (終)
    13 min

About 天理教の時間「家族円満」

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