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kleśa : affliction苦悩
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前回のエピソードには、Īśvaraという言葉が出てきました。パタンジャリのヨガスートラでは、Īśvaraが特定の神として描かれないかわりに、その性質がリスト化して紹介されます。今日ご紹介するパタンジャリのヨガスートラ第1章の24節では、Īśvaraの性質が定義されるともに、Īśvaraとpuruṣaの違いが明らかになります。まず音読するところから始めていきましょう。
Īśvaraとは、kleśaクレーシャ、karmaカルマ、vipākaヴィパーカに一切の影響を受けない存在である。
karmaは「苦悩」と訳され第2章で詳しく定義されますが、このスートラにおいてkarmaは、私たちを行動へと駆り立てるエネルギーのこと。どんな行動にもそれを触発するエネルギーがあります。
エネルギーであるkleśaがkarmaを引き起こし、そのkarmaがvipāka(結果)をもたらし、それらが積み重なり習慣になります。本来の私、puruṣaは、kleśa、karma、vipākaから自由な存在であったはず。本来の自分からかけ離れた行動に出てしまったり、良くない習慣を続けてしまうのは、チッタ(意識)がkleśaの影響下にあるから。大切な人を傷つけるような事態に陥って、初めて自分が混乱していたのだと気づいたりします。
karmaから自由であるpuruṣaと、karmaと一切無縁であるĪśvaraは、似て非なるものです。karmaを引き受けないことは、損得勘定で衝動的に行動しないことだったり、自分の失敗を教訓にして過ちを繰り返さないことかもしれません。それによって本当に大切なものを守る選択ができるからです。次のスートラでもひきつづき、Īśvaraの性質についての解説が続きます。
23. Īśvarapraṇidhānādvā.
Īśvara イーシュヴァラ
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イーシュヴァラプラ二ダーナという言葉について
イーシュ 自然を司るという動詞に、ヴァラ なになにする者という意味の接尾語がついて、創造を司るもの、自然の摂理などと解釈されます。「私」を軸に考えると、イーシュヴァラとは、例えば私という存在と生命の根とを繋げているもの、その繋がりを思い出させてくれるもの。謙虚さや信頼について思い出させてくれる現象のすべて。
プラは完全なる、二は収められた、ダーナは捧げるという行為を意味します。Dhanaのdhaはsamadhiのdhiと同じ音であり、同じ意味を持つ音です。cittaを完全に一箇所に収めること、この場合はĪśvaraとそれが意味するものに収めること。
イーシュヴァラは、自然の理にゆだねること、また「神」への献身と理解している人もいます。「神」という言葉を聞いたときに心に描く姿はそれぞれです。人と同じような姿をした神、山や川に宿るスピリットのようなエネルギーかもしれません。どのような姿かたちであっても、または姿かたちを持たなくても、イーシュヴァラは、「私」に生命の根源との繋がりを思い出させてくれるもの。
イーシュヴァラプラニダーナを実践することは、自分の内側の世界に責任を持ち、外側で起こっていることや時間や数字、他人のせいにしないこと。例えば、良いことがあったときに成功を「私」が引き受けて有頂天になる代わりに、「私」が守られていることに気づき、感謝を持ち謙虚でいられること、または思い通りにならなかったときに周囲の人を攻めたり状況を嘆く代わりに、「私」には見えないところで大きな変化が起こっていることを理解し、流れに身を任せられるようになることです。また、他人の成功を目の当たりにした時、今は自分の順番ではないのだと理解し、精進できること。他人の成功を素直に喜べる態度のことかもしれません。意識の鏡に映る現象のすべてに対して、小さな「私」で引き受けないことです。
なぜ「私」で引き受けないのかという点については、次のスートラで示されるイーシュヴァラの性質が明らかにしてくれます。
サマーディは、ヨガの手段、道であって最終目的地ではありません。
22. Mṛdumadhyādhimātratvāttato'pi viśeṣaḥ.
Mṛdu-madhya-adhimātratvāt-tato (tataḥ)-api viśeṣaḥ.
mṛdu: mild(ness) マイルドに
更には(心を集中させてからも、アサンプラッジャータサマーディに近づく速度は)熱心さの度合いによって、ゆっくり、ほどほど、速くなる。そのような意味を持つスートラです。
21. Tīvrasaṃvegānāmāsannaḥ.
ヨガスートラの第1章2節は、Yogaścittavṛttinirodhaḥ. 4節は、Vṛttisārūpyamitaratra でした。Vrittiが渦巻く意識の状態から、Vrittiと自分自身の間に少しずつ距離を取る術を学び、心の静寂Nirodhaを目指していくというもの。
私たちは日常で、騒音と静寂のバランスを見出そうとします。でもヨギーであれば、自らの意思で、そこにある距離を縮めようと努力します。なんとか外向きに平静を保とうとするのでも、騒音を遮断してしまうのでもなく、ヨギーは騒音をつぶさに分析し事実と想像にふるい分け、また静寂についても同じように分析し理想を手放します。
その過程で静寂の割合が少しずつ増し、穏かなマインドが定着するように、物事の繊細な側面に取り組んでいきます。
その方法の1つとして、形あるものから、より繊細なものへ、経験していることをつぶさに観察し分析する瞑想、サンプラッツジャータサマーディ。そして分析を手放したところにあるより深い瞑想、アサンプラッツジャータサマーディが紹介されました。
20節から22節に掛けては、では今、自分はどこにいるのだろう?自分の現在地について気づかせるようなスートラが続きます。
Tīvra-saṃvegānām-āsannaḥ.
tīvra: intense 集中
心を集中させて取り組めば、(アサンプラッツジャータサマーディ)に近づくことができます。
ヨーガスートラは「気づき」を促すものです。このスートラでは、人として生きている限り、心が散漫になるのは自然なことだけれども、現在地を明確して、今やるべきことに取り掛かろう、そしてやり続けよう、と気づきを促すことができます。
あの人より私のほうが熱心だとか、もう少し時間ができたら集中できるのになどと、気休めを得るものではないということです。ヨギーは、どんな自問にもaction、abhyasaが伴うことを知っています。行動、実践なくして変化を起こすことはできないからです。
ここまでに2つの瞑想のステージ、サンプラッジャータサマーディとアサンプラッジャータサマーディが出てきました。パタンジャリのヨガスートラの20節目からは瞑想の質や取り組み方が具体的に示されます。このエピソードでは19節をご紹介したあとに、1節から19節までを通しで、ゆっくりと音読してみましょう。
19. Bhavapratyayo videhaprakṛtilayānām.
Bhava-pratyayo (pratyayaḥ) videha-prakṛti-layānām.
bhava: coming into existence 生まれながら
生まれながらにサマーディの質を兼ね備えているのが(プラクティスを必要としないのは)、天使達や万物の根源である神々です。
【チャンティングのヒント】
文法ルールによって音が変わるところがあります。ポッドキャスト音声をご参照ください🔗
【MEMO】
Videhaとは肉体を持たない存在、そしてPrakrilayaとは、物質原理と一体化しているもの。神々や天使、このVidehaもしくはPrakritilyaは、生まれつき「サマーディ」の質を持っているという考え方です。例えば幼くして目覚めたものと呼ばれる人、ヨギー、生まれ変わり、聖人と呼ばれる存在もPrakritilayaに当てはまることがあります。
アサンプラッジャータ・サマーディ 静寂と共にある瞑想
Virāma-pratyaya-abhyāsa-pūrvaḥ saṃskāra-śeṣo (śeṣaḥ)-anyaḥ.
virāma: 休止 cessation
実践(瞑想)によって心の静寂が深まると、もうひとつの集中状態、アサンプラッジャータ・サマーディが起こります。ここでは心はサンスカーラと切り離された状態ではありません。
この自分を俯瞰する瞑想によって内省を深めることができます。私は何にもっとも影響を受けているのだろうか。それはなぜだろう。本当の私は、自分のハートを何につなぎとめておきたいのだろうかなど。
今日ご紹介するスートラでは、サンプラッジャータ・サマーディが深まった状態、頭に打ち消しを表す接頭語「ア」をつけたアサンプラッジャータ・サマーディについて定義されます。識別すべき領域を超えたところにある静寂の瞑想。今日はすこし発音に注意しながら音読してみましょう。
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